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海老の尻尾を食べるのはわたしだけだった

パパンが死んだ。パパンは父だ。
カミュの小説にそんな一節があったな、と思って、そんなことを口に出した。後で調べたら、正しくは「ママンが死んだ」だった。
ちょっと違う。
そんな言葉を口にしたのは、リアルにパパンが死んだからだ。
パパンは父だ。
それほど仲がいいわけではなかった。悪いわけでもない。
もう何年も離れて暮らしていた。コロナがあり、顔を合わす頻度も少なくなった。
それゆえになんとも言えない複雑な気持ちになる。
以前からうっすらとした存在が、するりと消えてなくなったとでも言えばいいのか。
わたし以外の家族はそうでもないだろう。
近くに住んでいたし、最後を看取った。
長く夫婦として過ごしていた母は大きなものを失ったと思っているだろう。
わたしにはそのどれもなく、ただ人生の節目がぐいと目の前に迫ってきたような感覚だけがある。
悲しみより先にそれがある。
泣けない。涙が流れない。
ただぼんやりしている。突然、打たれた読点にどうしたものかとぼんやりしている。
そもそも、そんな簡単に泣いていいものなのか。泣いてしまえば何かが終わるのだろうか。
よくわからない。
よくわからないというのが、わたしの死に対する態度だ。
人の死も。自分の死も。
唐突に訪れ、唐突に終わる。そこにはなんの感情も付随していない。
ただの死。
ただの終わり。
それを認めたくないから、どこかに意味を見つけようとするのだろう。
父の人生に意味がなかったわけではない。わたしの父も残したものはいくつもある。
わたしも兄弟たちも父の残したものだ。
父はどうしても子どもが三人欲しかったようだ。
そしてわたしは三人目の子どもだ。
わたしが母の腹にいるのがわかった時、祖母からはずいぶん反対されたらしい。
父と母が知るか、と言ってわたしは生まれた。
ちなみにわたしはお祖母ちゃん子として育った。
深く考えると意味がわからなくなる。
とはいえ、それは死とはなんの関係もない話だ。
死はどこまでも無意味だ。
葬式という儀式でそれを覆い隠しているだけのようにしか思えない。
死んで冷たくなった父を火葬場に連れていく。
人が焼かれる匂いは独特で、表現のしようもないが、食欲はそそらない匂いだ。
父を焼く間、わたしたちは近くの施設で食事をする。
よくある懐石料理だ。
さすがに焼いた肉は出てこなかった。まあ、そらそうか。
飯が喉を通らないとかそんなことはない。みんなちゃんと食べていた。
食欲と悲しみは別問題だ。人は泣きたい時に泣く。食べたい時に食べる。すけべしたい時にすけべする。
なんか文句あるか?
食事が進んで、ご飯、汁物、香の物、天ぷらと出てくる。
あーだこーだと話しながら食べていて、ふと気づいたのが、海老の天ぷらの食べ方だ。
海老の尻尾を食べるのはわたしだけだった。
どうしてこうなったのだろうか、と思った。
でも海老の尻尾はちゃんと火が通っていて香ばしかったので、別に食べてもいいはずだった。
けれどもみんなは食べなかった。わたしだけ食べた。

食事が終わり、父の収骨に向かう。
炉の中から出てきたのは、まあ、骨だよね。焼けた骨。人ではない。
案内係のような人に説明されながら、骨を拾う。
色々説明してくれて、なんとなくエンタメ感があった。
収骨が終わり、我々は施設を出る。
天気は快晴で、誰も泣いていない。
来年、また会いましょうとかなんとか言って、それぞれの家に帰っていく。
途中、わたしたちの乗った車が、馬鹿みたいなスピードで横道から呼び出してきたチャリの中坊たちを轢きかける。
轢いてもよかったんじゃないかと少し思った。
どうせどっかで死ぬんだから。
あの中坊が死んでもわたしは絶対に泣かないだろう。
飛んできた蚊を殺したような気分にしかならなかっただろう。
結局、父の葬儀でも涙を流して泣くことはなかった。たぶんそれもわたしだけだ。
でも、中坊が死んでもなんとも思わないぐらいの気持ちにはなっていた。

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