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工業哀歌 ギザギザハートの陸上部 [全8話 7400文字]



高校時代の話を書きたい。かつて田舎の工業高校の卒業生は「金の卵」と言われていた。

しかし、僕らはバブル崩壊後の入学で、就職氷河期が始まろうとしていた。進学する生徒が就職する者を上回ったのも自分達の代からである。

もちろん自分は就職組に入っていた。高校2年にもなると、大体めぼしい会社が決まっており、授業はろくに受けなくてよかった。

ただ部活だけは真剣に取り組んだ。陸上の名門校で全員が長距離走である。駅伝メンバーになるには熾烈な競走であった。

午前中の授業は朝練の疲れを癒すための睡眠だと思っていた。クラスメイトも漫画を読んだり雑談したり、それで特に怒られることはなく、自由な感じであった。

ある日、ほとんどの生徒が机にうつ伏せて寝ており、静まり返った教室で、副校長の先生が英語を教えていた。すると小さな声で

「チョ、チョットやめてくれ」

と言ったり、何やらせわしなく黒板の前を行ったり来たりしている。いつもの教室の風景に副校長のハゲた頭だけが眩しく見えた。

よーく見ると、窓際に座っている和彦が手鏡を使い、差し込む光を反射させ、副校長の頭を狙って照らし続けていた。

恐らくだが、副校長はそれに気づいているが、何故か注意することなく、その反射される光から逃げまわっていた。

さっきも述べたが、ほとんどの生徒は寝ているか、もしくは漫画に集中している。僕だけがこの不思議な光景を見ているのだが、「和彦やめたれよ」とは言わない。

これが日常であった。

またある日は、♪キーンコーンカーンコーンとチャイムがなり

「では、始めます」

と数学の授業が始まった。ここの校舎の隣に中学校がある。その中学校のチャイムが開始から5分程して♪ピンポンパンポン、ピンポンパンポンとなった。

「おい、チャイム鳴ったぞ」

と雅之はいきなり立ち上がって大声で言った。すると先生は黒板に書いていた手を止め

「はい、では、終わります」

と早くも授業を終わらせてしまった。その先生は黒板を消し、一礼して職員室に帰るという一連のパターンが恒例のようにあった。

こんな高校時代のせつなく哀しい思い出を少しずつだが綴っていこうと思う。



これは高校の頃の話である。僕は工業高校の情報技術科に入学した。機械科や電気科など他にも6クラスある。この高校では1番頭がいいと言われているクラスであった。

赤点問題
中学校はなかった赤点が高校にあり、期末テスト及び学年末テストで40点未満は補講の対象となる。さらに学年末テストでの赤点はすなわち落第に繋がると言われた。

建前上はそうであろう。1年の2学期辺りから、これはただの脅しであって、授業を聞かなくても、赤点でも何とでもなるという事が分かってきた。

それは先輩からの情報であったり、実際に授業を受けて、時間の無駄だと、身も蓋もない事実に直面する。

例えば、情報技術科には電気基礎という科目があった。教えてくれるのは定年前のおじいさんみたいな人で、やたら難しい公式をずらずらと黒板に書いて、独り言のようにブツブツと張りのない声を出す。

昼飯を食べた後に彼の授業をうけて寝ない人は見たことがなく、もしいるとしたらその人は神である。本人も分かっているのだろう、この先生が寝ている生徒を注意することはなかった。

しかし、この電気基礎の先生は、何を思ったのか、学年末試験にかなり難しいテストを出す。クラスの平均点がなんと12点、ほぼ全員が赤点という事態に陥った。

僕も生まれて初めて8点という1桁の点数を取った。

そしてテスト後の授業では、全員にその解答用紙を返し、ブツブツ説明しながら、黒板に答えを全て書いた。そうして、

「今から再テストをやります」

と先生は、なんと目の前に答えがあるにも関わらず、同じテストをやるのである。

僕は、字がきたなくて読めない所が2箇所くらいあったが、再テストでは90点を獲得した。

しかしあろうことか、この再テストでクラスの平均点が、70点であった。黒板に答えがあると言っているのに、また1桁の点数を取るバカが何人かいた。

そんな奴は落第になるかと思いきや、その先生は補講をするという。それが

「原稿用紙3枚に漢字を書いて提出しなさい」

と謎の補講内容で許された。もはや電気基礎はどこへ行ったのか、漢字を原稿用紙に埋めれば進級できることを知る。

ちなみにクラスメイトの雅之は400文字の原稿用紙に漢数字の「一」を全て埋めて

「なんか、田植えしてるみたいなやー」

と周りを笑わせた。

3

今から25年前の話である。高校卒業時に就職先が少なくなっており、大学への進路を選択した同級生たちは

「4年したら、景気も良くなってるかも」

と甘い期待を抱いていた。しかし、4年後さらに厳しい状況に陥ったのは、歴史が証明している。

出席日数
前回は赤点について書いたが、今回は出席日数について書こうと思う。授業数の3分の2以上の出席が必須と言われていた。

ほぼ皆勤賞の自分にとっては関係ないことだが、バイトを頑張っている奴等にとっては際どい生徒もいた。

福井という僕の隣の中学から来た子がいた。彼はバイトを掛け持ちして、よく授業も休んでいた。

ある日、彼が真っ青な顔をして

「拓、なんぼならお金借してくれる?」

と聞いてきた。どういう状況なん??と話を聞いてやった。

福井は家の近くに停めてあったバイクを盗んだ。長期間使って無かったようなので、バレないと思ったという。最近、バイクで登校していたあれは盗難車だったのだ。

そのバイクの持ち主が、実はヤクザだったらしく、福井は今、追い込みをかけられているという、、、

残念な友達を持った自分の運の悪さに溜め息を吐きながら、

「ふぅー、2万なら、なんとかできる」

といつ返ってくるか分からない、なけなしの金をはたいた。さらに福井はありとあらゆる友達に声を掛けて金を借りまくった。

しかし、60万の弁償金には届かず、大阪に出稼ぎに行くことになる。西成のドヤ街のような所で長期間働いたらしい。10月に出発して帰ったのが2月であった。

さすがにクラスの誰もが、

「福井は落第やな」

と口を揃えていった。10月になるまでもヤツは、結構サボって授業を飛ばしていた。

4月になり新学年の始まりである。新しい担任を迎え、教室も新しくなったが、なんと福井が隣に座っているではないか。

「おまえ、なんで進学できたん?」

と聞けば、よく分からないが補講を1日だけやって、先生に大阪のお土産を配ったら許してくれたらしい。

これが2年の新学期の話である。秩序の崩壊は言うまでもなく、学校に行っても行かなくても進学出来ると、身も蓋もないことが証明された。

今回は高校生活の部活について書こうと思う。約30名が陸上部に所属しており、その全員が長距離走を走る。県駅伝では16年連続で優勝しており、常勝軍団であった。

中学で1番走るのが速いと思っていた自分が1年の時は、補欠にも選ばれなかった。この7人がスタメンとされる高校駅伝について、まずは触れておこう。

毎年12月に京都で開催される全国高校駅伝は通称「都大路」と呼ばれる。1995年の第46回大会では5位入賞という快挙を成し遂げた。これは四国勢初の入賞ということで地元の新聞やテレビが大きく取り上げてくれた。

先にも述べたが僕は補欠にも入らなかった。この大会で仙台育英高校のギタヒという黒人留学生の圧倒的な速さに世間は度肝を抜かれる。

それは各校エースが走る1区の10キロ区間で2位と2分以上の差を付けてタスキを渡した。「ギタヒショック」は現場ではもちろんのこと、テレビを見ていた人にとっても

「レベルが違いすぎる」

と感じたらしい。ちなみにギタヒは卒業してすぐのシドニーオリンピックでケニア代表となり、1万メートルで9位になっている。

ギタヒだけでなく仙台育英には何人か留学生がいてケニアやタンザニアからやってきた。僕の先輩から聞いた話だが、

「あいつら年を誤魔化してるんやで」

という。その先輩はギタヒと別の黒人留学生、ジョンと同じレースに出ていた。明らかに顔が高校生ではなく、大人に見えたので直接聞いてみた。

「ハウ オールド アー ユー?」

するとジョンは

「メイビー 18(エイティーン)」

と答えた。ちょっとメイビーって、と先輩は英語のできる生徒を連れてきて詳しく聞いた。彼らには日本のような戸籍制度がなく、サバンナといわれる草原で暮らしている。

ある程度の年齢で軍の学校に召集されて、生年月日がそこで決まるらしい。なので誕生日はむろん年齢も適当なのだ。

そんなサバンナを走っていた彼らに日本人の高校生が勝てるわけがない。例えば、江戸湾に黒船がやってきたようなもので、太刀打ちのしようがない。

この話の続きは、また今度に書くとして、最近YouTubeで当時の駅伝の映像を見た。若かれし頃のギタヒの走る姿は、サバンナで獲物を追いかけるチーターと重なって見えた。

5

徳島市の生徒にとって工業高校は普通科に入れなかった落ちこぼれの学校という感覚がある。一方、郡部から来る者の中には就職のためとか、実業に特化した勉強をしたい生徒が集まる学校でもあった。

前に述べたが、この学校の中では、1番優秀なクラスである。僕が中学時代、英語のテストで100点など取ったことが無い。これが高校に入って最初のテストで100点満点であった。まず、これについて説明しよう。

1問目、A B C D (  ) F G H
上の(  )の中を答えよ

高校に入って、マジでこの問題が出た。タイムスリップをしてきたような感じを覚えた。しかし、これを間違えるヤツがいることを知る。答えに「ヨ」と書いてあったのだ。

さらに国語や数学といった基本的な勉強は中学では当たり前と思っていたが、ここ工業高校では通用しなかった。身も蓋もない話だが、力だけが必要だと、頑なに信じるようになる。尾崎豊の世界である。

東條というクラスメイトがいた。彼は常に3人の子分を従えて、喧嘩っぱやく、よく陸上部とも対立していた。

ある日、東條は大学生の彼女に車で迎えに来てもらっていた。野郎ばかりの工業高校では人の彼女であろうが、声をかけて友達になろうとする輩がいる。

また、それを見ようとやじ馬が彼女の周りを取り囲んだ。

「へぃ、かのじょー、オレと一緒に遊そばなーい?」

と一番乗りで駆けつけた雅之は、得意のナンパで車の彼女に声をかけていた。後から東條の跳び蹴りをくらうのだが、新喜劇を観ているようで息がピッタリあっていた。

クラスの雅之をはじめ、東條たちは近くにある大学の学生寮にたむろするようになった。始めは大目に見ていた大学側も、あまりに毎日来るもので高校にクレームが入った。

しかし、先生から注意を受けて、やめるような奴らではない、むしろ逆効果である。今でもあるのか分からないが、

「東工生、出入り禁止」

の看板が出来た。屁のつっぱりにもならないこの看板を尻目に彼らは大学の女子寮のことを「アネックス」と呼んでいた。

それは高校の別館という意味なのか分からないが、教室にいるよりも居心地が良く、屯するには最高の場所である。しかし女子大生にとっては迷惑だったと思う。

その中の何人か分からないが、東條をはじめ東工生と付き合うという謎の現象が起きた。男女の仲は分からないものである。




高校時代の夏合宿について書こうと思う。徳島の夏休みは蒸し暑く、走りこみをするには少し過酷すぎる。

そこで長野県の車山高原に2週間、鳥取県の大山に1週間、夏合宿をするのが恒例であった。

真面目な話をまず書こう。この走りこみ合宿は、早朝6時、午前10時、午後4時の3回練習が行われる。また全て自己申告で

「何キロお願いします」

と監督に自分が走る距離を伝えて陸上部のマイクロバスに乗り込む。バスは20キロ地点から部員を降ろし始め、次は15キロ、10キロの距離で部員を降ろす。そこから走って旅館に帰る練習方法であった。

5キロ毎に給水があり、バスが見えれば、お茶やスポーツドリンクでのどを潤した。

この合宿は、ノルマ制で毎日、合計50キロを走りこむ。これら数字だけ見ると過酷な感じがするが、実際は早朝と午前に20キロずつ走っておけば、夕方はゆっくり10キロでいい。

朝が苦手だったり、夕方涼しい時間に距離を稼ぐ者もいる。

信じてもらえないかも知れないが、人間はどんな状況にも慣れてくる。1年の時は余裕がなかったが、2年3年と自分はこの練習が合っていた。

1キロ4分を刻んで走る。ただひたすら機械の様にマイペースで走ろうと思っていても、後から先輩や同期に並ばれると競走になっていく。

また、白樺湖や女神湖の周回コース、霧ケ峰のクロスカントリーを使って走りこみを続けた。合宿の最終日は陸上部の父兄が懇親会を兼ねて泊まりにくる。

ある時、たぶん大山合宿の最終日だったと思う。先輩から声がかかった。

「拓、今日は大阪の女子大生がきとったで」

夕食を食べおわり、部屋でくつろいでいたが、先輩にけしかけられて女風呂を覗きにきた。毎日50キロ走っていても、まだまだ元気だ。

「なんかガラスが曇って、よく見えないっすね」

と旅館の垣根に隠れながら先輩と女風呂に近づいていく。ガラス張りの大浴場は旅館の庭が綺麗に見えるようになっていた。

これ以上近づくと、ヤバいと思った瞬間、知った顔と目があった。

「先輩のオカンっすね、、、」

「、、、オカンの裸を見てもうた」

女子大生が入っていると勇んでやってきた先輩はオカンの裸を見て心が萎えてしまう。

車山合宿でも、先輩は女風呂を覗いて怒られた。そこは箱根の山梨学院と合同合宿をやっており、大学生が高校生を扇動したとして、一緒に女風呂を覗いた学生は坊主にされた。

今でも山梨学院の1年生が丸坊主なのは、これが発端である。

高校の修学旅行の話を書きたい。徳島のヤンキーが♫ はるばるきたぜ 函館!っと北海道に大挙した。

ニセコのスキー場に2泊して、札幌で1泊する行程であった。野郎ばかりの集団が200人超、さぞかし引率の先生は苦痛を伴ったであろう。

ニセコのホテルではビュッフェ形式で朝、昼、晩と食べ放題であった。ほぼ貸切りのホテルでは、周りに最低限の迷惑で抑える作戦が順調に進んでいた。

最後の日は、札幌である。徳島にはない大きな高層ホテルに着いた。俺はホテルのエレベーターを待つ行列で、強烈な便意に襲われていた。

トイレを探したが見つからない。もうすぐエレベーターで部屋に行けると並んでいたが、もう我慢の限界を向かえようとしていた。

俺は全身から脂汗が出てきて、血の気が引くのがわかった。ツインの同じ部屋に泊まるツレに鍵を渡し、

「ちょっ、クソしてくるわ」

と目をカッぴらいた状態で、ラウンジを振り返った。そこにはヤシの木と南国風の植物が植えられていた。俺はその中に入りズボンを下ろした。

ツレが俺を指差して、ゲラゲラと笑っている。正直、恥ずかしいというよりも助かったと感じた。ビュッフェを腹いっぱいに食べて、バスに揺られ、ようやく着いたホテルで長蛇の列に並ばされた。

しかし快便であった。ティッシュを持っていなかったので、その辺の葉っぱを使った。俺のツレは使い捨てカメラで何枚も記念写真を撮ってくれていた。

この北国のホテルで南国風の植えこみにウンコする話、これは何十年たった今でも鉄板のネタである。

さて、札幌観光に話を戻そう。テンション爆上がりの野郎どもが自由行動を許される。

「夜の7時までにこのホテルへ戻ってくださいね」

と担任のおばはん先生が声をかけてきた。しかし、それは「今夜中に帰ればいい」と勝手に変換される。とりあえず同じフロアに泊まるツレと8人くらいで外に出た。

夕方になって、気温も下がってきた。札幌と言えばパチンコだと、5人が抜けた。俺ら3人でラーメンを食べにススキノを目指した。

田舎ヤンキー3人が、初めての地下鉄に乗って、すすきの駅まで何とかたどり着いた。誰かが調べた味噌ラーメンの店を探すのだが、街がデカすぎて迷ってしまった。

風俗や飲み屋のボーイに声をかけられ、びびっていた田舎者は、摩天楼のような繁華街で怪しい熊の木彫りを3人とも買わされて帰ったのであった。



ここの陸上部員にとって部活は高校生活の全てであり、すなわち駅伝も僕らにとっては全てであった。

前に書いたが、16年連続で全国駅伝に出場の大会は5位入賞という過去最高位を更新した。翌年は14位であった。この14位のヒーローである日裏先輩について書きたい。

走りのセンスが抜群の先輩であった。3年で始めた3000メートル障害で、インターハイ入賞という快挙を成し遂げる。

しかし、精神面での弱さがあった。プレッシャーに滅法弱かった。前回がアンカー勝負になり、2人抜きで5位入賞をはたした。この重圧を人並み以上に先輩は感じていた。

俄然注目の集まる師走の全国駅伝で、今回は12位で襷がアンカーの日浦先輩に託された。先輩は必死の形相で都大路をひた走り、西京極陸上競技場まで帰ってきた。

順位は12位のままであるが、後続に2人ランナーが迫っていた。

「ド、ドン、ド、ドーン」

大太鼓と歓声が鳴り響く会場に、テレビとラジオの実況放送が臨場感を掻き立てる。ラスト300メートル、バックストレートにさしかかった所で1人抜かれて13位。

ラスト100メートル。大観衆が湧き上がるメインストレートで先輩の顔が歪んだ。そして足がもつれた。テレビの実況は

「徳島東の日裏、足がつった、大丈夫か」

と叫んでいる。会場がどよめいていた。約50メートル、四つん這いになってゴールした。

「執念のゴーーール!!」

と実況のアナウンサーが絶叫したのが、瞬間最高視聴率MAXであっただろう。競技場で観た僕は、割れんばかりの歓声と拍手に感激で心が震えた。

京都の旅館に帰り、次の日の朝、コンビニでスポーツ新聞を手に取った。裏の一面にデカデカと執念のゴールが載っていた。スポニチなんかはカラーで大きく取り上げていた。

それを持って旅館に戻ると、キャプテンは昨日の録画をロビーのテレビで何度も繰り返し観ていた。そう、日裏さんのゴール場面である。

僕はあまりチョけるのは先輩に申し訳ないと思いつつ、キャプテンの悪ふざけに付き合っていた。すると後輩が日裏さんの驚くべき行動を報告してくれた。

「コンビニでスポーツ新聞を全部買い占めて、ゴミ箱に捨ててました」

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