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クラクションを鳴らすことから

海外旅行をしていると、沢山のクラクションが鳴っていることに気が付くタイミングがふと訪れる。次いで、その国に本当に来た、という震えが身をつらぬく。
海外でタクシーに乗ると、左手でハンドルを握って、右手をクラクションに添えている運転士さんをよく見る。即座に鳴らせるようにしているそうだ。

翻って日本はクラクションが少ない。過少と言っても良いほどである。

車両等の運転者は、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き、警音器を鳴らしてはならない。ただし、危険を防止するためやむを得ないときは、この限りでない。

道路交通法第54条二の2

法律で定められているとはいえ、違反にならないであろう場面でさえもギリギリまでプッと鳴らさない人が多い、というのは私の印象だけではないはずだ。

一方、クラクションを鳴らすことが少なすぎるあまり、鳴らされたクラクション一発に想定以上の重大メッセージが込められてしまうことも多々ある。危険回避目的で鳴らした人が、それ以上の意味として受け取った人と交通トラブルに発展した話が時々ニュースで流れるが、まさにそういう事であろう。

あるいは、クラクションが言葉ではないから余計に腹が立ったりするのかも知れない。
自動車のクラクションは軽く押すと軽い音、強く押すと強く大きな音が出る。その強弱と鳴らす秒数などで各人が意図するニュアンスが変わってくるので、その感覚の人それぞれの相違もまた、トラブルの原因であろうと思う。

なぜか、その意味以上のものを内包してしまうクラクション。

しかし日常を一瞬引き裂く大きな音に、色々な意図を乗せたり、あるいは読み取ったりして受け取ってしまうのは自然なことでもある。

でも、だから、自分も含めもっとみんな気軽にクラクションを鳴らせばいい、と私は思う。社会全体でクラクション一発の価値を下げればよい。クラクションのインフレを起こすべきだ。

そうすれば、仮にそこに悪意が乗っていたとしても、価値を下げることでその悪意をかき消すことができる、気がする。

そもそも、クラクションは、コミュニケーションである。
自動車という1t以上の鉄塊を運転する初対面の見知らぬ誰かと潤滑にすれ違うには、コミュニケーションが不可欠だ。お互いが法律を守っているはずだという前提や信号や道路標識、あるいは警察権力などそれを補助するものはあるが、安全にすれ違うために最後は運転手同士で何らかのコミュニケーションをとるしかない。
その一つの手段が、クラクションだ。

幸か不幸か、本邦は一般的に道路事情が良く、その結果、大してコミュニケーションをとらずとも車を走らせることが可能だ。逆に、知らない誰かとコミュニケーションをなるべく取らずに済ませたいという志向が、道路事情の向上に貢献したとも言えるのかもしれない。

しかし、それは例えば停電になったとき、脆くも崩れる。信号が消えた大通りの交差点を、コミュニケーション抜きで無事に通過することは難しい。

自動車を運転しながら停電した交差点を通るとき、普段のようにアクセル全開ではなく、慎重に速度を落として左右を見ながら進む。クラクションだけでなく、パッシング、身振り手振り、あるいは窓を開けて叫んだり。初対面の相手にも否応なく声をかけ、合図し、全力で周囲の状況をつかもうと必死になる。

俳優とは、見知らぬ人間に「話しかける」人間のことであり、日常的な原理原則に疑問符をさしはさむ人間のことであった。そこには伝奇もロマンも必要ではなく、あらかじめ書かれたストーリーも必要ではなかった。

寺山修司『迷路と死海』p.123  1993年 白水社

そうして速度を落とすことによって周りの状況が見えてくる。突っ込んでくる車に気付き易くなるだけでなく、人知れず困っている人と目が合うかも知れない、もしくは自分が困っているとき、少し手を挙げるだけで誰かが助けてくれるかも知れない。

あるいは、困るまでは行かなかったとしても、少し速度が落ちて皆が周りの状況を見つつ、自分も主張できるようになれば、もう少し暮らしやすくなることもあるかもなぁとも思う。
闇夜、一人で下宿の窓際に立って真っ暗な裏山の杉の香りを吸い込んでいるとき、遠くでクラクションの音がすると、それだけで安心したりした。

車が自動運転化されるのも、もしかするとそれほど遠い未来ではないかも知れない。そうであるならば、プッと鳴らしたり鳴らされたり、あるいはパッシングされたりするのも、今しばらくのものであろう。


もちろん、音情報だけでしかないクラクションは万人に伝わるものではなく、コミュニケーションとして完全ではない。今回はクラクションについて書いたが、これは別にクラクションに限定するのではなく、見ず知らずの人と気軽なコミュニケーションを、気負わずもっと簡単に取れるようになればいいな、という意図であり、逆にクラクションばかりに頼るのもそれはそれで歪であるということは書き添えておきたい。

しかし、第一歩として、少しでも危なそうであればクラクションを気軽に鳴らす、あるいは鳴らされた時にも、それに過剰な意味を付加して怒らない、というところをやっていくのはどうだろうか。