わたしたちはなんと残酷で、愛すべき世界にうまれてきてしまったのだろう――軋むこの世に、はじまりの愛が顕れる。

『顕れ〜女神イニイエの涙』(原題『Revelation』)
作 レオノーラ・ミアノ
演出 宮城聰
翻訳 平野暁人
音楽 棚川寛子

 アフリカ史における暗黒点、大航海時代の三角貿易の「加担者」といえば、まずわれわれが思い浮かべるのは西洋人でまちがいないだろう。人が人をモノのように扱い、売り買いし、およそ尊厳ある生命として生涯を全うすることを暴力によって放棄させる――わずか200年ほど前まで、欧州列強はこぞって奴隷の獲得に躍起し、それは多くの富と血をもたらした。その一方、この悲劇に加担していた「アフリカ人」については、その存在が語られることはついぞなかった。彼ら「アフリカ人加担者」は皆一様に、この悲劇について固く口を閉ざしたまま、この世を去ってしまったのである。
 今日のアフリカは不幸だ、とレオノーラ・ミアノは言う。そしてその原因は、この数百年前の「断絶」にあるのだと。この断絶が、魂のない空っぽの状態の人々を現世に生んでいるのだと。だから今こそわれわれは死者の魂の声を聴き、あたらしく歩み始めなくてはならない。この戯曲を作ったミアノの根底にあるのは、「アフリカの不幸を何とかしなくてはならない」という、執念にも似た使命感である。
 劇中では、奴隷船の上で弔われることなく死した魂はウブントゥとしてはじまりの海マンガンバをさまよい続け、生まれ変わるためにマンガンバを渡る魂マイブイエと、本来するはずのない交流をしてしまうところから始まる。マイブイエは現世の人々が傷つけあう悲惨な様子を知り、輪廻することを拒絶しはじめてしまう。この「転生へのストライキ」に、マンガンバが女性神の姿をとったイニイエは困り果て、はじめてマンガンバの海の中心から出でて、生前の罪の重さから「灰色の谷」に送られている「一千年の罪人(つみびと)」を召喚することとした。マイブイエたちが聞いたウブントゥの嘆きとは、「罪人たちの証言がききたい」というものだったからだ。イニイエは灰色の谷に入ることはできない。ゆえに番人カルンガを遣わし、灰色の谷から5人の罪人を連れて来させる。こうして、裁きの場をしつらえるところから、この儀式的な物語――ともすれば物語的な儀式は、ようやく幕をあける。イニイエはこのマイブイエ、ウブントゥ、そして一千年の罪人という三者の中心に座し、罪人の証言をひとつひとつきいていく。
 一人は、戦いを避けるため、西洋人が人々を買い取って行くのを止めることのできなかった王。一人は、民を守る武器を手に入れるため、周りの村に侵攻して捕虜を売買していた王。一人は、西洋の文化が入る前から奴隷を「生産」していたという王。一人は、もうそれしかできることがなかったので奴隷貿易をしていた孤独な売人。彼らの証言は、一様に利己的で、残酷で、しかし圧倒的な力を目にしたときの、人間の「弱さ」と呼ばれている部分について、詳細に述べ続ける。ウブントゥは彼らの言葉をただ静かに聞き入って、責めることも、怒りを露わにすることもない。「『悪』をこの世界に据え付けたのは俺じゃあねえ」、と3番目の証言者が言った。もともとこの世界には悪があって、たまたま自身の魂が選ばれたにすぎない、と。
 この証言をきいたとき、誰が「そうあれかし」と願わずにいられるだろう。人は弱く、一人では立ってゆかれない。いきてゆかれない。だからこそ社会なるものを形成し、今日に至るまでそのしくみを維持しつづけている。それでもなお、われわれは遥か昔からの孤独というものを、いまだ忘れることができない。いまの暮らしに満足することが到底できない。だれもが笑いあって生きる、「幸福なる世界」がいつになっても訪れようとしない。それゆえに、「わたし」の心の中にうまれる「悪」を、どうしてこの世界の罪にせずにいられるだろうか。彼らを「悪」と呼ぶのは簡単だ。歴史がすでにそれを証明していて、現代のわれわれが裁く必要などないからだ。ならば、いまここにいきる「われわれ」は、果たして「正しい」といえるのだろうか。「正しい」ということを誰が証明し、誰がそれをわれわれに伝えてくれるというのだろう。
 こうした思いを前に、最後の証言者であるオフィリスが口を開く。それまでの証言者はみな大きな仮面として登場しており、俳優がその身体のみでいるのは彼女ただひとりだった。オフィリスは巫女であり、その立場を利用して妊娠初期の女性を集め、商人に売っていた。彼女は子を生すことのことのできない人だった。証言台に立ち、発言を許された途端、彼女は真っ先にイニイエに問うた。すなわち、「子を産める人間と、そうでない人間。それはどのように決められるのか」と。イニイエは答える。オフィリスの魂がそうあることを「自ら選んだ」のだと。ゆえに自らの責務を果たしていれば、おのが一族の子らはすべてオフィリスの子であり、永久に一族から崇敬される祖となりえた魂であると。
 わたしはもう、 「神よ!」と、叫んでしまいたい気持ちだった。
  「神よ/イニイエよ、なぜ『人間』などつくってしまったんだ」と。
 なぜ魂をより高潔なるものにしなくてはならないのだ。なぜわれわれは皆、「偉大なる魂」を志さなくてはならないのだ。なぜそのために、何度も何度もこのつらくかなしい世界で、生を繰り返さなくてはならないというのだ。なんのために、誰のためにそうしなくてはならないのだ。選ばれた魂であるなら、ひとつの命をすべて捧げて民衆を導かなくてはならないのか。魂がいかに優れたものであったとしても、ひとの一生は何人にも等しく流れ、ひとの一生は何人にとっても一度限りの尊い時間なのに。オフィリスは叫ぶ。「わらわに赦されたことなどありはせぬ! なにひとつ!」。そうであったに違いないと思う。彼女に深く同情し、それでも許すことはできないと思う。神よ、なぜわれわれに考える力など与えてしまったのだ。わたしたちはなぜ、なぜ、葦のように生きてはいけないのだ……。
 イニイエは、そのようなわたしの問いには答えるはずもない。5人の証言を聞き終えると、ウブントゥをマンガンバへと返し、マイブイエに尋ねる。「己が責務に戻るか」と。マイブイエはこれを是とし、いよいよイニイエの審判が行われる。世界のあらゆる扉が開け放たれて、イニイエの言葉が届くようになる。民を守るために仕方なく加担したもの、自らの務めを果たすことを放棄したもの、皆にひとつずつ判決が言い渡される。そして最後のことばは、現世で生きるわれらのために紡がれる。
イニイエが、「わかっていますよ」と語りかける。私たちが傷ついていることを、イニイエは遠い昔から知っていた。そのことを悲しんでいた。けれどどうすることもしない。それが世界の理、ミジポだからだ。それでもなお、ミジポに背いて三者をひとところに集めたのは、「今日の」はじまりの大地を救うためだった。授けた魂が互いを憎み合うようになることは神の計画にはなかった。このままでは不幸は連鎖していくばかりだ。だからこそ、イニイエは今一度、われらに魂を吹き込む。くじけても立ち上がれる智慧をもち、「愛」を知る存在として。
儀式はこれほどまでにシンプルで、「使い古された」とすら思われる主題に行き着くのだが、しかし俳優たちがそこに召喚している「魂」たちを今目の前にしてふれるとき、われわれはただ、そのような存在を改めて尊いと思う。「顕れる」ということは、「見えるようになる」ということだ。今日の社会において、可視化されるということがどれほどわれわれをすり減らしていることだろう。つねに無色透明で、傷一つ、しみ一つあること許されず、人より多く息をすることすらままならない。その一方で、あらゆる事象は「主体の自己責任」ということばに固く縛られて、なにもかもを抱えていなくてはいけない。
このような社会において『顕れ』がもたらしているものとは、すなわち「施し」であろう。イニイエは、他者を気にかけ、慈しみ、受け入れるという「愛」を説くと同時に、自身がそのような存在であることを「わかっていますよ」ということばから証明してみせた。誰かの不幸を代わりに背負うのではなく、誰かが不幸であることを嘆き、悲しみ、誰かの悲しみに寄り添おうとすること。われわれの誰もが持ちうるのに、己の荷物が重すぎるゆえに、手を伸ばすことができないでいるものだ。演出である宮城聰も、作者のレオノーラ・ミアノもそれを分かっていて、だからこそこれを演劇にしたのだろう。この演劇はうつくしい。うつくしくできている。紡がれる言葉も、音楽も、舞台装置も、衣装も、見るに、聴くにうつくしい。だからこそ、本来目を背けたくなる「人間の弱く脆い部分」を、きちんと目の当たりにすることができる。過去の魂を救うことで、現代の人々をも救っていく。これぞ、宮城聰の代名詞ともいえる「タマシズメ」演劇の真髄である。 この度はそれを確かなものとして受け取ることの出来る、素晴らしい時間となった。

2019.02.08 吉田塩梅
(2019.02.11 修正)


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6

samatsu.

かつてない世界のために

評して候
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