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大学生のレポート:「観光とは?ストリートフォトとは?」

学びの共有

ふとした思いつきで、今回は【2021年7月18日 日曜日 12:27】に自分が書き上げた大学のレポートの内容(今回は観光学という授業)を公開してみるという試みをやってみることになりました。

なぜかというと、ゆーと(Twitterのアカウント👇)の「MANABIYA」という「社会人と大学生で学び合う場」での活動の一環で、素敵なメンバーで話している時に「大学生の卒業論文とかをお蔵入りにするのは勿体ない」という話になったからなんです。

ということで、早速ここからは、2021年夏の僕のレポートをちょっとだけ修正というか体裁を整えたモノを公開していきます!!

観光〜外からの視点〜

観光という行為はどこかを訪れることであり、気晴らしや保養を目的としている。国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、「余暇などの目的を持って自宅を離れて旅行する」という趣旨の定義がなされている。

つまり、普段ずっといる場所から、移動して非日常を感じるという事が、観光の本質的な要素だ。観光中の人々は、訪問者としての「外からの視点」を持っている。非日常は、人間の本能的欲望としての知的好奇心を満たし、日常からの開放を提供してくれる。非日常性は、対比の中で発見されていく。なにか2つを並べてみて、初めて気付くことが出来る。

具体例として、「田舎と都会」を挙げる。ずっと同じ場所にいたのでは、比較対象がそもそも存在しないため、他方の良さには気付けない。田舎育ちの人が、都会に出てみて、やはり自分の生まれ育った環境は良かったなと感じることもあるだろう。また、都会育ちの人がテレビでの田舎の描写に魅了されることもあるだろう。

都会から田舎に対しては、「都会と対になる田舎らしさ」という期待が寄せられている。逆にその期待に応えようとして、田舎らしさを維持しようとする田舎の動きもある。

そもそも、田舎も都会も、どちらか片方だけでは概念として成立しない。日本国内の全ての都道府県が東京みたいだったなら、他の都道府県を見て田舎だとは思えない。どこへ旅行しても、いつも通りの東京が続くとしたら、非日常は存在しない事になる。どこまでいっても均質的な世界では、「外からの視点」を持ち、日常と非日常を対比させられない。観光の成立のためには、そこに差異が存在する必要がある。

少し違った対比の例としては、「労働と余暇」が挙げられる。労働があるから余暇がある。余暇は、労働から開放される時間だ。人生の全てが余暇だったなら、そこに非日常を見出すことは出来ず、余暇の観光の価値は半減してしまう。仕事が楽しくない前提になってしまうが、労働と余暇は、人生における「辛いことと楽しいこと」とも言える。

仕事が楽しくてしょうがない人もいるとは思うが、部屋に篭もって作業をする人であれば休日に出かけ、普段忙しなく世界を飛び回っている人であれば休日はゆっくりと自宅で過ごすのではないだろうか。その意味では、「閉鎖と開放」の対比として解釈できる。

暑い夏の余暇で、避暑地を訪れる事は珍しくない。実は、あの有名な軽井沢の良さも、近代に入ってから日本政府が外客を誘致するようになった時期に、外国人の「外からの視点」によって発見された。この視点を持っていると、既に述べた人間が本能的に欲する気づきや学びが多く得られる。

観光の歴史において象徴的なイギリスの特権階級の研修旅行においても、気付きや学びを求める姿勢が見られる。当時の旅行は、限られた富裕層のみにしか出来ないものだったが、交通技術の発展などによって、貴族の楽しみが一般庶民にも楽しめるような通俗的なものへと変化していった。かつては明確だった「貴族と庶民」の線引きがぼやけていった。

昔と比べると、非日常に「外からの視点」を携えて飛び込むことによって、新鮮な経験をすることの難易度は大幅に下がった。「外からの視点」という人生を豊かにしてくれる道具を手に、より多くの人が観光をすることが出来るようになった。

ストリートフォトグラフィー

ここまでで話してきた「外からの視点」を使って楽しむことが出来るのが、自分の趣味であるストリートフォトだ。恐らく、一般的にはこの概念自体があまり浸透していない。そこで、言葉の定義を確認しておきたいところだが、「ストリートフォト」の定義は極めて曖昧であり、それぞれのストリートフォトグラファーの作品をみても、スタイルはバラバラだ。

私的な解釈を一言でまとめるとすれば、「街ゆく人の様子をリアルに撮影する」となる。なんとなく「いいな」と思った人や街の瞬間を、撮影者の感性に任せながら写真に収める。

見ず知らずの人を被写体としてカメラで撮影する以上は一定の倫理的な問題がつきまとう。それに対しての考え方も含めて、十人十色だ。そして、撮影地に関しても、人を写すため大自然と言うよりは都会での撮影が多くなってはくるが、場所は問われない。具体的なイメージとして脚注にリンクを挿入しておく。

https://www.jamesmaherphotography.com/street_photography/what-is-street-photography/

このリンク先で多く見られるように、人が主題になっている写真もあれば、風景や町並みの一部として人が入っている写真もある。強いてストリートフォトの共通項を挙げるとすれば、人間の暮らしをありのままに切り取るという要素になるだろう。人が必ずしも画面内に入っていなくても、人の生活感が滲み出る街角ですらも撮影の対象となる。もはや、街で撮る全ての写真が含まれると言っても過言ではない。

ストリートフォトの大切な要素は、その不確実性にある。ストリートフォトグラフィーは一瞬の出会いを追い求めるものだ。その日、その時、その人にしか経験できないような偶然の瞬間に巡り会えるかも知れないというワクワク感を、なんの代償もなしに味わえる。これは、フィルムの時代からの進化の恩恵を大きく受けている。昔であれば、現像に金がかかるフィルム写真しかなかったが、今では写真を撮ること自体のハードルが大きく下がった。

この写真の通俗化の反動として起こった現象が、観光地で撮られる写真の極端な類似化だ。人々はインスタグラムや観光情報サイトで、各地の観光シンボルの写真を既に目にしており、そのイメージを確認しに観光に行くようなニュアンスもある。

よって、観光客の撮る写真はガイドブックやインスタの写真の「模造品」になりがちだ。しかし、ストリートフォトは、あくまでも個人の感性の赴くままに撮影して良いものなので、その点においての差別化を可能にする。「ストリートフォト」という肩書がついている以上、撮るためにはしっかりした撮影機材が必要だと思う人が多いとは思うが、近年では機材をiPhoneに縛ったフォトコンテストも開催されている。

道具は、カメラでもカメラ機能のある携帯電話でも構わないのだ。形は様々だとしても、撮影のための道具を自分の目と目で見えているものとの間に挟む行為は、日常を普段とは違った味方で眺めることを意味する。

街を歩きながら目に映る景色を「作品になりうる瞬間があるかもしれない」と思いながら消費するこの発想自体を、道具は与えてくれる。通常、人が普通に生活しているところを写真にする事が一般的ではないだけに、そこでは「非日常感」が演出される。撮影する道具を持つことで、いつも気にも留めないような物事にも注意を向けてみる動機が生み出される。

この「いつも」と「カメラを持っている時」との対比が、「外からの視点」を与えてくれる。この視点こそが、日常的に常に目にする人々や町並みを鑑賞する姿勢だ。

電車の時間などを気にしながら急いで街を歩いている時の自分は、社会の構成員になってしまっている。今目の前の事に必死で、視野が狭くなってしまっている状態だ。

平日の通勤ラッシュを目の前に、カメラを首から下げ、撮影を目的としてそこにただ立って街を見渡している自分を想像して欲しい。どこか、街と人々を俯瞰視している、あるいは一歩引いた視点から冷静に見ているような気がしないだろうか。テレビをなんとなく眺めるように、人々の動きを鑑賞してみると、全ての人がせわしなく時を過ごしているわけではなくて、視野の中には色々な種類の人がいることに気づく。これがまさに「外からの視点」で、内側にいる人には持ち得ない視線だ。

カフェのテラス席でコーヒーを片手に新聞を読む人、パソコンに向かって作業している人、お喋りを楽しんでいる人。コンビニに日配の搬入作業をしている人、それを横目にレジを打つアルバイト、食べ物を買っているサラリーマン。

今挙げた例はほんの一部に過ぎないが、ここで伝えたいのは、数え切れないほどの物語が同時進行しているという事だ。一つ一つの物語に、普段は目もくれずに生活することも、「外からの視点」を持って毎日の当たり前を楽しむという選択肢も、人々には与えられている。ストリートフォトは、この後者の選択肢に付けられた名前とも捉えられる。

そもそも、ストリートフォトは「観光現象」か?という議論が予想されるので、確認しておきたい。「非日常」は観光の極めて重要な構成要素だ。「非日常」は、知的好奇心を満たし、日常からの開放感を与えてくれる。「非日常性」は何か2つを対比する中で発見される。

この文脈で考えると、ストリートフォトグラフィーは、「日常」と対になる「非日常」への視線誘導の役割を持つ。意図的に自らの意識を「非日常」の領域に向ける手段として、カメラで写真を撮る行為は有用だ。観光とはとても相性がいい。言うまでもなく、観光と写真撮影は切っても切れない関係にある。むしろ、ストリートフォトグラフィーは、観光に包摂されている。

日本で生まれ育った人間であれば撮らないようなただの街角の写真を撮る観光客がいるなら、その人は、自覚があるかないかはさておき、ストリートフォトグラファーだ。写真を撮る行為を通して、観光地での「非日常」の経験を楽しんでいる事をより強く実感することが出来る。

さらに、写真という形にすることで、後から振り返ることが出来るようになる。普段の日常の世界とは全く違う場所で、「非日常に没入していたい」という人間の欲望を、より確かなものにしてくれる。非日常への没頭、あるいは現実からの逃避を道具一つで実現させることを可能にしてくれえるのがストリートフォトグラフィーという概念だ。

普段歩いている通勤通学の道だとしても、そこから新鮮な体験を主体的に掴み取る事が出来る。さらに、カメラを用いて撮影をしている場合であれば、レンズの焦点距離(簡単に言えば、ズームの倍率)を変えることで、「外からの視点」の種類を容易に増やすことが出来る。同じ大学までの通学で歩く道だとしても、自分の肉眼、携帯電話、広角レンズを付けたカメラ、望遠レンズを付けたカメラ、といったようにどんな道具を持って歩くかによって、目に入ってくる内容は大きく変化する。

写真を撮る場合は徒歩がほとんどではあるが、移動手段が自転車か、車かによっても何が見えるかは異なってくる。柳田国男の言うように、歩く速度であれば、自らの感性を開いていける。ストリートフォトは人間の感性を高めるのに一役買っている。そこが例え観光地ではなかったとしても、普段との差異を自ら作り出すことで、慣れ親しんだ土地でも観光客になったかのような「外から視点」で目の前にある景色を楽しむことが出来る。ストリートフォトを通した「観光客もどき」「社会の傍観者」みたいな楽しみ方も、一つのアイデアとしてなかなか面白い。

おわりに

いかがでしたでしょうか、なかなか斬新な過去のレポートをほぼそのまま公開企画、楽しんで頂けたのであれば僕はとても嬉しいです。学校のレポートとはいえ、個人的な趣味について熱く語っただけ感もあります。そんな訳で、感想やコメント頂けると、笠井康弘は非常に喜びますので首を長くしてお待ちしております!

最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋


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