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読書をしても頭はよくならない

「純文学読むって言ってたじゃないですか?ってことは頭いいのですか?」

という質問をされ、私は

「頭はよくないし、よくもならないよ」

と答えました。

純文学は頭がよくないと読めない代物と未だに思い込んでいる人がいるらしい。
私が以前書いた記事「小中高と国語が大嫌いだった理由」に通じた話かも知れません。
私は国語が大嫌いですが、読書は好きです。
その理由は自由だからです。
誰の束縛も受けずに自由に物事と対峙でる。
作者、物語、登場人物、その他もろもろ。

世の中は大学を卒業するとある程度のアドバンテージを得ることができます。
人物を総体的に評価する上で「頭の良さ」は基本です。
仕事をするにしても、言うことを理解できない人間や、言ってることと違うことばかりする人間は雇いたくないでしょう。
社会で生きていく上での簡単なものさしである大卒は一般的に「頭の良さ」の指標となっています。

はたして「頭が良い」とはどのように測られるのでしょうか。

先に述べた大卒ですが、これは基本的な指標ではありますが、大学を卒業しても人間的に頭の悪い人間はいます。
勉強ができるけど、頭が悪い。
中学の頃、一流高校に合格したクラスメイトがいました。
彼はテストではいつも学年トップで勉強ができました。
が、私は頭が良い印象派受けませんでした。
高校に進学し、彼と出会う機会がありましたが、勉学で発揮する緻密な性格とは裏腹に基本となるところは軽率で、信用できない性格の持ち主でした。

同じくして、中学生の頃、勉強をせずに悪さばかりしていた人がいました。
彼はいつも校内のやんちゃなグループにいて、勉強もほとんどしてませんでしたが、知性に溢れていました。
ふとした瞬間に知性が垣間見えるです。
彼は自分の「頭の良さ」に気付いていないでしょうが、私が出会ってきた中で一番頭が良い人間だと思っています。

勉学で鍛えられる「知能」と人間性が関与する「知性」は似て非なるものだと考えています。
国語算数理科社会をまじめに勉強しても「知性」は身につきません。
翻って、「知能」は努力すれば身につきます。
私に「頭がいいのですか?」と言った彼は「知能」の面を聞いてきたと思ったので、そのように答えました。
読書で身につく「知能」は語彙と知識です。
それを「知性」として変換するには、想像力と構成力を身につけなければなりません。
しかしながら、その方法は努力でなんとかするには難しいものがあります。
「知性」を鍛えられる人は相当に「頭が良い」と思います。
私には無理です。

彼とはその後このような会話をしました。

「純文学って難しいじゃないですか?」

「確かに難しいかもしれない。だけど、美術館で絵画や彫刻を見て同じように思うかな?例えば抽象画を見て同じように思うかな?確かに一見何が書かれているか分からないかも知れないけれど、そこには言葉で言い表せない凄みや美しさがある。単に難しいでは終わらない。」

彼は「はい」と相槌を打つ。
私は続ける。

「物語に重点を置いている作品はエンターテイメントとして楽しませてくれるけど、純文学作品は物語に主ではなくて、何と言うか美術館で絵画を見る感覚に似ていて、単に物語ではなく文章で文字で、見て楽しませてくれる要素があると思う。」

「はい」

「だから、難しいと思わずに読んでみたらいいよ。そりゃ、合う合わないあるかも知れないけれど、少しでも感じ取れればそれはプラスだし、読んでマイナスはありえない。面白くなくても、そう思えたとプラスに考えればいい。知らない世界に触れるのはいいよ。世界が広がる。」

「はい」と彼は言って、最後にはどんな作家を読んでいるかと尋ねられたので「平野啓一郎」と答えました。

私は本を読んで頭が良くなったとは到底思えません。
だた、知らない世界を知ることができたし、素敵な文章にも出会えたし、面白い物語にも出会えました。
町田康さんの作品では声を出して笑ったし、藤野可織さんの作品では感覚の違いを知れたし、中村文則さんの作品では人間の狂気に触れたし、田中慎弥さんの作品では人間の臭さを感じました。
他にもたくさん。

いくら読んでも頭はよくならない。
私にとって読書は頭を良くする手段ではありません。
人生において彩りのような香辛料のような、ときにはメインディッシュのような変幻自在な様式なのです。

2018/06/21 休日の夕暮れ

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