舞踏とキャバレー:1 美術の純粋さと割り切れなさ

■1 美術の純粋さと割り切れなさ

武藤大祐(以下:武藤) おはようございます。本日は早い時間から「土方巽 1960 しずかな家」の午前の部にお越し頂きありがとうございます。この会の司会を務めさせて頂きますダンスの評論をやっております武藤大祐と申します。よろしくお願いいたします。
 まずはじめに今回の登壇者の皆さんをご紹介したいと思います。
 私の隣からですけど、ご紹介するまでもありませんが、大野慶人さんです。舞踏の草創期からキャバレーの現場に至るまで隅々までご存じでいらっしゃいます。
 つづきましてそのお隣が小林嵯峨さんです。
小林嵯峨(以下:嵯峨) どうも小林嵯峨です。(拍手)
武藤 こちらもご紹介の必要もないかなと思いますけれども、特に後期の白桃房の時代以降、ひじょうに重要な役割を担ってきた舞踏家で現在ももちろんご活躍です。
 それから少しスペース挟みまして、中央にいらっしゃるのが田野さんです。今日は初対面なんですが、キャバレーと舞踏の最も貴重な証言者で、踊り手としても非常に重要な方です。本当に今日はお越し頂きありがとうございます。(拍手)
 それから続きまして川本裕子さんです。川本さんは和栗由起夫さんに師事されて、そのあとずっと「東雲舞踏」で活動されています。若い世代から見てどう思われるか、ということを伺いたくて来ていただいたということになりますね。(拍手)
 最後になりますが、この企画の主催者で全部の企画を手がけられた檀原さんです。
檀原照和(以下:檀原) よろしくお願いします。 (拍手)
武藤 今回「舞踏とキャバレー」、土方と特に六本木の「将軍」というお店のことを中心にして話を伺っていく訳ですけれども、もう一段階大きなフレームワークとして、「黄金町とキャバレー」あるいは「風俗文化」との関係、それから土方巽が黄金町に住んでいた時期があって、そこでキャバレー的なものとの接点もあったという経緯があります。ですからこの企画を黄金町でやるという趣旨について簡単な説明をして頂こうかなと思っております。檀原さんの方から手短に大枠の説明をして頂きます。
檀原 今回の趣旨なんですけれど、もともとは土方と離れたところから出発していまして、黄金町というすぐ隣のエリアですね、そこでこの10年間「アートをつかったまちづくり」が行われています。なぜ黄金町で「アートをつかったまちづくり」が行われているかというと、ぶっちゃけて言ってしまえば防犯のためです(*註)。知っている人は知っている話ですが、元々治安の悪い地区でしたので。「防犯のためになにをする」となったときに偶々横浜市が「創造都市構想」というのをやってまして、そこに当てはめる形で始まった訳です。黄金町でアートをやる歴史的な整合性や必然性は、はっきり言ってしまえばありません。需要がないところに持ってきているだけですから。
 そこに後付けのような形になりますけど、土方巽という世界的なアーチストが1960年、ほんの1年なんですけど住んでいた、という歴史を提示することで、だから「アートをつかったまちづくり」なんだという風に理由付けすることが出来ると思うんですね。そういう趣旨でこのイベントをやっています。
 土方さんが黄金町に住んでいたときにキャバレーでショーダンスをしながら生計を立てていた。その辺の話は慶人さんがお詳しいんですけど、黄金町で土方巽の話をするのであれば、そこを掘り下げるのが当然であろう、と思って企画致しました。
 
*註 黄金町は終戦後の混乱期から2006年初頭まで悪名高い「売春と麻薬の町」だった。警察と行政による浄化作戦が始動してからも、いくつもの反社会的組織が雌伏したまま機を覗っている。現代アートをつかったまちづくりが採択された理由の一つは、アートであればそうした組織が介入してシノギの場にする危険性が著しく低いためだと考えられる。 
 
武藤 最近アートというものがまちおこしに使われるようになって、アートの持つ純粋性が街の風景を改善していく、街の風俗を浄化する、そういう側面で利用されることがひじょうに目立ってきている訳ですね。
 舞踏はある意味純粋な芸術とはちがった側面、いかがわしい側面や前衛的な側面がリンクしながら成立していたものです。「これは純粋なアートで綺麗なものである」とか「これはいかがわしいもので、出来ればない方が良いんだ」とか、そんな風に簡単に切り分けられないのが舞踏という形で成立していたし、キャバレーでは芸として成立していた。単純に割り切れないものとして舞踏というものを捉え直していくことが、黄金町でアートが「排除アート」として使われていることに対して、なにかを投げかけることになるんじゃないか、という大きいフレームワークを檀原さんはお考えになっていると言うことですよね。
 僕はそれをひじょうに面白い問題提起だなと思っています。コンテンポラリーダンスというものが舞踏の後に出てきたんですけれども、それが萎んでしまったその背後に高尚なだけのものではなくて、いかがわしさであるとか、猥雑性であるとか、娯楽性であるとか、芸能性といったものを排除して「これは芸術なんだ」と考えてしまう傾向があったんじゃないか、と僕は最近考えるようになってきていまして、檀原さんのお話に共感して「ぜひやりたい」と思って司会という形で関わることになったんですね。これは大枠の話です。

ー構成・檀原照和ー

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