何とか必死で迎えた今年の新年。
母の訃報を聞いて、奄美から藤沢にすっ飛んできたのが12月25日、クリスマスの日。
今日は1月2日か。約一週間。時間の経過の感覚が今までと全く違う。
12月25日は久しぶりに父と、そして弟と実家で再会。その日は母には会えなかったけれど、母のことを共有できる人達に会えた安堵感といったら…。
ずっと、カラダも心臓あたりも、小刻みに震えていたと思う。状況を聞いたり、この後の段取りを話したりしていくうちに、少しずつ自分の中心に戻っていく感じ。
やるべきことは一通り決まっているし、決めるべきこともあれこれある。とにかく、目の前のことを一つ一つ、三人で話しながら決める・動く。
それだけに全集中(苦笑)
お弁当を買っていったり、外でごはんを食べようとお店に入るけれど、三人とも全然ごはんが食べられない。
石田家(私の旧姓)始まって以来の大ピンチ。
だって、みんなが頼っていた母がいないんだもの。
でも、母が卵巣がんになった時も、腹膜炎からお腹の病気が見つかって入院した時も、父が心臓の手術をした時だって、私が離婚等々、ピンチだった時だって、いつも何とかみんなで協力してきた。
普段はバラバラ、それぞれ自由な家族だけれど、いざという時の結束力はすごく強い。それが石田家。母の作ってきた家庭。
三人でうどんを食べて、なんとかお腹に力を入れて、葬儀まで突っ走った。
母の親友や、良く連絡を取り合っていた親戚に連絡するのが、とても辛かった。だってみんな、最初は全然信じてくれない。私だって信じたくない。
そして一番は、母の母。私の祖母への連絡。
半分パニックで、「なんでなんでなんでなんで…」と泣き叫ばれた。
何でかは、みんな知りたい。父だってわからない。どうすればよかったのかも…。
でも、祖母も何とか落ち着いてもらって、雪国新潟から、叔父と一緒に藤沢まで出てきてもらう予定になった。
みんな、動かなくなった母を見ないと信じられないんだと思う。私もそうだった。
クリスマスを過ぎたら世間はもう年末年始に向かって動き出していて、今年一年なくなった有名人のお悔やみアーカイブ的なものをテレビでやっている。
ぼんやりとそれを見ながら、「母ちゃん、そうそうたる人たちと一緒だね。」なんて話したり。
実感があるようなないような。地に足がついているような、浮いているような。
とりあえず着の身着のままで来たので、母の着ていた部屋着を着てキッチンに立つ自分が、母の姿に見えてそれを俯瞰している自分がいる。
私の身体を貸すよ。物理的にやりたいことがあるならやるよ。もしくは、私がやることをちゃんとこなせるように手伝ってくれているのかな?
途中で何度も、脳みそがフリーズしそうになって身体も止まってしまいそうになっても、母の服を着ると自然と身体が動く。やることが次々頭に浮かぶ。もう、動くしかない。
通夜は28日。26日は葬儀屋さんとの打ち合わせや出席者への連絡などでばたばたしたけれど、27日はぽっかり、一日何もない日があった。もちろん、祖母が来るから買い出しとか、家に泊まれるように掃除とか布団の用意とか、やることは色々あったけれど、私も一呼吸したいと思い、いつもお世話になっている整体へ(今年は全然奄美から出なかったので、初だった)
私のカラダを通して母のことや父とのことなどあれこれを教えてもらって、心も落ち着いて、やっとふーっと、大きく息が吸えるようになった気がする。
ありがとうございましたと佐藤先生にお礼を言って、父・弟と落ち合うために連絡を取ったら、なんと、予期せぬ事態が!!!!!
実家から施設(ショートステイ)入所していて、12月頭から肺炎で入院中だった、父の母親(私の祖母、102歳)が病院で息を引き取った、と…。
えー!!!!!このタイミングで!?
祖母は色々あって、母が一番頭を悩まされ、泣かされてきた人だったから、こんな時まで便乗して母についていくんかい!!とツッコミたいのと、母ちゃんが、私らがこの後大変にならないように、連れて行ったのかな?とも思う気持ちも。もう父と弟と私は笑うしかない(苦笑)
さすが石田家。さすが私の母。葬儀までのエピソードが伝説すぎる。
その前の日に、辛くて寂しくて悲しくて、それは当然なんだけど、すがるように玄花さんの言葉を思い返していた。
「生きるってね、楽しいの!」なんて、思えないよ。この先ちゃんと思えるようになるのかな?って。そしてそれをそのまま、「生きるって、何が楽しいの??」って問いを私のガイドにぶん投げた。
そうしたら、翌日「まじかよ!!」って突っ込んじゃうような展開が起きた。
「この状況でも感じられるユーモアって何?」っていう玄花さんの言葉も思い出して、何かが吹っ切れた瞬間だった。
「楽しい」の意味が今まで使っていた意味より、グンと深くなった。
そしてこれからももっともっと深くなっていくんだと思う。色んな経験を通して。
この状況をどうとでも取れるけれど、慟哭した後にお腹の底から笑えちゃうような、自分の素直な感情や反応を愛おしいと思った。
母の死でこんなにも揺さぶられて、泣いて、でも笑って、なんとか生きることを、生きている人のことを考えてジタバタしている私たち、なんて人間らしいんだろう。
ここに生まれてきたんだから、ちゃんと喜怒哀楽を表現して、ジタバタして、生きることに必死になろうと思った。
私は私の道を行く。
そしてそんな私を産み、育ててくれた母にはやっぱり感謝しか浮かばない。
とにかく私の母は、すごいんです。
母の何がすごかったか、なんてことも、ちゃんと書いておきたいな。
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