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「不自然」とは何かの考察〜なぜ「自然」に癒やされ感動するのか〜

東京から1時間ほど電車や車で移動すれば、豊かな自然を満喫することができる。田舎は田舎なので、島根県でも埼玉でも開放感や見晴らしという体験では変わらない。

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ハイキングや山登り、散歩をすると本当によい気分になる。

正直、こんなに五感をフルに使い満喫できる体験が「無料」で楽しめることに驚きを感じる。

金銭的価値に換算することが野暮なことだと百も承知だが。

我々は汗水たらし稼いだお金を払って、経済行為として作られた「体験」を買う。

ゲームにせよ映画にせよエンタメのコンテンツ制作、芸術的なアートもそうだが、とてつもなくコストがかけられている。そして、それを鑑賞するのにお金がかかる。

重要なことは、

それらの体験は、こうした山の中の体験の足元にも及ばないほど、

しょうもない、

ということ。

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さて、

自然豊かな環境にいけば「無料で、何十万、何百万、何億円の価値ある体験ができる」というような安っぽいことはいわない。

そもそも経済的価値とは次元が違うことだ。

では、

何をいいたいかというと、

なぜ、このような山や緑、自然に囲まれると心が満たされるのか、というカラクリを明らかにしたい。

以下、考察する。

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まず、「自然」とは何か。

辞書の定義は次の通り。

デジタル大辞泉の解説
[名]
1 山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。「自然に親しむ」「郊外には自然がまだ残っている」
2 人間を含めての天地間の万物。宇宙。「自然の営み」
3 人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。「野菜には自然の甘みがある」
4 そのものに本来備わっている性質。天性。本性。「人間の自然の欲求」

本質としては、「人間の手が加わっていないもの=自然」ということだろう。

これについて、養老孟司さんが「自然とは人間により意識的に作られたものでないもの」と、(You Tube動画で)さらに一歩進めた定義をしていた。

この「意識的に」というのがポイントだ。

そもそも、人間の存在自体は「自然」である。

われわれは常になぜ存在して、なぜ発生したのかわからずもやもやしている。自然に生まれてきたのだ。

では、人工的なものといえばなんだろうか。

アスファルト舗装の道路や、鉄筋コンクリートの建築物は、明らかに自然的でない人工的なものだ。

こうしたものは、明らかに意識的に何かしらの意図を持った行為の産物だ。

「意識的に」とは、そういうことだ。

もう少し考えてみたい。

一般的に犬や猫、豚や牛、猿やイルカも含めて動物は「自然」とみなされる。

なぜか?

それは、やはり「意識」が鍵になる。

本当のところはわからないが、動物はおそらく意識を持っていない。

(突き詰めて考えれば、私以外の他者(人間)も意識を持っているかはわからないのであるが)

では意識とは何か?

意識とは、つまり、「意識の流れ」とウィリアム・ジェームズが呼んだ、あの質的なクオリアである。

つまり、「意識的に」とは、クオリアを感じる領域の中で決定を下したということになる。

意識と「言語」が密接な関係がありそうだということは、多くの哲学者や心理学者が述べている。

ソシュール研究者の丸山圭三郎は、動物と人間を分けるのは言語であると仮説を立てている。(ソシュールをそう読んでいる)

ソシュールといえば、シニフィアン・シニフィエという概念が有名だが、それよりも根本にランガージュという概念があり、これが最も重要概念だ。

ランガージュを、丸山圭三郎は「シンボル化能力」と訳している。

シンボルとは、だいたい同じパターンのもの、また、他概念との区別から全体として「同一」として括ることができる。定義不可能だが、周りとの関係や複数の知覚器官による全体的な認知によりそれをそれとして認識する。ゲシュタルト、イデアなどと言われるものだ。

われわれは異なる犬でも「犬」だと認識する。足が2本なら犬ではないのか?ワンと鳴かなければ犬じゃない?その境界線は明確に引くことができない総合的なゲシュタルトなのだ。

この「犬」のような音や文字というラベルがシニフィアンであり、その意味や概念がシニフィエといわれる。

昔、次のような文章を読んだことがある。

「われわれはもう太陽を、言語のフィルターを通さずに、そのものとして体験することができなくなってしまった」

と。

これは悲しいことのように描かれていた。

つまり、われわれは、

シンボルのもととなる<世界>を直接体験しておらず、まずシンボルが先行した体験をしているのだ。

そう考えると、

言語を持たない(と想定されている)動物は常に自然だ。

常に、<世界>に直接反応して生きている。

一方でわれわれは、<世界>をまず言語という社会的な認識をベースに体験している。

これを「言語先行の世界認識」と呼ぼう。

なぜこれがいけないのか?

私の仮説だが、おそらく、言語で世界を認識すると、「言語先行の世界認識」と<世界>との間にギャップが生まれ、不安が生じるからだろう。

確かなものだけに反応する動物は、不意を突かれて死ぬかもしれない。自分にとって何なのかはっきりした対象だけを認識して生きているからだ。だから、そこに認識における不安がない。

一方の人間は、不意を突かれないように、シンボル化により世界を社会に変え、死を回避しているが、不確かなものにまで怯える必要を生じさせてしまったのである。認識している対象が自分にとって何なのかよく理解できてないのだ。

われわれに必要なことは、<世界>に直接触れる体験だ。

しかし、

意識が仮に、言語と表裏一体の関係にあるとすれば、

この「言語先行の世界認識」から解放されたいなら、意識をなくし動物化するしかない。

なので、これはなしにしよう。

既に言語をもってしまっているのだから。

では他に何ができるか?

それは、

確かなもの(意味の強いもの)を中心に生きる

という戦略だ。

これは2つにわけられる。

1つは、本当に自分が確実に意味を理解できるような物事に取り組みながら生きること。

もう一つは、シンプルな概念に囲まれて生きること。

この2つだ。

まず、前者は、要するによくわからないことをしない、ということだ。机の上でエクセルやPPTばかりいじって高給をとっても、それはあまりに世界とかけ離れた言語的空間にいきすぎていて(不確かなものに囲まれ)不安になる。もっと自分が本当に価値を見いだせるもの、例えば、パンが好きならパン屋になるなどの行動をすべきだ。

もう一つは、こういう抽象的な概念を扱う環境から離れて、その意味に揺れのないようなものに囲まれて生きるということ。

これがつまり、山や海、など自然に囲まれていきるということだ。

そこには人間が意識的に作り出した概念、例えば、「利益」「人材」「マーケティング」「売上」「芸術」「ゲーム」など不自然なものがほとんどない。

そういう世界に密着した環境で生きれば、不安はなく、よい気分で生きられるだろう。もちろん、その裏側には貨幣社会から外れ、金を払って衣食住が得られなくなる可能性も一方で高まるのだが。

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さて、冒頭の自然に癒やされた体験に戻ろう。

なぜ自然豊かたな環境にいくと心が落ち着くのか。

それは、人工物が少ないから、自分にとって何なのかよくわかるものばかりで、対象を100%に近く理解できるからだ。

結局、自分にとって何か、という本質がわからないものに囲まれていると、そのわかららない不安が高まり、病んでしまう。

一方で、わかるものだけに囲まれていれば、安心して生きられる。




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