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あの頃人気者だったA君は今

皆さんも、「人気者のA君」といえば誰か一人思い浮かぶのではないだろうか。A君でなくともS君でもT君でも、はたまたMちゃんでもYさんでもいいわけで、そんなことはどうだっていいのだが。学生時代、スポーツができて背が高いとか、イケメンで明るくて友達が多いとか、はたまた、スポーツができて美人とか、可愛くて可愛くて可愛いとか。


それぞれが無意識のうちに学校内にはヒエラルキーが形成されていて、無意識に誰かが上の方に、誰かが下の方に、位置していた。


だが、学生時代のヒエラルキーは大人になった今、人間としての面白味のパラメータにはならない。全く関係がないと思うのだ。だから、そんな序列なんて無意味だ、気にしたりつけたりする意味がない。


というのも、わたしにはいろいろなヒエラルキーの友達がいる。高校三年生の時、そんな風に友達を分けてはいなかった。ヒエラルキーという言葉が嫌いだ。なんせ、自分がとっても微妙なところに位置していたからだと思う。

わたしもきっと無意識のうちに、学校内であの子達は目立っていてリアルが充実しているいわゆるリア充な感じ、と認識しひとくくりにすることはあっただろう。だが、高校三年生の時のクラスには、そんな序列を感じなかったのだ。本人たちは、それぞれに序列をつけるほどにはお互いに無関心、だけど仲が良い不思議なクラスだったように思う。


学校内で人気者だった別のクラスのA君(仮)に久しぶりに会ったら、当時素敵だなあと感じていた感情が吹き飛びあれは幻だったのだろうかとガッカリしたことがあった。

かわりに、高校三年生の時のクラスのみんなは、ヒエラルキーとかそんなの誰がどこに位置していたとかは知らないが、みんな面白い。


わたしは自分自身をこう分析している。クラスの目立った子からいじられていて仲はいいが、それでも自分の芯はぶれずに持っていた一人が好きな微妙な存在だった、と。人気者になりたいとも思わなかったし、あいつは人気者だからと斜に構えることもなかったし、でも友達はみんな好きだった。


なぜ人は、序列をつけたくなるほど他人に関心があるのだろう。思春期のそんな気持ちも分からなくもない。社会人になった今も、仕事のできるできない、独身か既婚か、空気の読める人かどうかなど、様々な基準で他人を自分より上や下に配し、安心したり悔しがったりしている人がいる。


高校三年生のあのクラスは、みんな賢かった。みんな適度に距離があって、それぞれの世界があって、今もそれぞれの世界観の中で生きている。序列をつけるために関心を持つなどという無駄なことはしない。有難いほどに賢かった。


序列の上に立つこと、序列をつけることは、無意味だ。


あの1年間は本当に素晴らしい環境だった。みんなにありがとうと言いたい。ヒエラルキーなんかに負けるな。それぞれがみんな、面白い。


#エッセイ #日記 #高校時代 #人間関係

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