日本で、アメリカの「銃」にあたるものは何か?

社会学者の宮台真司さんが「日本には倫理がない」といっていた。

倫理とは、その集団全体に通じ、それに反するとみんなが怒るようなことだ。これは、悲劇の共有でしか生まれないという。

日本も戦争、地震という悲劇があったではないか?

と思っても、実際は、深く国民全体で反省し、共有されていない。

戦争も、「敗戦」ではなく「終戦」といったり、なぜ勝ち目ない戦いを続けたのか、失敗の原因を徹底分析し、それを忘れないようにする努力もしていない。ドイツには悲惨な歴史を象徴するシンボルがまちなかにあるし、何かと過去の過ちを引用する習慣がある。

倫理といえるかわからないが、理念はどうなのだろうか?

日本人誰もが大切にする価値観みたいなものだ。

「おもてなし」は正直よくわからない。

こうあるべきだというような(ざっくりでもいいので)方向性がほしいところだが、日本はそれがない。

それがないと、思うのはアメリカのようなわかりやす国があるからかもしれない。

アメリカはそれがわかりやすい。

「自由」と「銃」が象徴だ。

アメリカは特殊な国で、理念をベースに建国されている。

「自由」とは、人に干渉されずにやりたいことをやる。そして、そのやりたいことは、温かい家族との幸せな時間、とうような認識が国全体である(実現できているかは別として)。

「銃」も、アイデンティティそのものだ。銃は危険だと考えず、それは歴史的な正統性を持っている。つまり、合衆国憲法修正第2条で定められた銃を持つ権利。

1776年にイギリスからの独立を勝ち取ったのは、民兵が武器を持って勇敢に戦った結果であり、また、暴走しうる国家権力にいつでも立ち向かえるためのインフラでもある。まさに、自由を支える象徴なのである。

このような強い土台となるベクトルが日本にはない。

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内田樹さんは、『日本辺境論』で、日本人は中国やアメリカという大国の横で「きょろきょろ」してきた、と本質を看破した。

もともと、のびのび暮らしていた日本に、中国がやってきて漢字や律令体制などを与えた。何か「善」を自分たちで言語化し、それを目指したり、よりよい善に向かうようなキャラではなかったのだ。

(これは悪いことではないが、グローバル資本主義社会では弱みになるかもしれない)

「日本人の本質」みたいなアイデンティティの核となる価値基準が、「周りを見渡し、その時々によいものを選ぶ」という形で醸成されるため、それを言語化して共有することが言語的にできない。

一夜にして天皇主義者が民主主義者に変わり、資本主義が流行ればエコノミックアニマルと化す。

時代に合った行動を行うという意味で、生存戦略としては強いかもしれない。

しかし、個人の時代が確立しつつある現代において、その指針を与える基盤である国が価値基準を与えられないのは痛い。

これは、ただの私の勉強不足だろう。

日本の歴史を振り返ってみれば、何か核となり、言語化できる真善美が出てくるはずだ。

この領域にアンテナを張っておきたい。



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