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人間の本能を否定せず、矛盾の中を進むー「燃えるドレスを紡いで」を見てー

 今回は、初めて映画レビュー的なことをしてみようと思う。今回見た映画は、パリ・オートクチュールに参加する日本唯一のデザイナーYUIMA NAKASATO代表の中里唯馬のドキュメンタリーである。2023年1月に開催されたパリオートクチュールでの披露に至るまでの、ファッション業界が抱える矛盾との葛藤とその先に見出したファッションデザイナーとしての仮説を導くまでの過程を追った。

中里唯馬
2008年にベルギー・アントワープ王立芸術アカデミーを卒業し、2009年自身の名を冠したブランド「YUIMA NAKAZATO(ユイマ ナカザト)」を設立。
2016年、日本人では森英恵以来2人目となるパリ・オートクチュールコレクションの公式ゲストデザイナーに選ばれ、継続的にパリで作品を発表。近年は、オランダ出身の気鋭振付家ナニーヌ・リニング(NanineLinning)によるボストン・バレエ団の新作バレエ『ラ・メール』(LaMer)の衣装デザインを手がけ、また先日、日本人デザイナーとして初となるフランス・カレーでのソロエキシビションも発表された。

燃えるドレスを紡いでHPより引用

 私は、この映画にファッション業界への「絶望」とファッションデザイナーとしての「作る行為」への微かな希望、その絶望と希望の「矛盾への葛藤」に胸を打たれた。

今回は、この映画で特に胸打たれ、印象に残ったシーンを紹介したい。

❶「ファッションに携わるのは、私にとって恥。」 、ファッション業が抱える絶望

 映画冒頭では、中里氏はケニアの南部の地域を巡り、MITUMBA(先進国から運ばれてくる衣服の束)の山や服のゴミで覆われた市場の道、辺り一面が服で溢れるゴミ捨て場を目に焼き付ける。

MITUMBAの山。
だいたい1つ40kg、それでも軽く、中には雑多にさまざまな服が入っている。
先進国からコンテナーで運ばれてくるMITUMBA
ケニアの市場。道を覆う服のゴミ
服のゴミの山で働く人々と巻き上がるゴミ

 その中で、ファッション業界に携わる女性にインタビューをするシーンがある(具体的な職業は生憎忘れた)。彼女は、中里氏に対して、こんな言葉を投げかける。

「私は、故郷から家族を養うために、出稼ぎに来ている。そして、私たちを苦しめるファッション業界に務める。そして、ファッション業に携わっていることは、私にとって恥じらうことである。」

 これは、ファッションのプロフェッショナルである中里にとっては、とても衝撃的で、絶望的な言葉であったのではないだろうか。
 少し前にプロフェッショナルの語源についての議論を拝見したことがある。プロフェッショナルの語源には、Proof(証明する)が含まる。そして、Proofとは、「自分自身の存在全部を特定のものとして位置付けること」である。これは生涯の自分自身のあり方を肯定することでもあると捉えられるのではないだろうか。
 これまで、さまざまなショーで受賞歴を持ち、日本の最前線で活躍するプロファッションデザイナーの中里氏。彼も生涯をファッション業界に没頭するとProofしたであろう。その彼に対して、ケニアの彼女はファッション業業界に対して、恥じらいを感じている。
 この体験も含んだケニアの「ファッションの最終到着点」での経験から、中里氏は、ファッション業界が抱える矛盾に対して、絶望する。そして、購買促進を根底に置き、古いものを新しいものへアップデートし続けるファッションショー自体や自らの活動へも懐疑的になる。

②「作るという行為に対する否定をやめる」、矛盾への仮説

 帰国した中里氏は、YUIMA NAKASATOチームで2023年1月のオートクチュールに向けた議論でも、ケニアでの経験からファッション業界への懐疑的になっている。その中、ファッション業界の中でも、「作る」行為に注目すると、その絶望に対して「意義を唱える力」があるのではと考える。また、流通や生産と消費をはじめ、さまざまな矛盾を孕む業界に対し、ファッションやファッションショーの役割やその意義を模索する。
 そして、彼はファッションショーとは、購買促進が根底にあり、人々の物欲を刺激し、ケニアで経験したようなファッション業界だけにとどまらない大きく絶望的な課題に片棒を担いでいる可能性がある。しかし、作るという行為を否定するのを止めることで、「社会や業界の価値観を変える、実験をする場」としてファッション業界が抱える課題に目を向けさせる役割があると考えた。

③「着飾る・装飾」という人間の本能

 本映画を通して、ケニアの服のスラムで暮らす人々、干ばつ地域で飢えに苦しみながら生活する民族、パリでのファッションショーのモデル、YUIMA NAKASATOのチームメンバーなど、さまざまな場所で生活する人々が登場する。それぞれ異なった生活スタイルで、異なった状況下で生きている。特にケニアの人々は、喫緊でゴミ問題や気候変動の課題に苛まれ、家畜を争う部族争いが起き、死が隣り合わせの状態である。
 しかし、どの人々にも共通する特徴の1つとして、「服で着飾り、自身を装飾している」。ケニアの干ばつの中暮らす人々も、色とりどりの装飾品を着飾り、部族争いをする少年も武器に装飾を施す。ファッションは、確かに絶望的な側面を多く孕んでおり、それにより絶望を感じる人々や苦しい生活を送る人々がいる。しかし、彼らも服を着飾り、装飾する。服を着て、自らを着飾ることは人間にとって本能的な要素なのではないだろうか。

結びにかえて。

 私は、ファッションについてとても疎い。人よりも服を買わないし、服の素材についても詳しくない。どんな服が流行っているかも知らず、それも追ってもいなかった、追おうともしなかった。しかし、日常に繰り出す際、毎日必ず服を着て、その日の予定や気分に合わせ、服を介し自らを装飾していた。
 また、最近になり、Cotopaxiでカバンを買い、新品よりも古着を買い、父からお下がりをもらってみたりと、サステイナブルを考慮した生活をしてみた。しかし、今回の映画を通して、私は、あくまでファッションの「最終到達点」ではなく、「経由地」に参加するだけに終わっていたことを痛感した。そして、建築や都市計画、都市デザイン、食、自然環境など、すべてのテーマにおいても、「最終到達点」に目を向けられていなかった。「最終到達点を見る」という視点は、今回、映画を見たことによる大きな学びの一つである。
 また、「矛盾が蔓延する社会でも、進み続けなければらない」。これは、上映終了後、中里氏とお話しさせていただくことができ、その時にいただいた言葉である。今回の映画でも、中里氏は、矛盾する世界の中で、ファッションデザイナーとしての現時点での仮説を導き出し、それによりファッション業界に向き合う道を歩み出した。私も、答えがないまちに対して、一人のアーバニスト修行中の身として、仮説を投じ、矛盾の中を進んでいける人材になりたいと思う。

 本映画は、私が今回あげた点以外にも、心惹かれる瞬間が数多に存在する。もし、この映画を見た方がいたら、どんな点に興味惹かれたかをぜひ話してみたい。

今回の記事の手引きになる諸々

WIRED最新号「FASHION FUTURE AH!」
 WIREDの最新号で、今回の映画の手引きとしてとても参考になる。WIREDは、Podcastでも、本映画についての中里氏との対談著書について議論を交わしている。

参考資料

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