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あなたは『標本の蝶』になりたいですか?――「こうあるべき」という「概念」の話

「読みたい本」の無い本棚

今日、「読まない本が多いから本棚を整理しよう」と思い立って本の整理を始めた。

小説家を名乗る上で信じられないかもしれないが、私は本をあまり読まない。
最近気づいたのだが、1mm……いや、1cmぐらいの興味がないもの、または出だしはともかく中盤まで面白くない本がもっぱらダメなのだ。

結局、積読して永遠に読まないコースだ。

なので、本棚には本があまり必要ない……のだが、家にある本の多さに驚いてしまった。

それも、「頑張って読もうと思って買ったけどダメでした」パターンの多さに唖然とした。

「読みたくて買った本」の少なさには唖然を通り越して悲しくなってしまった。

とにかく可哀想だった。「小説家なんだから本を読まなきゃ」と涙目になりながら買った私も、本棚の名作も。

どうしてそんな本を買っていたのか。
私はずっと、ある考えに囚われて生きてきた。
「〇〇なんだからこうある”べき”」と。

要するに、「小説家を目指すなら本を読むべき」「小説家を目指すなら映画を見るべき」と自分に重く言い聞かせてきたせいで、それらにアレルギー反応が出るようになってしまったのだ。

幼少の頃からその傾向はあったと思うし、今も「こうあるべきなんじゃないか」という考えに支配されている。


バケモノの足に合わないガラスの靴


学生時代、「普通になりたい」「人間にしてほしい」と明らかに普通になれない自分の足を普通というガラスの靴に押し込めようとしていた。
この思考は「こうあるべき」の延長線上にあった。

だが、その足には羽がついていた。どこまでも高く飛べる可能性の羽が。
学生時代の私には、明らかに「普通」のそれではなく何らかの素質が眠っていた。

先日のnote酒場もだ。

「大人数の場こういう人間であるべき」を常に考えて、自分以外の誰かになろうと立ちまわっていたせいで、翌日から1週間まるまる寝込むハメになった。

そして、本来私が「不快だ」と言っていい局面に出会った時に逆に謝るなど、自分に対して失礼な対応をしてしまった。

私のその「こうあるべきだ」は、きっと数多くの可能性の開花を遅らせてしまった。


「好きな物語」のない褪せた道


また、先日、作家仲間と飲みに行ったとき「自分の礎になった作品」について話した。
声が詰まった。今も、なかなか見つけられない。

「小説家としてあるべき作品」に到底たどり着けないと思ったからだ。
友人たちは自由に作品を語っていたのに、私はつい探して数少ない読んだことのある名作ばかりを挙げてしまった。

今考えれば「めんどくさい人物」が好きなのは事実だが、おそらく特別好きな作品ではないのだ。だって読みづらいし。


道筋をたどっていくと、私には「好きでたまらないもの」との出会いが特別少ない気がした。殊更人物にフォーカスされやすい。

更に、傾向として「好き」は自由を可としたテレビ・YouTubeなど映像作品に多いし、「こうあるべき」と隣り合わせだった映画は極端に少ない。
「キャラは好きだけどストーリーが……」という作品との出会いが圧倒的に多い。

あまりに酷い。

私は一体何をよりどころに生きてきたんだとすら思ってしまう。

好きな創作だって、プロになってからずっとずっと「こう書くべき」に囚われていた。
そして、自分が夢を叶えた人間であることを言って回ることも、自作を名著だと自慢することも「つつましくないからやめるべき」と思っていた。

なんだこれ、全然楽しくない。

私は小説を出しているし、その2冊は確かに売れてないけどめちゃくちゃ面白いし読んだら元気になるというのに、一体何でこんなことになっているんだ。

これは、日がな私に「好きに生きろ」と言ってきた父の言葉を今日まで無視してきたことになる。
小説家になったはいいが、「好きに生きるとはこうするべき」ばかり気にして、全然好きに生きていないではないか。


それはあなたの羽を邪魔していないか


「こうあるべき」。
その先にあるのは果たして「なりたい自分」の姿なのだろうか。
「あるべき自分」は幸せなのだろうか。
きっと答えはノーだ。

「あるべき姿」というのはあくまでテンプレートでサンプルだ。
「こういう人だよね」というのはあくまで見本品。
ピンで止められた動かない蝶、生をもぎ取って生まれたはく製。
そんなものなのだ。

私が「こうならなきゃ」と思う物には、生気を感じられない。それなのに、私はそれを少ない財をはたいてそんなものを目指し、挫折感まで味わっていた。
徒労もいいところだ。


教育業界のコーチングの世界では、「こうあるべき」は『概念』と呼ばれている場合がある。
そして、そのセッションが目標としていることの一つは『概念からの解放』だ。

そう、これの『べき』達は全て「私の羽に刺して苦しめる邪魔なピン」なのだ。

私たちは、気づけばこういったものに「ありたい自分」への成長を邪魔されてしまっている。

纏足のように、小さな靴に無理やり足を詰めたみたいな、歪なものへと成長していってしまう。

形が歪ならば、当然まっすぐ育つよりもストレスを感じるだろう。

いや、あなたの羽ばたきを止めるピンそのものがストレスなのだ。


ところで、最近わたしは四柱推命の本を読み始めた。

あまり本を読まない私だが、この1週間で3冊の本を手に取り、そのうち1冊は最も苦手とする昭和末期に書かれた「難しそうな本」だ。

だが、多少は詰まれども全然読めているし、内容も頭に入る。

それは、私が「本当に読みたい本」だからではないだろうか。


――あなたの羽根に、ピンは刺さっていませんか?

――その美しい羽根の羽ばたきを邪魔してはいませんか?

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