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ピーターパンにいつかギラギラした日々を――『いつかギラギラする日』

【週報】2017.09.11-17

よう。おれだよ。下品ラビットだ。
映画を見ては感想を書いている。映画が好きなうさぎちゃんだ。
このnoteは非営利の同人編集ごっこサークル「ヤラカシタ・エンタテインメント」のnoteだ。その中で、【ヤラカシタ週報】は、サークル活動報告というかたちになっている。
だが、おれはそういうのは苦手だ。毎日毎週なにをしているかを書くのはつまらないし、同じことならもっと真面目なメンバーがやってくれるだろう。
だから、おれは割当の週に見た映画の感想を書くことにしている。

最近はamazonプライムビデオで映画を見ることが多い。
おれたちはインテリの読書家なので、毎日なんかしらの本を読んでいる。書店で買うこともあるが、おれたちが読みたい本はちょっと古い本が多いので、古本屋やamazonのマーケットプレイスを使うことが多い。その流れで、新刊書が書店で見つからないときには、amazonプライムはよく利用させてもらってる。当然年会費も払っているよ。
その年会費で映画が見れるとあっては、利用しない手はない。
ほかにも似たようなサービスはあるよな。おれは利用したことがないから、実際のところよそがどんな感じかはわからない。が、いまのところはamazonプライムで充分かと思ってる。
意外といい映画、面白い映画があるんだ。80年代の低予算の洋画アクションや香港あたりの安いカンフー映画、かつてVHS販売されていたがDVDにはならなかったので、今では名のみ高くて誰も見たことのない洋画が、字幕なしだが見られたりする。
この間は伝説の70年代フェイクドキュメンタリーホラー映画『The Legend of Boggy Creek』を見た。

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いかすポスターだろ。そう、ビッグフットとかサスカッチとかウェンディゴとか、そういうたぐいのUMA伝説が元ネタだ。映像は70年代の常で荒くてチープだが、手持ちカメラのブレで「見えそうで見えない」感じを醸し出すテクニックや、逆にじっくりと長回しで移される、葉の落ちた木が連なってしんと静まり返った入江の風景の、なにかがおこりそうな不穏な雰囲気がはたまらなかったよ。

しかし、いい時代になったもんだぜ。こういう隠れた名作や、隠れていないがちょっと古くなって今では顧みられることの少ない名作が、タダとは言わないが安価で、しかもパソコンひとつ、スマホひとつで見られるんだから。
そういういかす映画がいながらにして見られるamazonプライムビデオで、今回とりあげる映画も見たんだよ。

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『いつかギラギラする日』は深作欣二監督、奥山和由制作によるバイオレンスアクション/クライムムービーだ。いや、90年代当時の言い方でいうなら「犯罪アクション」てところだろうか。
制作の奥山和由氏は、80年代から松竹映画でこの手のバイオレンスアクションを制作してきた。「北野武監督」のデビュー作『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『226』『GONIN』『SCORE』、じしんが監督を勤めた『RAMPO』なんかが有名だな。おれは『その男、凶暴につき』と『GONIN』が好きだ。特に『GONIN』は犯罪アクションにして切ないブロマンス映画にして、面白うてやがて哀しき全滅犯罪映画の傑作と思ってる。
深作欣二監督がどんな人かは言うまでもないよな。『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』『資金源強奪』『柳生一族の陰謀』『魔界転生』『必殺4 怨み晴らします』などなど、暴力描写に定評があって、「日本のサム・ペキンパー」なんて呼ばれていたっけ。おれは『県警対組織暴力』の悪徳警官とやくざの友情や、『必殺4』の千葉真一演じる流れ者の仕事人の非情さの裏に隠れた情愛といった、人間ドラマをさらっと、でも情感たっぷりに演出するところも好きだ。
つまり、その二人が組んで、しかも萩原健一原田芳雄千葉真一と、アクション映画、ハードボイルド映画の大御所が多数出るとなれば、これはねっとりとタールみたいな血が流れ、いぶし銀の男たちがハードボイルドな男たちが次々と死ぬ間際に情愛を垣間見せていく、いかす犯罪映画と思うじゃないか。アクションまたアクション、銃がバンバン撃たれて、ド派手なカーチェイスや爆発が見られると思うじゃないか。おれはそう思った。だが違った。
いや、違いはしないんだ。確かにアクション映画だ。銃はバンバン撃たれる。ド派手なカーチェイスがある。非情さの裏の愛情も、やがて哀しき無常観もある。だが、それだけじゃない。なんか妙な、隠し味が効いているんだ。しかも二つ。

冒頭、三人組の「ギャング」が白昼の銀行や現金輸送車を襲う。しかも一度じゃない。三度、四度と、彼らは強盗を成功させていく。この強奪シーンを、バシバシとカットアップで見せていくスピーディーなオープニングが見事だ。そしてこの時点では、先の印象と期待は否が応にも盛り上がる。
本編はこのあとだ。「ギャング」の一人、つまり職業的犯罪者の萩原健一=ショーケンは、情婦の多岐川裕美が子供を堕ろしたことを知る。
なんとなくくさくさした二人は、千葉真一演じる老「ギャング」からの「仕事」の誘いで北海道へ。一緒についてくる、精神的に不安定な「ギャング」の石橋蓮司は、借金で首が回らず、妻子に捨てられるのではないかと怯えている。
二人は千葉ちゃんが若い情婦と住む新居に赴き、旧交を温めたのち、「観光シーズンのホテルの売上を奪う」という計画を持ち込んだ、木村一八演じる若造とコンタクトをとる。彼は知り合いの、売れないが腕は確かなロックバンドを売り出すために、自らライブハウスを立ち上げようとしていた。
強盗は成功するものの、奪った売上は期待していたよりも少なく、焦った若造が仲間を撃って金を持ち逃げする。ライブハウス立ち上げの資金をヤクザに借りていたため、返済のためにはまとまった金が必要だったのだ。もともと裏でつながっていた、荻野目慶子演じる千葉ちゃんの情婦とともに逃走する若造を、ナメられて終われるかと追うショーケン。ギラついた若造とギラつきの失せないオッサンが火花を散らす。

と、あらすじを説明したところで、なんとなく気がつく人もいるんじゃないか。
そう、隠し味の一つは「若さ」だ。
もちろん、若さ代表は、木村一八演じる若造と、荻野目慶子演じる情婦だ。若造は夢と野望にあふれているが、荻野目慶子演じる情婦と逃亡の最中、興奮して一発イタしてしまってから、ふいにこんなことを言い出す辺り、本当にオコチャマである。

情婦「アタシたち、なンでこんなことになっちゃってンだろ」
若造「金……だろ。五千万。といっても、ただ通り過ぎてくだけだけどな」
情婦「通り過ぎてく、だけ?」
若造「金だけじゃねえよ。人だってなンだって、ただ通り過ぎてくだけさ」

そして、これをきいた荻野目慶子演じる情婦が、唐突に過去を思い出す回想シーンに入るところから、彼女がダブルヒロインの一翼を担うほど、お話の中核にいる人物だとわかる。
最初はショットガンに頬ずりし、マシンガン片手にエヘエヘするクレイジー女だったのにな。

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回想シーンで、彼女は都会の片隅に赤い風船を持って佇んでいる。なんてロマンチック。だがそのロマンチック少女を、周囲の人々は無視して歩く。彼女は辺りを見回すが、誰一人彼女を気にかけるものはいない。

情婦「だァれもアタシを見てなかった。ただ黙ァって通り過ぎてくだけ」
若造「見て欲しかったのか」
情婦「どうだか。ただなんとなくつまンなかっただけ」
若造「マイ、五千万、やっぱり俺に返してくれ」
情婦「(若造を見る)」
若造「ライブ屋はじめても、俺がやるんだから、半年やそこらで潰れンだろ。だけどよ、たかが半年、たかが一晩でも、リキはあんのに金もヒキもねェやつらのために、思いッきりロックやらしてやりてェンだ」
情婦「カドマチ……ほンの一日ッきりでいいから、ちゃんとアタシのこと見て」
若造「(情婦を見る)」
情婦「(笑って)そしたら、なンっでもやってあげる」
若造「今日オープンだな……俺達の店!」
情婦「ウン!」

純情だ。バカな若造とクレイジー女の純情。過去を捨て、未来にもまだ到達していない、現在しかないコドモだからこその純情
だが、そんなのはよくある話だ。そんな程度で隠し味とはいえない。
実は、隠し味はこいつらと対比関係にある、別のカップルと併せて、初めて効いてくる。こいつら以外に「若さ」を持っているやつらがいる
それはショーケンと多岐川裕美のカップルだ。こいつらは中年だ。多岐川裕美は中盤である人物に「おばさん」と言われるくらいで、たしかに若くはない。だが、こいつらは実は若い。先の二人同様、コドモであると言っていい。
本編冒頭から、二人の仲が停滞していることがわかっている。多岐川裕美は妊娠を「油断したわ」というが、彼女は本当に油断していたんだろうか。もしかして、いい歳こいて「ギャング」を自称するようなショーケンをつなぎとめ、どうにか身を固めさせようと、わざと妊娠したんじゃなかろうか。
だが、それはコドモの考えだ。妊娠程度で身を固めるようなオトナだったら、いい歳こいて「ギャング」などと自称すまい。また、そんな男を見限れない多岐川裕美もまた、オトナとはいえない。
映画が、この二組のカップルを中心に据えているのはそういうことだ。これはオトナになりきれないコドモたちの話だ。でなきゃ、見ろよ、主人公カップルがこんな笑顔するかい。

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そして、彼らが「若さ」を見せれば見せるほど、彼らは周囲から浮き上がる。けだものじみた二組の「若者」たちを取り囲む無常の世界は、奇妙な暗さをそこここに広げている。それが、おれが言う第二の隠し味だ。
たとえば、けっこう序盤で死んでしまう石橋蓮司演じる「ギャング」は、借金苦で首が回らず、そのことで妻子に捨てられるのではと怯え、心療内科に通っている。そのことを、そして彼の稼業をしっているのは、樹木希林演じる彼の妻だ。この二人がかなり暗く、そして深い。
石橋蓮司演じる「ギャング」は在日韓国人だった。仕事上の名前は日本人のそれだが、ショーケンも知らない本名はあきらかにそれとわかる名前なんだ。「ギャング」仲間にも言えない、いや、仲間であっても、これは言うまでもないことだったんだろう。そういう暗さが急に姿をあらわす。
そのことがわかるのは彼の死後、彼の死を知った妻がやってきたので、御見舞い金としてなけなしの百万を渡すべく、ショーケンが彼女を訊ねていった時のこと。ここも暗い。

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妻「今いくら持ってんですか」
ショーケン「百万ばかし」
妻「もし、おたくが五千万取り返しても、うちの分放棄しますから、先にそのお金いただけませんか?……もうすぐ、月末に取り立て屋が来るんです。毎月、八十万ずつ。イムラが八年前、店潰して残した借金が、まァだ二千万もあるもんですから」
ショーケン「(黙って札束を差し出す)」
妻「(さっと受け取って)今月これでしのげます。来月は……一ヶ月もあれば、夜逃げする準備もできるでしょうから。……イムラねェ、本名キム・チュンシュクっていうんですよ。だからねェ、うちの娘がねェ、気にしてねェ……知ってたでしょ?」
ショーケン「(うなずく)」
妻「(じっと見る)……色々お世話になりました」

暗いというより虚無だ。超えがたい断絶が、樹木希林演じる妻の目にたたえられている。
おれはこのシーンでやられてしまった。この暗さ、この虚無こそが、この映画をただの「若者のギラつき」の映画でない、美しい対比の映画にしているとおもう。

オトナになれないコドモたちが、ドンパチウォウウォウガッシャーン! するなら、他の映画でもいいだろう。だが、世界はそんなに単純じゃない。オトナになれないコドモたちの暴走の果てに、優しく受け入れてくれるようなところじゃない。
そのことをこの映画はちゃんと描いてる。
信じあった仲間との間にも断絶がある。ましてその妻となれば、敵でもない、味方でもない、なにかよくわからない「もの」だ。
この暗さ、虚無感、これこそ無常観だ。だからこそラスト、しっちゃかめっちゃかのカーチェイスのあと、原田芳雄演じるヤク中の殺し屋にノールックで撃たれて死んだ情婦の死体とともに、逃げ切れない逃亡の果てにショーケンと対決する若造と、ショーケンがタバコを吸うシーンが活きてくる。

ショーケン「若ェわりにはおめェ、いい根性してたな」
若造「トシのわりには、あんたもな」

このオトナ/コドモたちは、どちらも無常な世界のはみ出し者なのだ。無常な世界の変化についていけないピーターパンといってもいい。それは彼らを追い詰める、原田芳雄も同じことだ。

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だから、この映画のタイトルは『いつかギラギラする日』なんだ。
彼らは、実はまだ「ギラギラ」していない。
「ギラギラ」したら、あとはその記憶を懐かしく思い返すだけのオトナになっちゃうんだからな。それは「ギラギラ」していた過去にしがみつく老ギャングの千葉真一や、「ギラギラ」していた頃に店を潰したことで精神を病むほど傷ついている石橋蓮司との対比で明らかになる。
口では「いつかギラギラしたいなあ」と言いながら、その日が「ただ通り過ぎていくだけ」なのを、心の何処かで知っている。だから、その日を避けて、逃げ回っている。

だからこそ、おれたちはそれに共感する。
おれたちはみんな、「いつかギラギラする日」を待ちながら、あるいはそれがもう過ぎてしまったことに気づきながら、通り過ぎる無常な世界を眺め、自分もその一部として活きなければならないんだ。
でも、それだけじゃ人生はつまらない。だからおれたちは映画を見る。
映画はうそんこの「ギラギラする日」をたくさん用意してくれる。それはなんども繰り返し見られる。共感し、体感できる。
そして、一作見ただけでは終わらない。そういう「ギラギラした」映画はたくさんある。
いい時代になったもんだよな。タダとは言わないが安価で、しかもパソコンひとつ、スマホひとつで、ギラギラできるようになったんだから。

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これからもこういう映画をたくさん見ていきたいもんさ。


(下品ラビット)

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