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人は(自分は)結構簡単に変化する

昔は洋画は字幕でしか観なかった。

映画に触れ始めた子どもの頃、家で観る映画の大半はテレビで放映される吹替による映画で、映画館やレンタルビデオでしか体験できない字幕に特別なものを感じていた。それに慣れきってしまったことで、逆に吹替で映画を観るという思考そのものがなくなってしまっていたのだと思う。

歳を重ねるごとにそんな固定観念は薄れていったが、今でも映画館で観るときは字幕を選択することが多い。単純に洋画は字幕の方が上映する場所をスクリーンの質も高いし、とりあえずは演じている人の声を直接聴きたいと考えているからでもある(子どもと観に行く映画は吹替だけど)。

ところがここ数年、映画館で観る場合を除くと、ほとんどの映画を吹替で観るようになってしまった。原因はコンテンツを耳で、かつ「ながら」で視聴することが極端に増えたからだ。

数年前からハマり始めた音声コンテンツにより、日常的に多くのコンテンツを耳で楽しむようになった。ポッドキャストやラジオ、オーディオブックだけでなく、YouTubeや Netflix等の映像コンテンツも音だけで楽しむことがとても多い。耳だけで楽しみつつ、映像を確認したいときだけ画面を見る。

もちろん、集中して映像も含めてしっかり観ることも多々あるし、字幕でがっつり観ることもある。ただ、音声コンテンツとして動画も楽しむことが日常になったことによって、映画(洋画)を観るときにデフォルトで吹替を選択するようにすっかり変わってしまった。昔の自分を思うと考えられない変化だ。Netflixのドキュメンタリーなど、吹替が提供されていないとストレスさえ感じるようになってしまった。びっくりだ。

今回は、音声コンテンツを楽しむための自分の趣向が、映画を観る際の言語設定(字幕/吹替)の趣向を上回ったことによって塗り替えられた。

これだけの変化(自分にとっては大きいのです)がこの歳になって起こるのであれば、案外どんな趣向やこだわり、そして固定観念みたいなものも、変わり得るのかもしれない。

まあ別に趣味嗜好を無理に変える必要はないかもしれないけど。

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