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旅文通11ー(例えばレバノンの)森の記憶

 この一ヶ月で、世界がものすごいスピードで様変わりしていますね。

 テオさん、ニューヨークのピンク(映画『バービー』ブーム)は跡形もなく消えましたよ。今はハロウィーン前のオレンジ色が至るところに。空き店舗と物騒なニュースは増す一方。Covidも伝染力をますます発達させているかのよう。そして日々増殖するエスプレッソバーとカナビスストア。
 ただし、様変わり(=眼に見える様相が目まぐるしく動いている)が途切れないのは事実とは言え、変化しているものは、実は一つもないですね。

 もともとあった矛盾や誤魔化しや力づくの押さえ込みが、鍋の中で(そう、テオさんが言う、細切れの野菜が煮えたっている鍋です)沸騰して、蓋を押し上げ、熱い蒸気と泡となって噴き出しているのですね。蒸気に触れると火傷するので要注意です。

 新たな戦争? テロ? それだけじゃない、大災害も、一瞬耳を疑うような犯罪も、至るところに。世界中があちらこちらに反応し、政治が(というより大金が)瞬息の間に国家間を行き交っているのを(そう、大混雑している飛行機の航路のように)、わたしは今月、メキシコで感じていたんですよ。

 どこにいても、五感がとらえる感じ方は、どんな状況に誰といるか、等々の条件で違ってくるけれども、実はどこも同じ、誰も同じ、異なるものは一つもないということも、しみじみと実感できるものですねえ。

 メキシコ訪問は、6回目です。ほとんどが海沿いに近いところでしたが、今回は初めて内陸の都市周辺、具体的には、北米大陸の真珠と呼ばれるグアダラハラ、その郊外に位置する大学所属のホテルで開催されたA Course in Miracles International conference に招かれていました。

 海沿いはほぼ全て、アメリカ資本に占領されているメキシコですけど、内陸も、同じ構図でした。戦地でも、戦地とは見えない場所でも、襲いかかる権力は同じ、お金が降ってくる場所も同じ、身体(個体)がそれらに利用されるのも同じ。

 世界中で皆が同じただ一つの問題を、さまざまな様相の中で見ていて、心の中に戦争状態を作り、その投影としてさらなる世界の土砂崩れのようなものを作り出しています。

 そんな、戦地としての大地に立つのはやめて、そう、テオさんが書いてくれたように、旅からの帰還で、まとわりついていた日常がすうっと離れていく感覚 ― それこそが平安 ― の中にいつも、そして永遠に留まっていたいと切実に願っているのですよ。
 日常がべったり貼りついている感覚って、違和感以外のなにものでもない。ひりひりする摩擦のない、平和な皮膚感覚を保っていたいです。

 そして。わたしは、今回のお便り、「次はどこ行きたい?」に答えようと思っていたんです。この夏ハリール・ジブラーンの展覧会とトークイベントに参加してから、レバノンに行きたいなあとずっと考えていたの。

 いくつかの異なる文化、言語の中で育ったジブラーンは、終の住処は祖国でと、生誕の地にある修道院を購入していたのだって。残念ながら、ニューヨークで急逝したのですけども。
 その修道院、もともとは、7世紀に聖セルギウス庵と呼ばれていた修道士たちの洞窟だったそう。そこがジブラーンの墓となり、後に博物館になり、彼の作品が所狭しと展示されているということです。
 それは、カディーシャ渓谷(別名:聖なる谷)にあって、そこのレバノン杉の森は、神の杉の森と命名されて、世界遺産になっています。

 メキシコ行きの予定がなければ、今月にでも行きたいくらいでした。レバノンの谷と杉を訪問し、ジブラーンのお墓参りもし、その足で、イスラエルの砂漠の只中にある友人のヒーリングセンターをもう一度訪ねたいとも思っていました。手を挙げてくれる人がいれば、何人かで“聖なる旅”をしたいものと愉しい想像もしていたんですよ。

 その今月も末となった今、レバノン入りは難しくなってしまいました。当分無理かもしれませんね。
 世界各国と比較して使い勝手のいい日本のパスポートをかざしながら、気楽にどこへでも出かけられる時代は、たぶん、終焉を迎えたのじゃないかな。どこに行くにも覚悟が要る、明確な目的が要る、またお金もかかる、そんな時代の到来です。
 入国審査で Sightseeing. と答えればどこでも楽ちんの通過、とはならなくなっていくのかなという予感も。具体的な行き先、そこの許可証提示等々、監視と管理は進んでいくでしょうね。やはり高速で。

 それでも、いつかレバノンを訪れる機会は来ると感じています。ジブラーンの故郷の森のレバノン杉は、樹齢1200年以上のものが何百本も残っているそう。

 そこで思い出すのは、カリフォルニアの世界遺産、レッドウッド国立州立公園ですが、あそこは樹齢2000年を超えるものもある、レッドウッド=セコイアの壮大な森です。
 その森は、はるか昔からネイティブ・アメリカンにとても大事にされていて、今も、森の中に住んでいる部族もいるんです。資本主義社会は、樹木は伐採して利用する方向に行くけれど、森にこそ、いのちの源につながる構造というか、“原初の記憶”とでも呼びたいような魂があって、それを理解している人たちが守っているのですね。

 樹木の記憶は、太古の記憶であり、古今東西の人類の集合意識の中にある記憶とはまったく接点のない、いのちの源につながる記憶だと思うのよ。 
 その記憶の気配だけでも、今度はレバノンで感じたい。そう思ってます。

 ニッポン杉は、花粉症が増えているせいもあって最近は植林より伐採が進んでいるのだとか? かつては杉や桧は軍需物資として大活躍したはずだけれど、新時代の戦争には不要でしょうか。利用価値が落ちれば消えていく運命、、、。
 でも、それが消えれば、いのちの源もさらに忘れられ、いのちは弱々しく脆弱なものと捉えられ、元気は失われていきますね。
 わたしは、でも、心は森の中にいたいです。樹木の眼を持ってマンハッタンを歩きたい、というか。

 ところで、『天井桟敷の人々』とか『惑星ソラリス』とか聞くと、映画談義に今すぐ首を突っ込みそうになります。メキシコ行きの直前、Film Forumでメキシコ映画全盛期のエミリオ・フェルナンデスの作品 <Victims of Sin >を観ましたよ。テオさん、観ていなかったらぜひ。そうだ、あと、ハロウィーンの季節にぴったりの傑作<The night of the Hunter>(邦題『狩人の夜』)も長年ご無沙汰なのでまた観たいです。。。

 つい話があちこちに飛び、長すぎるお便りになりました。

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