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生命と影(石の上にも三年×影)

私はこの場所に留まることを強制されて三年経ったと知っている。
自ら動くことができないから仕方が無いが、自由ではない分少し不愉快だ。
以前は動くことすら怠くて、常に厭世的で破滅的な思考に占拠されていた。
勤めていた会社は創業間もないベンチャー企業で、寝る間も削って働かされた。
上司は「時代の波に飲まれるな」と抽象的な言葉で叱責した。
実を言うと、私が現在の状況に陥った理由が分からないでいる。
身動きが取れないし眼も見えない。
暗闇の中を永遠に彷徨っているようだ。
気付いた時には今のような状態になっていた。
聴覚が捉える家族の声や友人の声、周囲の雑音、見知らぬ者たちの声、すべてこの眼で確認すれば一発で分かるのだが、今の私はその術を持たない。

三年間、この暗闇で過ごしていると自分の肉体がどのように変化していくのかもどうでもよくなる。
寧ろ、思い出すことができないのだ。
自分の顔も良く思い出せない。
自分以外の顔が浮かんで消える。
想像でモノを描くような曖昧さで、一体誰の顔のどんな表情なのか判然としない。
中央から黒く霞がかり、次第に誰の顔も分からなくなる。

何も見えない世界に自由は存在しないが、不自由も存在しない。
生きていることさえ不自由に感じることもあるが、それは言いすぎか?
記憶を辿ることを始めてから現在までどこの地点が記憶の終着点か理解が及ばない。
まるで終わりの無い海を潜り続けているかのようだ。
暗闇を彷徨うと辺りに無数の記憶が浮かんでいることに気がついた。
どれも断片的で形を成していない。
それでも潜り続けていくと何処かで見たことがある風景に辿り着いた。

下はコンクリート、上は雲の無い青空。
前と後には何も無い地平線。
地表からかなり高い位置にいるらしい。
真上から太陽に照り付けられて私の影は足元にめり込んで苦しそうだ。
足を前に出せばその分影は伸びるが、人体の形を模していないそれは私の影ではないように思えた。
いろいろな体勢になって影を操作した。
まるでもうひとりの自分と対話するように。
影は今までの人生で私に逆らったことが無い。
それは幸せなことなのだろうか。
私に使役されるがままの人生は私自身も苦しいものがあった。
私は影を開放することにした。
思うように動けることに影は初めのうちは動揺していたが、次第に自分で動く喜びを知ってゆく。
さすがに声は出せないけれど、自由自在なその姿に私は自分のことのように喜んだ。
私の影はたった今、自分を認識し私を他人と認識した。
影が私を手招きする。
私はその誘いに従い、影がいる方向へ足を進める。
まるで主導権を奪われたように。
過去に遡り、無条件で私の使役に耐えてきた影はもしかしたら自由を喜びと感じてはいないのではないか。
私は不意に胸が苦しくなり始めた。
自分の意思で動いていたと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
じりじりと足は影のほうに近づいて行く。
が、影と交わることはない。
影がいる方向には無限の地平線が見えるだけだ。
突然恐怖が芽生えた。
このまま進んで行けば、いづれこの高所から私は墜落することになる。
これは夢か幻に違いないが、金縛りのように言うことが効かなくなった四肢にどうすることもできないでいた。
この高所はどこかと考えていたが、どうやら会社の屋上らしい。
炎天下の中、私はただ一人で自分自身の影と奇妙な対峙を繰り広げていた。
また、ズッズッと足が影に近づいて行く。
影はゆらゆらと手招きの止めない。
ゆらゆらと。
私は影に幻術をかけられたようになすがままになった。
私は屋上の柵を乗り越え、完全な淵に立った。
影は私の後に姿を隠し背中をグイッと押す。
落ちてもいいのか、と叫ぶがそれは言葉になったか分からなかった。
次の瞬間、私は重力を失い瞬く間に地面に降下して行った。
この世界の法則に準じた重力からの解放は私に最期の恐怖と一種の喜びを体現させた。
落ちるまでしばらく時間がかかった。
急激に加速した肉体は地面すれすれの位置で激突する前に急停止した。
一瞬なにが起こったか分からなかった。
が、私はどうやら死んでいないということに気がついた。
ビルの壁面に眼をやると、とんでもない事に私の肉体が屋上から地面にかけてへばり付きながら伸びているのだった。
超然的なことに私は死より恐ろしい経験をしたと思ったが、それだけではなかった。
頭上から降り注ぐ陽光に遮られ影が良く見えなかったが、どうやら影が私を見下ろしているようだった。
良く見ると影の足元に私が履いている筈の靴が見えた。
そして、靴下、裾が上に伸びてスーツのズボンになった。
これは、、、、
影の足元から伸びているもの。
それは自分であるはずの影であった。
影の形態が次第に自分に置き換わっているのだ。
ビルの壁面にへばりついた私はどういうわけか影になりつつあった。
既に私の腰辺りまで真っ黒で壁面の凹凸が伺えるほどに影そのものだ。
私が影に飲み込まれるまでの間、そう長くはなかったが何か悟ったような気がした。
私は私自身を使役していたのではないか。
影と私は表裏一体。
何を恐れることがある。
私は私に帰るだけなのだ。
私の肉体が首の辺りまで影になった時には感謝までしていた。
何の為に生きているか分からない現実に嫌気が差し、屋上に向かった。
命を完全に諦めていたのかも知れなかった。
私はこの瞬間にでも死んでいたのかも知れない、と。
そう考えると影が起こしたシュルレアリスムに感謝した。
私はすべてを受け入れ私の影となった。

私はこの暗闇の世界で三年間もの間、この日の記憶を探索していたのである。
未だに光は見えないけれど、私がここにるということは生きているということだった。
影は生きている。
私たちと同じように。
私が知りかったことは自身が自由か不自由かという単純で矮小なものではなたった。
もっと大きな意味での生命についてだった。
毎日同じように朝に起きて、出荷されるように電車に乗った。
それが、悪であると思ったこともあったが、事実、それも個の自由であった。
自由を疎かにして私は違う自由を求め続けていたのだ。
その矛盾に気付かずに生命を絶やす選択を第一に屋上に立ったのだった。
死は完全なる不自由だ。
影はそのことに気付いていたのであろうか。
いや、もっと単純なことなのかもしれない。
自分の消滅を否定する権限は私と同じように影も有していたのであろう。
私が暗闇に至ったずべてが理解された。
私は凝り固まった何かを吐き出すように力を抜いた。
これ以上望むものは何一つなかった。

見たことの無い景色があった。
真っ白な壁に真っ白な天井。
暗黒の世界にはない景色だった。
良く知った声がした。
頭の中で自分の名前がこだましている。
目の前に母親だった者の顔があった。
あぁ、そういえばこれが母親だったな、と感慨に耽る。
母親の顔は黒く掠れることなく存在したが、私の知る母親より少し窶れた印象を受けた。
震える声を絞り出して私に語りかける。
私はそれに答えようと正しく口を動かそうと努力するが、口を開けたはいいものの何かを言葉にすることができなかった。
母親の顔は次第に崩れ始め、眼の奥から涙を流した。
私はようやくここがどこなのか理解した。
私は私の影に成り代わって三年間生きていたのではなかった。
私はあの時、自身の死を選択したのであった。
あの記憶はどこまで現実なのか分からない。
もしかしたら全くのでたらめなのかも知れない。
だが、私は生きていた。
あの記憶が現実か非現実かは問題ではなかった。
自分が信じたものだけが現実になるのだ、と影はあの場で語っていた。
言葉を発することは無かったが、今だからそう思えた。
目線を窓辺に向ける。
あの日と同じ雲ひとつない快晴。
太陽は泰然として光を放つ。
私はその光を受けて背後に影を創る。

2018/06/09 徹夜の力に任せて

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