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手ぶらの6さい


「姉と妹は最初からよく出来たから、ちょっとしたことで『なんでできないの』『どうしてこうしちゃうの』って言ってたら勉強ができなくなっちゃったけど、健太は元からなんにも出来なかったから、ちょっとしたことでも『すごいね』『えらいね』って言ってたら勉強ができるようになった」とのちに母親は言った。その理論が合ってるかはわからないけど、たしかに6才のぼくはアホだった。
 世の中は自分にないものだらけだったけど、そのかわりたくさん見てたくさん考えてたような気もする。

 小1の算数の授業をなぜか視聴覚室の床でやった日があった(なぜ)。先生が黒板に「2+5」や「3+4」とまず問題を書いて、それを床に置いたノートに写す。なのに隣にいた本村はノートに「2+5-」「3+4-」と書いていた。
「次が『ひく』かわからないじゃん」
 そう本村に小声で言うと、本村は「だって、『わ』だったらこうして『=』にすればいいし、『たす』だったらこうして『+』にすればいいじゃん」とぶっきらぼうに答えた。
 ぶっきらぼうだったせいでそれ以上なにも言えなかったけど、内心『おおおおお』とか『あああああ』と思ってた。生まれて初めて、感心というものをした瞬間かもしれない。

 小学校の算数の授業でずっと不思議だったのは数字の「9」についてで、入学後に初めて自分の「9」とみんなの「9」が違うと気がついた。他のみんなのはシュッとしててかっこ良いのに、ぼくの「9」はまあるくて不格好。
 ぼくはまんなかの交点から右回りでぐるっと書いていたので、ちょうど「6」を逆にしたような形だった。でも他のみんなのは右上あたりからまっすぐな線になっている。自分の「9」も、右上に来たときにシュッとまっすぐにしてみたけどなんか違った。何かが決定的に違う気がしたけど、こんなシンプルな文字を、他にどう書けばいいか分からなかった。
 だから、長い観察の末に「右上から左回りでマルを書いて、戻ってきたら今来た方向に棒をおろす」と分かったときは本当に驚いた。行って戻るってありなんだと思った。

 この頃、一番衝撃的だったのはせきやまこうたろうの絵だった。
 幼稚園ではことあるごとに絵を描かされて、それが壁に貼られた。そのときの題は「お休みにしたこと」。ゴールデンウィークか何かの後だったんだと思う。同級生のせきやまこうたろうは動物園に行ったらしく、きりんの絵だった。画用紙のまんなかに、右向きのきりんの全体が足元まで入るように描いてあった。
 ただその絵のきりんに重なるように、右斜め、そして左斜めの灰色の線が、画用紙全体に交差していた。フェンスだった。
 対象よりも前のものを描くということも、その対象にかぶせて描くということも、他では見たことなかった。
 おゆうぎ会(発表会)の後でも絵を描いた。だいたいみんな、自分では見れないはずの自分の出た演目についての絵を描いていて、その点ではせきやまこうたろうも同じだった。
 ただ、そのせきやまこうたろうの絵は、下4分の1程度がぎっしりと並べられたたくさんの黒い半円と、同数の赤い箱のようなもので埋まっていた。これなんだろう・・とじっと見ていると、ある瞬間にハッとする。それらは赤い座席に座る、観客の頭だった。
 あったまいいーーって、あのとき以上に思ったことはないかもしれない。

 その幼稚園には、オプションで選べる放課後の学習教室があった。いくつかあるなかで、算数教室はその部屋が園児でぎっちぎちになるほど人気だった。
 ぼくが選んだのはお絵かき教室。先生もいれて6人しかいなかった。算数と同じ面積のはずの教室はがらんとしてたけど、ぼくはこのお絵かき教室が大好きだった。なぜか風景を思い出すと、いつも一番きれいな夕焼けになる。大きな窓の教室だった。
 このときだけ来るひげの先生にその日描いた絵を見せると、輪ゴムでくるくるっと丸めてくれた。その輪ゴムの箱が妙に大人っぽく見えた(のだけど、それはのちに、今見ても渋すぎるデザインだと思うオーバンドという有名な輪ゴムの箱だと知った)。
 唯一覚えてる絵は、父親が左に向かって歩いていて、その後ろを姉が一輪車で、さらに後ろをぼくが自転車に乗って進んでいる絵で、たぶん一番褒めてもらえたんだと思う。写真のように記憶している、絵を見せながら帰る道も、夕焼けと一緒だった。



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