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夏の終わりに恐怖の予行演習を――『エルム街の悪夢:ザ・リアル・ナイトメア』

【週報】2017.08.21-27

よう、おれだ。
元気してるかい。
八月ももうそろそろ終わりだな。社会人のあんたはお盆休みは満喫したかい。学生のきみは宿題は終わらせたかい。
おれか。おれは日々を満喫しているよ。宿題といえば、いま書いているこの原稿だ。

好きで見ている映画の感想を書くようになってしばらく経つが、毎度まいどどんなことを書こうか悩むんだ。といって、実際書きはじめると、それなりにするする進む。
肝心なのは、そして面倒なのは、どんなことを書こうかと、考えているあいだだな。ここで詰まっちまうと、なかなか書きだせない。
たとえば、このあいだうさぎ小天狗と見にいった『スパイダーマン:ホームカミング』
小天狗はツイッターの方でいろいろつぶやいていたが、あれはいい映画だったと、おれも思う。

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だが、いざここで書こうとすると、なかなか手が動かない。嫌いじゃないんだが、そうだな、おれ向きじゃないとでも言おうか。もうちょっとニッチな感じがおれの好みなのさ。

それに、おれにはちょっとした構想があった。
あんたは、おれの、前回前々回の原稿を覚えているかい。
そう、『怪談』『13日の金曜日』についての原稿だ。
最初の原稿は、まったく偶然に書き始めたものだったが、次のものはテーマを決めて映画を見た。そのことは原稿の中でも書いたよな。そう、「夏はホラー映画の季節だ」ってテーマだ。
今回は、そうして書き継いできた原稿の、いわば最終回だ。これが終われば九月に入っちまう。すると、もうちょっと違ったテーマが出てくることになる。
そうなる前に、おれとしては、ホラー映画、恐怖に関する映画の締めくくりをしておきたいのさ。

しかし、いったい恐怖とはなんだろうな。
この世で最も古く、最も有名な「恐怖とはなにか」の言説を引用するなら、こうなるだろう。

 人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。その中でも、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である(引用者強調)

これはH・P・ラヴクラフトの言葉だ。有名な「文学と超自然的恐怖」の冒頭に書かれた、ある意味「宣言」とも言える箴言さ。
ラヴクラフトは恐怖に満ちた一生を送った。もちろん、彼の人生には喜びもあったろう、悲しみもあったろう。だが、彼は恐怖を見つめた。その結果があれだ。みんなの大好きな、そしてご多分に漏れず、おれも大好きなあれさ。
ラヴクラフトがなぜ恐怖を見つめたのかは、おれにはわからない。ディレッタント作家のスタイルを撮りたかったからか、それとも両親、特に幼い彼を恐怖せしめた、梅毒による父親の死によるものか。だが、後者だとするなら、この言葉が効いてくるんじゃなかろうか。

 恐怖はなくてはならない情動である。進化は私たちの心と身体に何よりも先に激しい恐怖が生じるように神経系を配線した。[中略]恐怖が本質的に重要なのは、生命が本質的に重要だからだ。死んでしまえば元も子もない。(引用者強調)

これはラッシュ・ドージア・Jrて人の『恐怖 心の闇に棲む幽霊』からの引用だ。本邦ではあんまり有名でない本だが、おれは好きだぜ。恐怖を「人間にとってなくてはならない感情」として、さまざまな事例を引きあいに出して平易に語った好著だ。
先の引用で、彼が語っているのは、「恐怖は人間が物理的な危険を避けるために神経系に設けたアラート機能だ」ということだ。たしかに、危険を認識した結果、怒る感情が恐怖だとすれば、恐怖は生存のための重要な感覚ということになる。

 恐怖を理解することで私たちは自分自身がわかってくる。人間はほかのどんな種より恐怖をたくさん抱えている。[中略]それにしても、人間の大きな脳がほかのどんな動物よりもはるかに多くの恐怖を抱くのはなぜだろうか。人間は気候の変化や捕食動物や病気など、あらゆる脅威に対して特別に対処する能力をもたず無防備だからだ。(引用者強調)

ドージアはこうも言う。なるほど、おれたちうさぎなら、こわいものを感じたら、一目散に走り去ればいい。だけど、人間はそうはいかないよな。おれたちほど耳も良くないし、鼻も利かないし、そもそも逃げ足も遅い。同じ人間どうしでもよくわからない。こわいものが多いだろう。
だが、おれたちだってこわいものはこわい。でなきゃ「脱兎のごとく」逃げやしない。では、そのこわさと、人間のこわさはどう違うのか。

 人間の恐怖は、肉体的な苦痛を予期して避けるという動物に共通の役割にとどまらない。屈辱や悲しみ、後悔、罪悪感、絶望と言った精神的な苦痛を避けるための方法でもあるのだ。(引用者強調)

そう、人間には精神がある。おれたちにも精神はあって、人間にはそれがわからんから、自分たちだけが精神的苦痛を避ける必要があると思い込んでいるんだが、それはこの際いいとしよう。
とにかく、人間は、肉体の苦痛と同じくらい大きな、精神のストレスを回避するためにも、恐怖というアラートを用いているんだ。
そうなると、ちょっと長いけど、この言葉も引用したくなるね。

 かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好むのが人間です。でも世の中すべてがそういう美しいもので満たされているわけではなく、むしろ美しくないもののほうが多かったりすることを、ヒトは成長しながら学んでいきます。この世の中には醜いものや汚いものがあり、人間の中にも残酷なことをする人がいる。さらに自分も人を妬んだり虐げたりすることがあり、反対に人からそうされたりもすることで、人間関係も含めた厳しい環境の中に放り込まれていくわけです。
[中略]それでも平均的にはほどほどの不幸とつき合いつつ普通は生きていくとしても、親や学校に守ってもらっている少年少女は、体験するまではそういう醜く汚い部分を実感することができない。自分の想像が及ばない不幸への不安に、ただ脅えるしかないわけです。
 前置きが長くなりましたが、でも世界のそういう醜く汚い部分をあらかじめ誇張した形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。[中略]だから少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。もちろん少年少女に限らず、この「予行演習」は大人にとってさえ有効でありうるはずです。(引用者強調)

これは荒木飛呂彦氏の好著『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』からの引用だ。おれはこの考えに激しく首肯するね。もちろん、世の中が醜く汚いってところだけじゃなくて、そういう不可避なつらさと向き合うために、「恐怖」というアラートを使った「予行演習」が有効だって部分だ。
詳しくは書かないが、おれたちにもそういう時期があった。世の中に潜む悪意や、理不尽な暴力に怯えながら、次にそれらに出会ったらどうやって逃れてやろうかと、対処法を思い描くことで生きていた時期がな。
備えあれば憂いなし。いや、時にそれ以上のものになりえる。人間は恐怖を克服し、恐怖を楽しむことができるんだ。

 そして恐怖を相対化できるようになれば、ホラー映画はそれをフィクションとして楽しむことのカタルシスを教えてくれ、映画鑑賞をより実りあるものにしてくれるでしょう。[中略]
 娯楽であり、誇張された内容ではあっても、ホラー映画が描いているのは人間にとってのもう一つの真実、キレイでないほうの真実だということです。ですから優れたホラー映画は、現実や人間の暗黒面を描いた芸術表現にさえなりうるのです。(引用者強調)

荒木飛呂彦氏もこう言ってる「恐怖の芸術性」は、しかしどこから来るものなのか。あんたもそう思うだろ。だから、それに答える、こんな引用を用意したぜ。

 こういう光景がひきおこす感情――驚異と呼ぶには強烈すぎるし――さりとて喜びと呼ぶにはあまりに怪奇すぎるこの感情は、いったい何であろうか? こういう感情は最初の衝撃が消えたあと、その衝撃のなかにこめられたいろいろの要素が、広汎なさまざまの観念群を動かしはじめたときに、はじめてその衝撃がいかに複雑なものであったかということがわかるのである。もちろん、個人的な経験に属するいろいろの印象が、そのなかに蘇ることは疑いないが、同時にまた、それといっしょに、さらに明暗とりどりの無数の感覚群――言うなれば、有機的な記憶の積み重ねが、そのなかに蘇ってくることも、疑いない。おそらくそれは、人間よりもさらに古い、茫洋たる感情であろう。そこで、そういう感情をひきおこす熱帯の有形物は、人類よりも古い歴史をもっているというわけになる。(引用者強調)

これは、前回の原稿でとりあげた『怪談』の原作者、ラフカディオ・ハーン「ゴシックの恐怖」という文章からの引用だ。この中で、ハーンは、子供の頃から、教会などのゴシック建築の、とくにどっしりと大きく荘厳なアーチに、さだかならぬ恐怖を感じていたと語り、その理由を、熱帯の密林で巨大な植物を見たときに得心したと言う。その具体的な内容が、先の引用さ。
しかし、面白いとおもわないかい。ここでハーンが言っているのは、ラヴクラフトが、そしてドージアが言っているのとほとんど同じだ。人類の最も古い感情である恐怖は、人類以前の動物も持っていた感情で、それらは進化の過程で受け継がれたものなんだ、と。
そしてそれは、ハーンが言うように、個人的な経験と結びつき、人それぞれの固有のアラートとして成長していく。そしてその果てにどうなるかは、荒木飛呂彦氏の言葉を再度引用すればいい。そう、「現実や人間の暗黒面を描いた芸術表現」になるんだ。
先の引用は、こんな風に続く。

 この感情で、まず第一にはっきり識別できるの要素は、美的なものである。全体としては、恐怖美の感覚ともいえよう。[中略]この雄壮きわまりない眺めはひとたび見れば永久に忘れえぬ簡勁雄渾な詩の韻律のように、見る人の心にしみわたる眺めだ。そのくせ、それから受ける喜びは、それ自体もっとも鮮やかに生き生きとしているときでも、なんとなくそこに妙に不安な、おちつかないものが影を落している。[中略]じっと目を凝らしていると、なんだか今にもずるずる、くねくねと動きだしそうな気がして、なんとなく恐くなってくる。そのうち、視覚と理性が結びついて、不安な疑念を匡[ただ]してくれる。そうだ、そこにはたしかに動きがある。巨大な生命がある。[中略]
 自分はこの経験のうちに、喜びの波にまじって、ある感情のあることを知った。それは力と荘厳と勝利の観念につながりをもつ感情で、どこやらに宗教的な畏怖感をともなう感情であった。こんにち、われわれのもっている美的感情には、われわれが遠い祖先から継承してきた宗教的感激の、色とりどりな要素が織り交ざっている。であるから、われわれのの認識は、畏怖という感情を抜きにしては、おそらく起こりえまい。(引用者強調)

ハーンもまた、荒木飛呂彦氏同様、恐怖の美しさを、芸術性を認めるんだ。それは人間が相容れないものとなってしまった自然の持つ、絶対性に対する畏怖であり、己の過去に起因する個人的な肯定感なんじゃないかとおれは思う。
デカルトを引き合いに出すまでもなく、自分を否定しきれる人間はいない。そういう人間にとって、己と絶対に交わらないものたちは、それが自然であれ、他者であれ、過去であれ、現在の自分と隔絶された美しさを持つと同時に、現在の自分を脅かす威力を持つ可能性を内包しているのさ。そして、
つまり、「わからないものはわからないからすごくて、こわい」ってこと。
おお、すると、これはラヴクラフトに還っていくな。ラヴクラフトがいみじくも「最も強烈な」恐怖として提示した「未知のもの」に対する恐怖は、彼をしてこう説明させている。

未知なるものは、予知できぬものと同じく、恩恵と災厄をもたらす恐ろしくも全能なる神にも似た存在であり、謎めいていて全くこの地上のものとは思えず、したがって、明らかに人間の与り知らぬ世界のものということになった。夢をみるという現象もまた、幻想的世界とか霊的世界といった概念の形成に一役買った。(引用者強調)

これは、荒木飛呂彦氏の言うことと呼応する。未知なるものは予知できぬもの、つまり「予行演習」が必要なものということになるよな。おれたちは未知なるものへの対応に、既知のもの、つまり個人の経験や、種族が蓄積した情報、すなわち遺伝子が個体に発現する肉体の形質と、その形質の一部として組み込まれた反射行動を用いるようにしている。もちろんその「反射行動」とは、恐怖のことさ。

ところで、先の引用でラヴクラフトは夢のことを「未知なるもの」の一部と言った。これと同じことを、ハーンも「文学における超自然的なるもの」という文章の中で語っている。
のみならず、彼は、夢をホラーにとって必要なものだ、とも言っているぜ。

すぐれた作家であれば、超自然を描くのに、すでにほかの作家が試みたことをそのまま踏襲したりはしない。超自然の事柄は、書物から真の助けが得られるというようなこととは異なるからである。書物、伝承、伝説などから霊的な戦慄を読者に与える術を学びとるなど、とうていできる相談ではない。
[中略]超自然の効果を狙うなら、ある書物から他人の考え方や感覚を借用しようとしてはいけない。そんなことをすれば、作品から真実味が失われ、ぞくぞくするような感動を呼び起こすことができなくなる。[中略]
 では、霊的なものの存在を信じられない場合はどうするのか。を利用するのである。幽霊の存在を信じようと信じまいと、怪奇文学の芸術的要素は、ことごとく夢の中に存在する。夢は、利用の方法がわかっている人間にとっては、文学の素材がぎっしりつまった宝庫といえる。
[中略]超自然をあつかったすぐれた作品のどれもが怖いのは、実は、われわれの目ざめた意識の中に、悪夢の恐ろしさがそのまま投影されているからである。
 一方、怪談や妖精譚や有名な心ゆさぶられる宗教伝説などに見られる優美さは、もっと楽しい夢、愛や希望や哀惜のこもった夢の持つそれに他ならない。しかしとにかく、文学の中で超自然が巧みにあつかわれるとき、その源泉となっているのは、夢の中で体験したことがらなのである。(引用者強調)

ハーンの言うことを、そしてこれまで引用した文章を踏まえて、おれはこう考える。
」は人間の意識が停止しているあいだに、肉体だけが動いている状態を言う。そうだよな、肉体まで停止しちまったら死んじまう。この時、個人的な経験が、意識の寝ているあいだに、その拘束を受けずに、肉体の経験と混ざりあう。肉体が遺伝子の設計図に従って発現させた、種族を超えた反射行動と、一人の人間が意識のフィルターを通して蓄積した経験をすり合わせる時間が「」なんだ。
これは、ユングが「集合的無意識」と呼んだものと、同じものだろう。
だから、夢にはあらゆる感情があらわれる。喜びが、悲しみが、怒りが、そして恐怖が。自分がこれまでに経験したものだけでなく、自分たちの種族が個体を超えて残すべきと考えたものも、そして、自分たちの種族に連なる、あらゆる生き物たちが個体を超えて残すべきと考えたものも。

つまり、夢に現れる恐怖とはそうした、生き物の記録の集大成なのさ。
そして、そうした生き物の記録の集大成を用いて、人を超えた存在の恐怖を描き出すのがホラーの醍醐味なんだ。

そして、ここまで長々と引用を交えてきたからには、おれはこの映画をとりあげなければならない。

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「夢と恐怖」といえば、ウェス・クレイヴン監督の人気シリーズ「エルム街の悪夢」を抜きには語れない。くだくだしい説明はやめにしよう。夢の中に現れ、夢で殺す悪鬼「フレディ・クルーガー」は、まさに悪夢の象徴だ。
悪夢の恐怖は、ほんらい荒木飛呂彦氏が語った映画のそれに似て、「自分は安全な席に身を置いて見ることができる」のが特徴だ。おれたちの寝ているあいだに、おれたちの心と身体がしてくれる「予行演習」だから、どんなに恐ろしくても、覚めてしまえばナシになる。たとえ夢の中でどんな目に遭ったとしても、目覚めてさえしまえば、残るのは「恐怖の記憶」だけ。そのはずだよな。
でも、このシリーズの中では「そのはず」は通用しない。夢の中でフレディに傷つけられれば、現実にも傷つく。夢で殺されれば、現実でも死んでしまう。「予行演習」なんかじゃない、これは現実にもつながる脅威だ。
こんな恐ろしいことを考えた才人ウェス・クレイヴンは、映画監督になる前、大学で心理学を教えていた。そういう人間が恐怖に関する映画を撮れば、ただ感覚的な、生理的な嫌悪感を与えるだけじゃない、もっと論理的なものができあがる。その最初の作品が、イングマール・ベルイマンの『処女の泉』をモチーフにした、惨劇と恐怖の復讐譚『鮮血の美学』だってから、こいつはほんものだぜ。

そうした、多分に心理学的なアプローチによって厚みを持たされた恐怖に、人間の意識の停止していることを表す黒いジョークと、夢の世界を表す奇抜な特殊効果、そしてティーン俳優の魅力が相まって、シリーズ第一作『エルム街の悪夢』はヒットした。もちろん続編が作られるが、これは中心となるフレディの恐怖を継承したもので、ハーンが言うような「すでにほかの作家が試みたことをそのまま踏襲した」もの、「他人の考え方や感覚を借用し」たものでしかないってのがおれの印象だ。悪くはないが、猿真似を続けているだけなら、第一作を超える恐怖はないのが、シリーズの宿命だ。そう思っていた。
だが、そうじゃなかった。この嬉しい誤算が、シリーズ七作目にして番外編のこの映画、『エルム街の悪夢 ザ・リアル・ナイトメア』だ。
シリーズ七作目にして、シリーズ番外編のこの作品は、シリーズ中第一作のみを監督して、その後のシリーズにほとんどタッチしていなかったウェス・クレイブンの、シリーズ復帰作でもある。
と同時に、とびきり心理学的で、野心的なアプローチによる、「恐怖とはなにか」映画でもあるんだ。

物語は、甦ったフレディの恐怖を描いたシリーズ最新作を撮影している現場に、本当にフレディが現れてしまい、シリーズ一作目と三作目に出演して以降、久々にシリーズに復帰した主演女優ヘザー・ランゲンカンプが襲われる……と思ったらそれは夢だった、というところから始まる。
この冒頭がまずいい。シリーズ伝説のヒロインを演じたヘザー・ランゲンカンプを、ぬけぬけと本人役で登場させるんだから大したもんだ。
シリーズ第一作でフレディを倒すナンシー役でスターとなった彼女は、その後特殊効果マンの男性と結婚し、この映画の舞台となる「シリーズ生誕十周年」の近づく頃には、一児をもうけて幸せに暮らしていた。だが、その幸せな生活は、おかしな電話や手紙が届くようになって、すこしずつ歪みはじめていた。フレディを真似たいたずら電話、彼女をナンシーと呼ぶ手紙。自分をナンシー役として崇拝するおかしなファンのストーカー行為が、自分の精神を追いつめ、おかしな夢を見させたのだろう、そう考えたヘザーだったが、息子までもがおかしなことを言いはじめたので、これはどういうことかと恐ろしくなる。息子は、彼女が子供への影響を恐れて見せずにいた、彼女が主演する『エルム街の悪夢』の中で歌われる「フレディの歌」を、なぜか口ずさんでいたり、「夜、寝ていると、ベッドの下から鉤爪の男が出てくるんだ」などと言うのだ。
ヘザー・ランゲンカンプは、実際に特殊効果マンの男性と結婚し、男児をもうけて幸せに暮らしているというから、ここまで来るとウェス・クレイヴンの徹底したアプローチに唸らざるをえない。そう、かつて「『ホラー映画は現実ではない』という観客の安心感」を逆手にとって、「現実ではないはずの夢が現実を脅かす」というホラーを作った監督は、今度は「映画の中の出来事は映画ではない」というメタな視点までもちこんで、おれたちを逃げ場のない恐怖に叩き落とそうとしてくるんだ。

というわけで、この後は「現実のヘザー・ランゲンカンプ」のもとに、次々とフレディのしわざとしか思えない怪異が起こることになる。
奇妙な地震、走行中に居眠り事故を起こして死んだ夫の胸に刻まれた鉤爪の痕、埋葬の時に現れるフレディ。これらはおかしなファンのストーカー行為と同時期に始まっていると考えたヘザーは、死んだ夫が、物語の最初に見た夢でそうだったように、フレディの新しい鉤爪を制作していたと知ったことで、ストーカー行為の始まった頃に、甦ったフレディの恐怖を描いたシリーズ最新作が企画、制作を開始していたことを知る。そして、かつての共演者でフレディ役だったロバート・イングランドが、自分と同じようにフレディの悪夢を見ていること、映画関係者が次々と「鉤爪の男」に殺されていっていることを知り、ついに彼女は新作で監督を務めることになっていて、脚本も自ら書いているという、ウェス・クレイヴン本人に会いに行くことにするんだ。
すると、ウェス・クレイヴンは、自らの脚本制作術をヘザーに明かす。曰く、彼は夢に見た内容をそのまま脚本にしていて、今回のフレディのモデルは、夢に現れる「怪物」であると。

ウェス・クレイヴン(以下W)「それは恐ろしく旧[ふる]い存在だ。時代によって様々に姿を変える。だが、目的はいつも同じだ」
ヘザー・ランゲンカンプ(以下H)「なんなんです?」
W「無垢なるものを殺すことさ」
H「それじゃ脚本のとおりじゃない!」
W「そうなんだ。そして、夢はまだ現在進行中だ」
H「進行中の夢をどうにかできないんですか? 怪物に弱点とかないんでしょうか?」
W「封印するしかないね」
H「どうすればいいの?」
W「お話にするのさ。お話が怪物の本質を捉え、語ることができれば、怪物はお話に封印されることになる
H「まるで瓶の魔神ね」
W「まったくその通り。まったくね。問題は、お話が死ねば、怪物はこの世に現れるってことだ。もし人々がお話を粗末に扱い、お話がその価値を失えば、怪物は再び世に放たれる」
H「フレディは〈旧きもの〉なんですか?」
W「そう。姿かたちは現代風だがね。……ここ十年は『エルム街の悪夢』というお話に封印されていたが、映画は終わってしまった。やつは解き放たれる。だから私は脚本を書いているんだ」
H「もしお話に負けたら、〈旧きもの〉はどうなるんです? 他の世界へ、他の時代へいくのかしら?」
W「夢はそうは言っていない」
H「なんて?」
W「〈旧きもの〉は〈フレディというかたち〉が、この時代が好きだ。だから、この時代にとどまって、映画から映画へ移動しようとしている。クロスオーバーだ。そして現実へ……」
H「誰か止められないの……?」
W「夢に出てきた、〈番人〉だ。〈フレディ〉が別の世界へ行くために、倒さねばならない障害。……それは君だよ」
H「なんで……どうしてわたしが?」
W「単純なことだよ。君は〈ナンシー〉を演じて〈フレディ〉を倒した」
H「倒したのはわたしじゃない、〈ナンシー〉よ」
W「だが、〈ナンシー〉に力を与えたのは、演じた君だ。だから〈フレディ〉は君を狙う。君のいちばん大切なものを狙って……」
H「監督……あなた、知っていて……!」
W「脚本にそう書いてしまったんだ」
H「そのせいでわたし、ひどいめに遭ってるの!……どうにかできないの、監督!?」
W「新しい映画を撮るしかない。私は脚本を最後まで書き続けよう。そこから先は君が決めるしかない」
(引用者訳/強調)

どうだい、このカッコイイ展開は。これぞ物語の力ホラーの価値だ。
人間が生きていく上で、欠くべからざる感情である「恐怖」。それは不快なものであり、醜いものであるが、それなしに人間は生きていけない。肉体的な脅威のみならず、精神的なストレスを避けるために、人は恐怖をみつめなければならない。
だが、それをいやがる場合がある。また、見つめすぎて、相対化しすぎて、シリーズ化の果てにプリミティヴな恐怖を忘れてしまう場合がある。そうなっては、「予行演習」は意味をなさない。人々は恐怖をナメてかかるだろう。そうなれば真に恐怖すべきものに出会った時、人々は無力になってしまう。
だから、夢をもとに恐怖を描くのだ。生き物の記録の集大成をムダにしないために、迫真の「予行演習」を続けるために。ウェス・クレイヴンは、そういうことを考えていたんだ。

ここまでが映画の半分だ。残りの半分と結末は、興味があったら見てくれ。
だが、断言しよう、ウェス・クレイヴンの目論見は果たされたぜ。
おれはバッチリ恐怖した。後半、ついに姿を表したフレディの恐怖は、これまで見たホラー映画の中でも段違いに怖かった。
また、本作には第一作が持っていた黒いジョークもないので、プリミティヴな恐怖が叩きつけられる。容赦がない。ハッキリ言ってチョーコワイ
もしこの映画が怖くなかったら、あんたはあんたの「怖がれなさ」を恐怖した方がいいだろう。それこそ〈旧きもの〉の思うツボだ。恐怖の対象はいつどこからやってくるかわからない。そういうものから身を守るために働かせるべき恐怖が麻痺しているってことは、そら、いま、これを読んでいるあんた、あんたは今、背後に迫っているものを、感じられないんじゃないか。あんたの後頭部に、今触れようとしているものを、あんたは感じられないんじゃないか。なに、背後は壁だって。ほんとうにそうかな。あんたは自分の背後が見えるのかい。見えないだろう。あんたが振り向いた途端、壁が消えていないとどうしていえる。寝っ転がってるって。だったら、その視界の外にだれかいるのを感じないかい。部屋には一人だって。ほんとうにそうかい。確かめられるかい。

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確かめようとするなら、いずれにしても、あんたは起き上がるか、振り向くしかない。起き上がったら、振り向いたら、どうなるか。殺されるよ。

(下品ラビット)

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