少女終末旅行全巻読了時の心境と感想

救いの無さすぎる最期だが、そこには絶望に近くて、でも絶望とは違う別の何かが確かに存在していた。ただ僕が強く決意できるのは、明日もまた、強く生きるということだった。
この作品にはその力とそうしなければいけないという意識を芽生えさせる程の豊かさが存在している。あの二人はあの先どうなるかはわからないけど、きっとそんなに長くはない。でも僕はまだこの先もずっと長く存在していけるのだから、だからこそ、こんなところで”終末”を感じて止まってはいけない。先へ進むべきだ。歩みを止めてはいけない。
最終話の暗闇の中の二人のように。どんなに暗くても道は続いているし、その先には光だってあるかもしれないということをこの作品は教えてくれた。二人はこの旅を通して、世界の広さ、楽しさ、心の強さ、雄大さ、様々なことを伝えてくれた。二人が、この本が、それを意図してなかったとしても、それは良いと思うし、むしろそうであってほしい。


話はすこしズレるがこの本は他の漫画等と違ってセリフがとても少ないように感じた。セリフが少ないというか、背景が多いように感じた。
その背景の多さには、きっとこの二人の旅で表しきれなかった感情や気持ちが多分に含まれてると思う。これがただの表現技法だとしても、意図しなくても、そこには確かに誰でも描くことのできるキャンパスが広がっていたのだ。この背景から、そう考え、感じたし、そこには、作者のつくみずさんのそれもきっと描いてあると、僕は願う。
だから、さっき「二人が、この本が、それを意図してなかったとしても、それは良いと思うし、むしろそうであってほしい。」と、言ったのだ。そんな自由がここには広がっていると、解釈したのだ。


この物語に魅了された僕は、当然ながらインターネットブラウザで「少女終末旅行」と入力するわけだが、そのサジェストで「少女終末旅行 鬱」と出てきて、わかるような、わからないような、不思議な感覚に襲われた。
確かにこの漫画は、外側から世界の全てを観察している”傍観者”である我々からすると、「人類の残りが自分たち二人しかおらず、都市機能も崩壊、残されたものもわずかという絶望的な状況で目的地につくも、そこには何もなかった」という鬱物語と捉えられるかもしれない。
ただ、彼女らからすると、それは違うのかな、という気もしてくる。なぜなら、彼女らはきっと納得することができたからだ。
今まで出会ったモノ(カナザワ、管理ロボット、人工知能etc…)達も皆、過去の自らの行いを肯定しているだろう。そこには自分の選択を後悔しているモノはきっと一つもいないだろう。その中の一つにチトとユーリは成れたのではないかと考える。理由はもはや自明だが、あえて言葉にするなら「目的を達成し、終わりを見ることができた」からだろう。

彼女らも己の旅の中で、「何故」と思うような不可解な思想や感情があったはずだ。それらの話の中で出た一種の解は、強く断定できないものの、たしかにあったと思う。それらの清算がきっと、ケッテンクラートが無くなり、徒歩で雪道や暗闇の中、そして階段を抜けた先でできたはずだ。そんな状態の彼女たちは、衣服などはボロボロかもしれないが、心の中はどこか澄み切っていて、幸せそうだと、僕は感じた。最後のシーンの「生きるのは最高だったよね…」「うん…」は、諦めからくる自己肯定ではなく、全てを出し切った後の、真の自己肯定だと僕は捉える。だから僕はこの漫画を、鬱の中にある幸せな物語だと解釈することにした。見方や見る人によって感じ方はまるで違ってくる不思議な作品でもあると思う。余白の多さが文学作品のようにも感じた。文学作品と比喩するのは他方から石が飛んできそうだが。まあ、そんなところだ。

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