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寂しさつのる秋の夜に・・・9月21日は特別な日。

お彼岸
母が伯母のお参りにいくのに付き合うことになりました。
いつ行くのかと聞いたら「できたら21日がいい。命日だから。」
こうして私は、9月21日伯母の命日にお寺に同行することになりました。お彼岸の中日というので、お寺はたくさんのお参りの人がいました。読経の順番待ちは1時間40分でした。

伯母
伯母は母の二番目の姉で、24歳の歳の差がありました。看護師として大阪で働いていたので、母を呼び寄せ大阪の看護学校に入学させたそうです。
伯母の働いていた病院は戦争で身寄りのない人を収容していました。そのような人が亡くなると、このお寺で供養したそうです。大阪の中心部にあるお寺はお参りの人が絶えません。「ここなら寂しくないから、入れて欲しい」それが遺言でした。
母は月に1度お参りに訪れます。時々私も同行しますが、命日に来たことは初めてでした。

独身寮
伯母は独身で、定年退職まで病院の独身寮に住んでいました。白い壁で人気のない寮は凛として冷たく、少し怖い印象でした。小学生のころ、よく伯母の部屋に泊まりに来ていました。日曜の朝、犬養 孝の「万葉の旅」の番組を見ていた記憶があります。あとは寮や病院の庭でクローバーを摘んだこと。駅前のデパートで藤のバスケットを買ってもらったこと。ちょいといい洋服で写真に写っているのは、伯母が買ってくれたものでした。

帰郷
定年退職して、伯母は故郷の広島に帰りました。歳をとって少し寂しくなったころ、父の親類からシーズー犬を預かることになりました。名前はラッキーでした。この犬はワガママで性格が悪く、伯母はお犬様と召使いのようでした。それでも朝夕に散歩に出かけるようになり、伯母も健康的に暮らしていました。

晩年
体調が芳しくなく、ラッキーはまた元の親戚へ送り返されていきました。母が知った頃には、伯母は随分痩せていたそうです。体調不良の原因が分からず、兵庫県の元同僚の病院で検査することになりました。そこは伊丹空港の近くの病院でしたが、40歳で車の免許を取り、田舎道しか運転したことのない母が、阪神高速を運転し飛行機の標識だけを頼りに、お見舞いに通っていました。

難病
ナビもない時代でしたので、初回のときに同行しましたが、飛行機の標識を見て、関西空港へ行きかけていました。高速道路を降りると、「病院の匂いがする!」と言い、野生の嗅覚で、本当に病院を探し当てていました。あんな恐ろしい運転は2度と付き合いたくないです。
そこでついた病名がALS(筋萎縮性側索硬化症)でした。そこで、私たち家族の住む大阪府内にある病院に転院することになりました。

そのころ私は娘の育児休暇中で時間はありましたが、ペーパードライバーで戦力にはなりません。ですので病院に勤務しながら母が全てを取り仕切っていました。
伯母のマンションを用意し、リフォーム、広島の家の片付け、転院と、猛烈に頑張っていました。私たちは伯母の体調不良を知ったころには、かなり病気が進行していました。伯母、母、私も看護師だったので、それぞれが厳しい現実を受け入れていました。

退院準備
9月に入り、家の準備が整い、退院の相談を主治医にしました。ところがマンパワー不足を指摘され、退院許可が下りるませんでした。確かに11月に職場復帰する私と、看護部長の母です。どうみてもマンパワー不足です。母はかかりつけ医を見つけて訪問診療をお願いし、そして辞表を準備しました。

伯母が大阪の病院に転院してから、母の勤務先の奈良県から、1日にも欠かさず通っていました。もう限界でした。辞表は院長からストップがかかりました。母がキレそうになったようですが、とにかくしばらく休むように説得されていました。誰がどう見ても、長くないことが分かっていました。

お菓子の家
ようやく準備が整い新しい家に、伯母を連れてかえりました。新しい家はクリーム色の壁と茶色の扉、段差を極力無くし、住みやすく美しく仕上がっていました。
「新しい家はお菓子の家のようだね。」伯母は気に入ってくれてようでした。

高台のマンションの6階の窓際にベットを準備しました。そこに9ヶ月になる娘が、まとわりつくのを、伯母は目を細めて喜んでいました。
実は伯母の金運の強さにあやかって、娘の名前は伯母から1字をもらっています。おかげで娘はまずまずの運の強さを引き継いでいます。あの日の外からくる秋の風が懐かしく思い出されます。

夜は伯母のベッドの下に並んで、母と私、娘で寝ていました。ほぼ寝たきりの伯母を介助するためです。母は疲れて爆睡していたようで、私が介助することにしました。「わたしがするね」声をかけたら「ものすごい頭・・・くっくっく」伯母が笑いました。わたしの頭は、寝癖で山姥のように逆立っていたようです。それでも伯母が笑ってくれたのがうれしかったです。

救急搬送
その時、私と娘がどこにいたのか記憶が曖昧なのですが、
呼吸が苦しそうだから、救急車を呼び、母が付き添い近くの病院に運び込みました。運び込んだ先に、母の知り合いの看護師さんがいたそうです。
伯母は声も出せていなかったのですが、なんとしても聞き取りたいと、聴診器を借り伯母の口元に当て、聞き取ろうとしました。「ありがとう」と伯母が言ってたと母が言いましたが、それなら聴診器なしでも、口の動きでわかるようなもんだが・・・とずいぶん過ぎてから母に突っ込んでおきました。

見事な最後
そこからかかりつけの病院に転送され、主治医が駆けつけてくれました。朝方、息を引き取ったそうです。臨終後に主治医と病棟師長をまじえて、事前にカルテには延命はしないことなど、話し合いがなされていたと聞きました。それは私たちには知らされていませんでした。師長さんは「立派な方でした」と仰いました。
母が最後に看取れたのでよかったです。

小鳥とトンカチ
お通夜には病院の同僚の方が来てくれました。その時、伯母の一番仲良しの方が、
「むかし寮で、こっそり鳥を飼ってたの。その鳥が逃げて、みんなで探しに行ったのよ。そうしたらトンカチが落ちてたのを見つけて、こんなの見つけたわとワイワイいっていたら、〇〇さん(伯母)がね、泣いて、鳥を探していて、どうして足元のトンカチを見つけるのよ!!鳥を探しているなら、そんなもん見つけられないはず!!」と泣きながら起こり倒したというお話を聞かせてくれました。

ちょっと可愛い伯母のエピソードでした。確かにおちゃめな人でしたが、私から見ると、華道、茶道を嗜み、文楽を好み、おしゃれで、着物も着こなし、すべてにおいて趣味のいい粋な人でした。残念ながら姪である私は、粗雑でお茶もお花も興味も、てんで興味を示さない無粋者でした。

台風
葬儀の日は大型の台風でした。私は精進落としで広島から来ていたイトコと久しぶりに盛り上がっていました。ふと外をみると、ローソンの看板が吹き飛んでいました。台風で街は一変していました。というわけで遠方から来ていた親戚か帰れなくなりました。

実は焼き場も停電で冷却機能が停止し、お骨揚げが次の日になると、係の方が説明に来られました。その時、母が「まさか姉さん、生焼けでないでしょうね!!」と恐ろしいことを口走っていました。だから冷却装置って言ってるのに・・・日頃は沈着冷静な部長さんも寝不足と疲労で、完全におかしくなっていました。

特別な日
このように25年前の9月21日に伯母はなくなりましたが、奇しくも同じ日に、ロサンゼルスオリンピックでのメダリストでアメリカの陸上選手、フローレンス・ジョイナーの亡くなっていました。だからこの日は、私にとって伯母とジョイナーの命日であります。

粋な女と男
葬儀のあと、ある人からお供えが届きました。母が言うには、どうやら伯母が昔お付き合いしていた方だそうです。女の先輩として、伯母がものすごくカッコよく思えました。私も亡くなってから元彼からお供えが届くような女になってみたいものです。しかしそんなことを、してくれそうな人は・・・いそうにないです。
所詮、粋な女には粋な男、無粋な女には無粋な男でしょうね。諦めよう。

その後
母は仕事の復帰しました。仕事をしながら、伯母の広島の家の処分、遺品の整理、遺言を守り、大阪のお寺に分骨を永代供養に納めました。伯母のマンションは、処分するのに母には10年の歳月が必要でした。たった一晩しか住めなかったのが悔しかったのでしょうね。あの部屋へは、ときどき風を通しに行きましたが、窓からの眺めを見るたびにあの日を思い出し、伯母を失ったあの日に戻されるようでした。つらかったです。

伯母が孫の可愛がってくれた娘は、長じてお茶のお稽古や着物が好きで、古典文学が好きな娘に育ちました。おそらく伯母が生きていたら、一番気が合ったと思います。これは本当に残念です。

2022年
それにしても今年は、ファミリーヒストリーの調査から曽祖父の存在を知ることになったり、伯母の命日にお寺に行くことになったり、亡くなった人から引っ張られているようでなりません。実はまだいくつか面白い出来事がありますが、また後日書くことになるでしょう。今年は例年になく勘が冴える年のようです。

秋の夜長、伯母を思い出し、らくがき帳に書き連ねていました。
ではでは




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