『の あわい の』を観た

『の あわい の』

出演:齋藤陽道 盛山麻奈美

インタビュー:今村彩子

撮影・編集:岡本和樹


冒頭、ピントの甘い映像に白飛びと適正露出が繰り返される。これ自体は撮影前や撮影中に繰り返す動作で、撮影する人にとっては見慣れたファインダー内の風景ではあるが、作品にするときには大抵カットするいわゆる”バリ”の部分だ。しかも、これは重要な重要な冒頭ド頭である。

15秒のweb広告でも2時間の長編でも、私は冒頭のショットはめちゃくちゃ大事だと思っているので、毎回編集をするたびに最初から最後まで悩む。そこにこの白飛びの、何だか一見いたずらみたいなショットが配置されたそのふっと力の抜けるある種の軽みに、思わず椅子に座りなおす。
合気道の先生に稽古を付けて頂いていたところで、気付いたら畳にひっくり返されていたような、そういう気分だ。

人間の目とカメラの目は多くの部分で違っているが、本作の特長的な白飛びに関連して言えば、ダイナミックレンジの違いについてを強調しておきたく思う。
目で見たままの世界はカメラには映らない、というのは体感しないとなかなか掴み辛いが、例えば撮りたい対象に大きな明暗差がある場合、暗いところか明るいところのどちらかを捨てないと写真や映像は成立しない。両方生かすのはなかなか難しく、明るいところに合わせれば暗いところは真っ暗につぶれてしまい、暗いところに合わせれば明るいところは真っ白に飛ぶ。どちらかを選ぶしか、基本的にはない。
そこを超えるためには照明を組んだり、あるいはLogやRAW、HDRと云った後処理でどうにかする方法はあるが、肉眼ほどの能力があるかというと、手軽さではまだまだというところではないだろうか。

もう一点、ピントの合う範囲についても述べておきたい。
一般的に人間の目よりもカメラ(特にセンサーの大きなカメラ)はこの範囲を狭く設定できる。そのため、大きなセンサーのカメラの絞り開放側で撮ると、前後にピントの合っていない部分が確保され、被写体が浮き立つような表現ができるわけだ。

上記2点を踏まえて本作の冒頭を見ると、明らかに破戒的だ。本来ならばカメラのセンサーに世界が映るように世話をせねばならないはずが、写っているのは露出もピントも合っていない映像である。そもそも冒頭は真っ白で、何も写っていないようにすら思える。

しかし、本当にこのカメラには何も写せていないのだろうか。

このnoteを表示しているディスプレイもそうだが、デジタル映像表現は、加法混色といわれる表示方法で色が成り立っている。これは絵の具を混ぜるのとは逆の、色を混ぜれば混ぜるほど明度が上がって白へと近づく表示方法で、その考え方に則ってみると、この真っ白の冒頭のショットは、何かを排除するのではなく、全ての存在をそこに捉えたショットとも言えるのではないだろうか。

しかし、こうして全ての存在が一気に提示されてみると、皮肉なことにそれは露出オーバーで真っ白となり、私たちには却って何も見えなくなる。

このカットはそれだけに留まらず、そこから分かりやすく絞り込んで余分な光を排除し、「これがあなたの見たかった”適正”露出ですよね」と挑戦的に提示する。観ている側はああよかった見えたと安心して本編に入っていくが、ずっとそこにあったにもかかわらず、ただ白飛びで見えていなかった向こうの景色は、安心して本編に行ったはずの私の脳裏からどうも離れず、絶えず不穏な余韻を投げかけ続けるのだ。

そしてこのショットは、飛んでいるだけでなくボケていて、どこにもピントが合っていない。映像の中では写真家のお二人がどなたかを撮っていて、上手く撮れたらしい様子が何となく写っている。夏の昼の公園。平和な雰囲気なのに、このピンボケのせいでまたも何かを感じてしまわざるを得ない。

確かにそこには写真家のお二人とカメラが写っている。
写っている…?
言い直そう、写っている、ように私には思える。私は写っていると理解したが、しかしこれは本当に写っている、と言っていいのだろうか。ちゃんとは見えないけど、何となく見えているようにも思える、そのくらいの写り方だ。本作のタイトルにある「あわい」という言葉も、そういうところを示す言葉であるのかもしれぬ。
ボケて白く飛んだ、一見ソフトな印象でいるが、とんでもなく尖った激烈な冒頭カットだと言わざるを得ない。

そしてフォーカスと白飛びというところにも注目して本作を観ると、色々な演出に気付かされる。

途中で出てくる、写真家のお二人の後ろで延々逆上がりを練習する子ども(こちらもまたボケている!)の姿もまた印象的だ。

運動ができなかった私は小学生の頃、延々と逆上がりを練習したので、あの悔しさとしんどさはよく覚えているが(練習していた鉄棒の剥げた部分の模様をいまだに覚えているくらいだ)、ひと夏かかって逆上がりができるようになった時、自転車に乗れた瞬間の感覚が沸き起こってきた。達成感でも徒労感でもない、これまで足の筋肉とか腕の力とかそういうところに気を使ってそれでもできなかったのが、各所に気を使わないのにそれぞれが連携してスッと動く、自分の意識から肉体が離れたかのような妙な気持ちとでも言おうか。

手話に比べると、逆上がりは全然比べ物にならない微々たるものだけれど、ろう学校で手話を知ったことで「初めてコミュニケーションの楽しさを知った」という分かるようで分かりきれないお話を、明らかに意図的に写しこまれた逆上がり練習の子どもに紐づけられて急に個人的な感覚を思い出しつつ、もしかしたらこういうことに近いのかもしれないと思ったのだった。

最後に、音について。冒頭、公園。夏らしいセミの声が響いて、カラスの声も聞こえ、有機的な音に溢れている。カットが変わってコンクリートの壁の前のインタビュー。こちらはサーっというホワイトノイズしか聞こえない。この映像にはこの二つの場所しか出てこないので必然的に音の差が目立ち、それが目立つことで却って音に注目させる構造になっていると言えよう。

タイトルの「の あわい の」の「 」の部分を想像すること。
そこには確実に何かが詰まっているが、それが何なのかは決まっていて決まっていない。

岡本監督はこの映像に並行して、名古屋市消防局による依頼で「Net119」という、「ろう者や難聴者が、119番を簡単に利用できるシステムを広めるための動画」も制作したという。

岡本監督のある映画では「傍流短編」として、本編(本編という言い方が適切かどうか確信が持てないが)で使われなかったショットが別の形で紡がれ、本編の批評ともとれる形で発表されている。そして、それだけでなく本編内でも常に映像同士が葛藤しあって前後で批評を繰り返す。これは自分で映像編集をしてみると分かるが、大変に緻密な作業の上にしか成立しえないもので、気軽に真似しようとしても、大迷宮に迷い込むだけだ(私は自分で真似して失敗したのでそれは自信をもって言える)。想像するに、大量の素材を、すべてインデックスをつけた状態で頭の中に保存しておき、それぞれの葛藤や共通点を全て細かく突き合わせて見出していく作業でしか、こういった編集は成立しえないと思われる。

今回も、行政からの依頼を受けて制作した映像たちと本作を往還すると、また違ったものが立ち現れてくる。
それはストーリーや表現手法だけに留まらず、あるいは出演者のお二人や今村監督のインタビュアーとしての意図を巻き込みつつ、広報用動画としての存在を超えて、明らかにこの映像を観た人に向けられた、無関係ではいられないはずの何かだと思う。


『の あわい の』

出演:齋藤陽道 盛山麻奈美

インタビュー:今村彩子

撮影・編集:岡本和樹



追記(2022/03/05)
『Net119 ロングバージョン』のリンクを追加しました。