見出し画像

東吉野村移住滞在記[全8400文字]

1

奈良県東吉野村に移住して早5ヶ月。

当初の目的であったサウナ小屋作りをようやくスタート出来た。ここに至るまでかなりの日時を費やした。それを言い訳がましく綴りたいと思う。

そもそも見ず知らずの土地にやって来た人間に

「どうぞ空いてる所に小屋を作ってください」

なんて言う変わり者は何処にもいない。

まず遠回りを覚悟して、道を作ることから始めた。小川という地区にはいくつかの集落があり上出垣内(カミデカイト)というのが自分の住む所である。

家は村道に面しており、お隣さんは30メートル程離れて建っている。山の上には家が5軒くらい点在してあるが、今は人が住んでいないという。

グーグルマップを見れば家の上の山を500メートルも行けば小川城跡という史跡がある。引っ越してきた数日後、妻を連れて家の上に点在する空き家の前を通り小川城跡へ行ってみた。

急な勾配の登山道を200メール程進むと道はなだらかになった。途中、石垣が積まれおり歴史を感じさせる道であった。

ほとんどが杉か桧であるが、20メートルはあろうか、枝打ちされ整然と立ち並ぶ木々の横を歩くのはとても心地よかった。

古城跡は大したことなかったが、帰り道を歩きながら

「これは面白い、熊野古道みたいだ」

と感じていた。道幅は2メートルほどで杉や桧の枝が足元に落ちており、少し歩きにくい。しかし、上を見上げれば空がほとんど見えず、緑の中に覆われている感覚が心地よい。

その日を境に自分はこの道がどこまで続くのか歩き回り、そして道に落ちてる枝を拾っては、谷側へ捨てることを繰り返した。


ここでアントニオ猪木の言葉を引用したい。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」



2

まだ床部分しか完成していないのだが、サウナ小屋を作るに至る工程を書こうと思う。

家から200メートルほど激坂を登るとなだらかな横道に変わる。そしてT字路にぶつかる。

北に行けば村役場、南に行けばどこまで行くのか。捜索3日目にして「吉野フォレストヒルズ 花ごころ」通称、わらび園という所にたどり着いた。

途中、道が崩れている所や、風倒木が何ヶ所もあり、迂回したり倒れている木を潜ってようやくたどり着いた。

そこは東吉野村と川上村を結ぶ林道武木線が通っている。久々に車の通るアスファルトの道に出ることができた。ここまで5キロ位だと思う、なだらかな上り坂が続いた。

話は少し逸れるが、屋久島の縄文杉を見に行ったことがある。荒川登山口から1時間半くらいアップダウンの少ないトロッコ道をひたすら歩く。

トロッコ道の終点からは激坂が続くのだが、東吉野村で見つけた道はそのトロッコ道のように、なだらかな上り坂で普通に歩けば息は上がらない。

「トレイルランができる道が欲しい」

引越してきて思っていた事の1つが実現しそうだ。ホームセンターでクワを買ってきて崩れた道を直した。

ノコギリで切れる範囲の風倒木は撤去した。そして落ちている枝をひたすら拾っては谷側に捨てることを繰り返した。

20日くらい道作りに費やしたと思う。障害物はだいぶ少なくなった。

「車と競走したら勝てるのでは?」

と思えてきた。ある日、妻にわらび園の駐車場まで車に乗せてもらい、

「ここから役場の駐車場まで競争や」

と自分は地下足袋を履いて走った。15分そこそこで役場の駐車場まで走りきった、地下足袋の勝利。妻は軽四で運転が未熟である。

もう少し道を直して、風倒木をチェーンソーで切ることが出来れば、F1ドライバーのアイルトン セナにでも勝てる気がする。

わらび園から先の道を探すのに苦労するのだが、今回も猪木の言葉で締めたい。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」

サウナの話はまだ先になりそうです♪



3

「サウナ小屋を作りたい」

これが東吉野村に移住してきた目的であると言い回っていたが、どこに作っていいものか思案していたら、3ヶ月が過ぎていた。

道作りは順調で、小村(おむら)のわらび園から三尾にかけて道があるのが分かった。武木線の林道を使えば足ノ郷峠を通り川上村に出る。

しかしそれは登山を思わせる登りと下りがあり、身体への負担が大きい。

何度も迷いながら、三尾という集落にたどり着いた。そこの蔵心寺というお寺の横に登山道がある。

最初と最後が勾配の急な坂道になるが、ほとんどが上り下りの緩やかな道である。

村史には、小川街道は小、三尾、狭戸、大豆生、麦谷を経て、地蔵峠を越え川上村の瀬戸に至る。と書かれている。

この小川、小(おむら)、三尾の部分が開通した訳だ。恐らくだが、何百年も昔の人もこの道を歩いていたと思われる、たぶん、ん?し、しらんけど。

そうこうしていると4月になった。月末に失業保険が終了する。春の日差しが日を追うごとに強くなってきた。

そろそろ働こうかと思い始めた矢先、移住者友達と地元の若者で一緒に飲む機会が重なった。

移住コーディネータのOさんは10年くらいこの村を見てきたが、

「地元の若者とこんな感じで交流するのは初めてです」

と言っていた。そんな飲み会を繰り返す内に仲良くなった地元土建屋の息子さんが、

「バンちゃん、仕事探しとんやったら、ウチに来たらええやん」

と言ってくれた。そして僕は

「週に2日、火曜と水曜だけでもいいですか?」

と答えた。すかさず、土建屋さんの専務をしている息子は

「いいでしょう!」

とこころよく受け入れてくれた。

今日はその土建屋さんの現場で働いて、家でシャワーを浴びビール片手にこれを書いている。夕日がまだ高く、風が涼しい。

とりあえず今日もアントニオの言葉で筆を置くことにする。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」



4

ついにサウナ小屋を作り出す話まで辿り着きそうである。

村の土建屋さんで週2日働き始めた。
残りの5日でやりたいことは、何か?

大きく分けて3つある。

1つ目、シェアハウスを作る。
 これは狭戸という集落にある空き家を買うか安く借りて、改修しシェアハウスとして貸し出そうと考えている。
 モデルは「山奥ニート」十津川村の近くにある和歌山県の山奥で流行っている形だ。

2つ目、サウナ小屋。
 この狭戸という集落に移住して来られたYさん。買った家の裏に山があり、そこを開拓し畑を作ろうとされている。その空いている土地に

「小屋を作りたい」

と言われていた。

僕が地元の土建屋さんと仲良くなるきっかけを作ってくれた方でもある。

「サウナ小屋でよかったら、僕作りますよ」

これがこのエッセイの元ネタである。
Yさんは必要な材料は全て買ってくれるという。そしてユンボやトラックも使っていいと言う好条件を与えてくれた。

サウナ小屋を初めて作るので、

「初号機は仲間内で使うやつを作ろう」

という感じで始まった。

3つ目にやりたいことはケータイ屋なのだが、まだ代理店の契約中なので詳細は伏せておこうと思う。

何はともあれ、サウナ作り初日。4トン ユニックのトラックに乗って名張のビバホームまでやってきた。そして以下に記す大量の買い物をした。

バラス25キロ×10袋、束石10個、バタ角2m×2本、2×4(ツーバイフォー)8F×4本、10F×6本、野地板4畳分、防水シート、断熱材、コースレット2箱、などなど、これでも床を完成させるまでの買い物である。

メインはスギ板と桧の板なのだが、後に近くの製材所で仕入れるとしてとりあえずの床までの材料は揃えた。

作っている動画を僕のTwitterでアップしているので、興味ある方はいいねボタンとフォローもお願いします。

https://twitter.com/bantaku6?s=21&t=YsMmYYziylvNWRvGsJIYsg

長くなりましたが、アントニオ猪木の言葉を送ります。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」



5

Twitterで動画を上げてますという話を前回はしたが、文章の好きなnoteファンの皆さんにサウナ小屋作りの素晴らしさを文字で伝えたいと思う。

鍬で穴を掘り、束石を置く。

この基礎工事の基本中の基本。土木の教科書の1ページ目に載っている工程だが、簡単そうに見えて実は難しい。

まず束石をどのように配置するか、これが重要である。四隅は絶対必要だろう。横273センチ、縦182センチの小屋を作る。

3尺ピッチというのが日本の建築の基本とするなら、横は後2個、縦は真ん中に1個置けばいい。これが2辺あるので束石は合計10個になる。

絵にすると簡単なのだが、文字だと分かりづらいのが建築である。ちなみに建築資材は今でも尺貫法を使っているので、このサイズで建てれば無駄が少ない。

束石の周りはバラスを敷いて固める。バラスとは砂利石のことで束を安定させるために敷く。

ここで大切なポイントは大体の高さを合わせることだ。鍬で穴を掘ってレベルを出すのは10センチ以内の差を目安にすれば楽にできると思う。

ミリ単位でレベルを合わすのは、バタ角の束と2×4(ツーバイフォー)の大引きである。

専門的な言葉で何言ってるのか分からない方は僕のTwitterを見て、いいねとフォロー宜しくお願いします🤲

https://twitter.com/bantaku6?s=21&t=YsMmYYziylvNWRvGsJIYsg

では恒例の猪木の言葉でお別れです。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」



6

サウナ小屋の基礎と床工事の詳細を書こうと思ったが

「誰が興味あんねん!」

と突っ込まれそうなので、土建屋さんで仕事の休憩中に聞いた話を書きたい。

東吉野村に県か国からの補助金を使って各民家の近くに外灯をつけることになった。
地元の人は喜んだが、移住してきた人の中には何故か反対する人がいるらしい。

「月が綺麗に見えなくなる」

これが反対する人の理由らしい。足元を明るくして転ぶことを防止する効果よりも、月を見上げて夜の風情を優先する人間は地元にはいない。

なんせ変わり者だと、馬鹿にされるだけではなく、地区内で真剣に議論されて揉めにもめた。

冗談では無く本当の話である。

さて、サウナ小屋の基礎の話をしよう。
バラスを束石の周りに敷き詰めるのは基礎束を安定させるだけではなく、小屋の足元から雑草が生えるのを防止する効果もある。

ホームセンターで大量に購入した話を土建屋さんの社長にしたら、

「その半額の値段で、バラスを軽トラの荷台に積み上げてやるよ」

と教えてくれた。次からは、お願いしようと思う。

小屋の基礎の話など面白くないと思うので、水風呂の話をしたい。

サウナと言えば水風呂という人も多いのではないか。

ここ東吉野村では冷たい沢の水を使い放題である。もちろんタダ。

タダより高いものはないと思われるかもしれないが、湧き出ている沢にエンビのホースを突っ込みタンクで受ける。そのタンクはホームセンターに売っているので1番デカいやつを買ってきた。

500リットルの大容量のタンクを山の斜面に設置して、サウナ小屋の横にホースを引っ張る。

まだ、床しか出来上がっていない小屋の横で、はやる気持ちを抑えきれずに作った。

凄い水圧で冷たい水が出てきた時は、ウッドデッキにも満たない床だけの小屋の横で大はしゃぎした。

取らぬ狸の皮算用とはこのことか、妻から白い目で見られ

「水より先に壁を作ったら」

と言われているようで辛かった。明日は壁の材料を買ってこよう。


「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」




7

壁の材料を買ってもいないこの状況で何を語ろうというのか。

東吉野村にはニホンオオカミが最後に捕獲された場所として観光地化しようとしていたが、インパクトの弱さというか...渋谷駅にある、ハチ公のような銅像が田舎の県道沿いにポツンとある。

1905年に捕獲され剥製がロンドンの大英博物館に現存するらしい。

最後のオオカミが捕獲された日よりもさらに42年さかのぼる。幕末に天誅組の変という事件が起こる。

その幕末の志士が討ち取られた場所として、天誅組をこの村は観光の柱にしようとしているが、インパクトのほどは如何なものか。

1863年なので大政奉還の5年前の話である。幕末から明治にかけての時代が大好きな自分でも天誅組のことは、ほとんど知らなかった。

先駆けの志士と呼ばれる天誅組について少しだけ触れてみたい。

京都の長州藩邸にいた吉村寅太郎ら数十人が同志を募り討幕の兵をあげた。そして現在の五條市にある五條代官所に打ち入り代官の首を斬った。

39人の若者が
「江戸幕府を倒すぞ!」
とテロを起こしたワケである。

奈良県五條市の代官所は当時、15人しかおらず、しかもその夜は宴会をしていたそうだ。

錯覚革命という言葉があるとすれば、この義軍こそまさにそうだと思う。京都では尊王攘夷と盛り上がっていたが、日本中が何事もなく暮らしているときに、大和の田舎で、「五條新政府」まで建てて騒いでいた。

五條代官所を襲撃した天誅組は、吉野の山中でキコリをする十津川郷士団に声をかけ1000人を超す大部隊になった。

「次は高取城を落としてやる」

勢いに乗る天誅組に比べて、高取藩兵は150人。震え上がっていたと思う。

その譜代大名の高取藩植村家にはブリキトースと呼ばれる大砲を持っていた。これは大坂夏の陣で大阪城攻略のため作られた物で、淀様と秀頼公を震え上がらせた例のやつである。

1615年の大阪夏の陣で使った6門の巨砲全てを後年、徳川家康は高取藩にさずけた。それから約250年、一度も使われていなかったらしい。

各砲ごとに大砲方という役があり200年間もの長きに渡り、録をもらい子を生み受け継いできた。

たった一門の砲を撫でさするだけで6つの家は、禄をもらい子々孫々生きてきた。
そして6つの家は互いに牽制し合い他家の大砲には触れないという掟があったそうだ。

どの大砲方の家も、200年のあいだ、口伝で火薬の調整法を伝えていたそうだ。ただ一つの家を除いては、火をつけても爆発せず、何の役にもたたなかった。

笠塚新次郎という緒方塾で学んだ者だけが、新知識の火薬を使い、轟然と砲口から火をふき、撃ちまくった。

笠塚家のブリキトースの大砲で天誅組は壊滅してしまう。

今回はサウナの話というより、歴史小説みたいになってしまったので、また出直すことにする。




8

前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外とスキをいただいて、もっと詳しく知りたいという意見も頂戴した。

なので、今回は天誅組シリーズ第2弾を書きたいと思う。

ここ東吉野村には、最後に殺された場所やその状況などは多々見かけるが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな想いを持っていたのかという本質的なところが、実はあまり知られていないと思っている。

偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解をしていたらごめんなさい。

笠塚新次郎の大砲で天誅組は、壊滅状態になったところまで前回書いた。その壊走した天誅組の損害は後から調べると、十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の足に踏まれて死んだものであった。

そもそも天誅組は公卿の子(中山忠光19歳)に支配された浪人と十津川郷士というキコリの集団である。

高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになる。

高取城へ登る細い道を行列で攻めていく。行列で攻めると、後ろの者は戦闘ができない。極端に言えば1000人もの縦隊の先頭数人だけが城の敵と戦っているようなものであった。

徳川幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので仕方のないことかもしれない。城を先頭に1,000人の行列が並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。

四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで南大和のあらゆる村道で見られたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。

十津川郷士は天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、憤慨して帰ることになる。

奥大和に逃げ込んだ天誅組の隊士のほとんどは戦死、自害もしくは刑死の運命をたどることになる。このくだりは、東吉野村ではよく知られている。


さて、昨日から今日にかけて雨なので、サウナ小屋作りに進展はないが、天誅組が壊滅したこの東吉野の地からアントニオの言葉を送りたい。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」



9

ここ数日は雨模様なので、サウナ小屋作りはお休みにしていた。

最近、妻と子供を連れて、日裏という集落に行った話を書こうと思う。

東吉野村は鷲家口から丹生川上神社がメインの通りで小学校、役場、こども園などがある。神社から上は高見川と四郷川の二手に分かれてその川沿いを県道が走っている。

一般的に知られているのはそこまでだ。キャンプ場とつくばね発電所があるので、もしかしたら、日裏川の下流域までは訪れた人がいるかもしれない。

つくばね発電所からさらに5キロ以上、日裏川沿いに道は続く。途中は急勾配の上り坂や、ヘヤピンカーブの連続である。

日裏へ行くことになった、いきさつを少し触れておこう。大豆生にT爺と呼ばれる長老がいる。

「ワシは昔、ヘリコプターに乗っとった」

と山行きで、材木を搬出する仕事に就いておられたらしい。ふるさと村の食堂でお酒を飲んでいる席にご一緒させて頂いた。

ここで日裏からお嫁にこられた奧さんの話を少し聞いていた。

再会したのが、三尾の田中酒店でビールを飲んでおられて、

「よう走る兄ちゃんやな」

と声をかけて頂いた。そこから日裏の話になった。いろいろ聞いていると、ほんとに見に行きたくなってきた。

「T爺、明日迎えに行くから、一緒に行ってくれる?」

とお願いしたら、

「いいよー」

と二つ返事で返してくれた。
日裏の山をひたすら上っていると、左手に開けた土地が突如あらわれる。ヘリコプターの発着場で公衆トイレもある。

そこを少し過ぎると天一神社が右手にあり、車を停め家族3人とT爺で参拝した。境内には300年は優に超える巨木がある。

大人4〜5人が両手いっぱい広げて囲める程の幹は、天にむかって聳えている。

境内だけではなく、周りを見渡せば何本も巨木が聳えたっており、神秘的な雰囲気を醸しだしている。

参拝を終え、車でカーブ2つを超えると集落が見えてきた。天に一番近い集落。山が目線より下にあるので空が広い。日当たりは最高である。

「いや〜、懐かしの〜、10年ぶりじゃ!」

奇しくもこの日は、端午の節句である。4才の息子を連れてきていた、子どもの日にこの集落で子どもが走り回るのは何年振りであろうか。

区長とその息子さん。そして隣の家で山行きの仕事をされている方と世間話をした。

今日は居ないが、すぐ上の家にお婆さんが1人で住んでおられる。全部で3軒が日浦で残っている在所である。

東吉野の中で標高が1番高い在所であろう。冬は寒いが夏は涼しくて過ごしやすそうだ。夏に一度泊まりに来たい旨を伝えた。

今から夏が楽しみである。

10

サウナ小屋作りをお休みしていたというか、頓挫した話をここでしなければならない。

まだ、数日しか経過していないので、上手く消化出来ていないが、とにかく今回の小屋に関しては中止という決定がなされた。

次の場所を一から探さなければならない。

何がいけなかったかとか、いろいろあるがここで書くと全て言い訳に見えるし、まだ日が浅いので、書くのはやめておく。

今日は夕方から雨が止んだので、久々に田中酒店まで山道を走った。59分43秒コースレコードの更新である。

生ビールを数杯頂いて、店主の大将との話の中で興味深いことを聴かせていただいたので、少し書きたい。

「佐倉峠のてっぺんの水は何処に流れるか知っちょるか?」

南向きは鷲家川を伝って高見川、吉野川そして紀ノ川が和歌山で紀伊水道に注ぐ。これは分かる。

よって北向きは、大和川水系かなと思い、その様に答えた。

「それが違うんよ。室生の方に流れて名張川に出る、この名張川ちゅうのは淀川水系で大阪湾までいっとうわけや」

後で調べて見ると、本当に川は京都・大阪府境辺りで北東からの宇治川(淀川水系本流)、北からの桂川と合流し、淀川となっていた。

奈良から三重に入り北上して京都を回って大阪にたどり着く。とても感慨深い。

よく通る佐倉峠で立ち小便すれば、それらルートを伝って大阪湾に至るということである。

まぁ、今回はいろいろあってもしかしたら、このシリーズはこれで最終回になるかもしれないけど。また続けるかもしれないが、最期にアントニオ猪木の言葉で締めたいと思う。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。ありがとう!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?