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目的地と俯瞰

小さいころ、友人と「探検」に出ることがあった。

小学校の学期末などで昼前に解散となるとき、友人宅に一回集合、そこから出発し、まったく知らない方角へとむやみに歩く。

リュックにお煎餅や水筒、レインコートと懐中電灯、その他シュノーケルとかを色々詰め込み、首からはパチンコ(石とかをゴムで引っ張ってビシッと撃ち、的をぶっ飛ばすやつだ)をネックレスのようにぶら下げて、手ごろな木の棒を握って歩き出す。

小学生の僕らが知っている世界の範囲は今よりももう少しだけ狭くて、当時は携帯もスマホもなかったから、通学路から踏み外したら最後、自分がどこにいるのか全然分からなくなる。

だがそうなっても慌てない。そもそも目的地がないから、どうしたって迷子にはなりようがないのだ。僕らはどんどん歩いた。

首から下げたパチンコは、留め金の部分の金属が首に刺さって痛気持ち良く、ガラクタばかりを詰め込んだリュックは重くて、その重さが頼もしかった。万一帰れなくなっても、これでなんとか暮らせると思っていた。

曲がり角、曲がって初めて見るその先の土地。しかし、初めてのはずなのに、そこにはさっきまでとあまり見た目の変わらない住宅街が、信じられないほどずっと続いていた。歩いても歩いても、既にそこでは誰かの生活が営まれていて、歩き慣れていそうなサンダルの足音が響き、郵便バイクが走って郵便が配達されているのだった。


免許を取り、レンタカーを借りるようになると、ほぼ全てのレンタカーにカーナビが設置されていることを知った。どこまでドライブしようとも、「あなたは今ここですよ」とカーナビは親切に現在地を教えてくれる。

目的地を定めないことと、現在地が分からなくなること。その経験は歳を経るにつれどんどん少なくなっていく。迷わないで済むのでありがたい。

カーナビのような、空を飛ぶ鳥から見たような目線を俯瞰(あるいは鳥瞰)というらしい。俯瞰という言葉はわりあいポジティブに使われているようだ。ロードマップを、年間計画を、月間計画を、人生を…俯瞰することを折々求められる。POV主観視点に比べ、俯瞰すると先がある程度見通せるのでありがたい。

ありがたいところから降りるのは大変だし降りる必要もないのだろうけど、なぜか降りてみたくなることは時々あって、そんなとき、私はあの小学生の頃の「探検」の時間を思い出すのである。