人住まうところに夜叉の棲む~人ならざるものへの餞について

『夜叉ヶ池』
演出:宮城聰
出演:SPAC

 これは、おんなとして生きることの絶望と、少しばかりの慰めについての物語である。
 さらさらと水の流れる音、小鳥のさえずりが聞こえる。萩原晃と妻の百合がゆっくりと紗幕の奥に浮かび上がり、百合は互いの手首に赤い布を巻きつけ、晃が「水は、美しい」と語ると、共に川へと身を投げる。観客が驚く間もなく、スクリーンにエンドロールが流れる。「夜叉ヶ池」と銘打たれ、俳優の名前が出そろい、そしてもう一度、冒頭部分の舞台設定が説明されていく。これから起こる悲劇がのちに物語として「語られるための死」、そして「晃」と「百合」をもう一度その場に「甦らせ、供養するための死」であり、死者の召喚とその鎮魂を描く宮城聰の「タマシズメ劇」としての性質が強く表されたシーンである。
 学者の山沢学円が、旅の帰りに訪れた越前は鹿見村の川上にある小さな鐘撞小屋に、失踪したはずの親友・萩原晃が、妻の百合とともにひっそりと暮らしていた。わけを聞くと、先代の鐘楼守に代わって、この先の夜叉ヶ池にまつわる言い伝えに従い、一日三度の鐘を欠かさず撞いているのだという。一方、夜叉ヶ池の竜姫・白雪は、恋しい千蛇ヶ池の若君からの手紙にとうとう人間との古い約束を破って村の外に出ようと気を乱す。しかし晃の留守に子守歌を歌って気を紛らわす百合の姿を見、それに心を打たれ、二人を妬み羨みながらも夜叉ヶ池へと帰っていく。さらにもう一方、川下の一群六ヵ村は長い日照りと干ばつに苦しんでいた。これをなんとか打破するため、村人衆は雨乞いの儀式を執り行うことを決定し、その生贄として百合が選ばれる。百合は山沢と晃の留守を狙って村人に追われ、荷車に縛り付けられるが、すんでのところで晃によって救い出される。そして最終場、争う晃と村人を見かねた百合は、なんとその場で自害してしまう。晃がすぐ後を追い、ついに鐘の約束が破られて歓喜する白雪によって村は大洪水に沈み、幕が下りる。
 この物語では、人間は誰も幸福たりえなかった。けれど非常に美しく構成されている。それは以下の三つの要素によるものと考える。一つは「白雪の心変わり」である。百合の子守歌とその心根によって、恋の激情を百合と晃を慈しむ愛情へと昇華させた白雪の、人ならざるもの・圧倒的なるものの「人間への赦し」が現れた重要なシーンである。SPAC作品においては、『顕れ~女神イニイエの涙~』(宮城聰演出、2019)における女神イニイエの、罪の有無に関わらないすべての人間たちに対する「わかっていますよ」という呼びかけと同じ「赦し」である。つまり、本来は何のちからも持たないちっぽけな存在であり、それゆえに自然を支配しようともがく傲慢さ、滑稽さを内包する人間に対する「赦し」である。
 もう一つは、「人間たちの死」である。白雪のシーンの直後に現れる村人衆は、雨乞いの儀式という大義名分をもった「美女を一晩裸にして、それを肴に酒を飲む」という「男の欲望」のはけ口として百合を利用しようとしており、それは直前の白雪たちの純粋さと対比され、非常に利己的で醜悪な本性をもって観客の前に現れる。村人衆という悪の断罪と、鐘楼守の二人の死、そして妖怪の姫君の恋の成就の三つが同時に訪れる圧巻の最終場は、観客の心を強く揺さぶる。特に、カーテンコールでも起き上がることのない百合と晃は、生きている人間には手の届かない、ただ悲しくうつくしい「永遠」としてある「死」をそこに在らしめ、見ているものに強いカタルシスをもたらすものである。
 そして最後に、これらの情緒をより増幅させる装置として、「音楽」の効果がある。冒頭から最終場に至るまで、出演する俳優たちによる生演奏が物語を美しく彩り、打ち鳴らされる打楽器は舞台上に立ち上る情念と見事に共鳴していた。例えば、村人衆のシーンでは、男たちは皆、団扇太鼓を手に百合と晃を追いつめており、これは個々人の意識のみでは到達しなかったかもしれない非道な行いを引き起こす人間の集団心理を視覚的・聴覚的に表しているものである。劇中何度も引用される「遅い夏」(藤井尚之作曲、銀色夏生作詞、1987)は、晃と百合が今際の際、いろいろな感覚を懐かしく思いながら相手と別れ、そしてまた二人で黄泉の国へと旅立つようすが重なり、それを人ならざる者が鼓舞しているようなラストシーンであった。
 以上の三つの点から作品世界の美しさに圧倒される一方で、この物語がもつ、「女の現代」としてのまなざしも忘れてはならない。これは、単に百合を「悲劇のヒロイン」として消費するのではなく、彼女という存在を通して「現代社会における女性」をまなざすための物語なのだ。
 物語の中で、村人衆は晃に「かかあを一晩牛に乗せるのが、それほどまでに情けないか」と嘲笑しながら尋ねていたが、百合にとって、否、女にとってみれば、それは死ぬこととと変わりない、むしろ死ぬこと以上の苦痛、恥辱である。命までは取らん、と笑う村人衆だが、話はどんどん悪いほうへと進み、そして百合は最後には「死」を選んだ。これが、「現代」に起こりえていないといえるだろうか。さまざまなメディアで、場所で、言葉で、女性は今でも男性に蔑まれ、消費され、ゆるやかに「死」へと追い込まれてはいないだろうか。さらに言えば、これは本当に百合が「選んだ」といえるだろうか。多くの選択肢があったようで、あの状況の百合には「自らが死ぬことで場を収める」以外になかったのではないか。そして、この戯曲が書かれた時代から、我々がいま生きる現代に至るまでに、女性の人権観にどれほどの進歩があったのだろうか。そう思わざるを得ない。そして、親もなく、その人ならざる美しさゆえに人々から距離を置かれ、唯一の肉親である叔父に裏切られるという、過酷としかいいようのない環境の中で、「言い分はございますまい」、百合はせめてこの一言を遺して自ら命を絶つ。この最期の言葉には、晃とともにあることよりひとり死ぬことを選んだ自分自身の人生に文句など言わせまい、という百合の固い意志が見て取れる。かつて木のそばにしょんぼりと立っていた彼女は、男が支配する村社会に翻弄されるのではなく、自分の尊厳を自分で守り、晃の無事を祈りながら死んでいくのだった。
 物語はこのような絶望のうちにすべてが終わってしまうかと思われたが、そこにはわずかながらの慰めがあった。本当の人ならざるものになった百合への、白雪たちによる寿ぎである。すべてが水の中に沈み、剣ヶ峰への行き交いが思いのままとなった白雪は、鐘撞小屋を新しい住まいと定め、「お百合さん、お百合さん、一緒に唄をうたいましょうね」と呼びかける。かつては人であった白雪からの、「人である」ことを離れることへの餞だ。この少しばかりの慰めを胸に、百合はきっと、人間のころにはかなわなかった晃との穏やかな時間を過ごすのだろう。悲しく、人間の醜悪さが浮き彫りになる物語だが、このほんのわずかな慰めが、百合と晃に魂の安寧をもたらすことを祈り、せめてこのようなことを繰り返さないために、我々は生きていかねばならない。


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