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ユニオンジャックの窓[全11話 6300文字]

1

夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、親父が癇癪をおこして一方的にオカンへ怒りつけ、それをオカンは

「ハイ、ハイ」

と聞き流す。そんな感じの喧嘩というか、かなり激しめの癇癪は、日課のように起こっていた。

瞬間湯沸かし器のごとく、癇癪を繰り返す親父はご近所の名物でもあった。

子供の教育はビンタが基本。悪い事をしたら怒るよりも平手が顔や頭に飛んできた。

小学生の頃はそれが当たり前だと思っていた。だから、つらいとかしんどいと言う気持ちはなかった。

ある日、何かやらかした弟を僕が叩いて泣かしたのだろう。

親父の強烈な鉄拳で、僕はぶっ飛び、頭で居間の窓ガラスが割れた。

ベランダに面したその窓は、次の日、ガムテープでイギリスの国旗の様になっていた。


2

二つ上の姉貴がいる。彼女が高学年の頃、算数の問題を親父に教えてもらっていた。

姉貴は算数が苦手でテストの成績も悪かった。

そこに大工だから算数は得意という、訳の分からない解釈で、あの癇癪親父がやってきた。そして長らく姉貴を教えていた。

恐らく自分では、その問題を分かっているが、教えることに関して素人の親父は

「なんでこんな問題も分からんのや」

と平手で頭を一発叩く。

泣きながら問題を解く姉貴を見て、絶対に自分は親父に教えてもらわないと心に誓った。

第一子として生まれた姉貴は、それでも優しく育てられたと思う。

姉貴が中学生になった頃、親父がCDラジカセのデッキを買ってきた。

そしてCDは前川清のアルバム1枚。中の島ブルースなどの名曲が入っていた。

何故それを中学生の娘に聴かせたかったのか、はたまた自分が聴きたかっただけなのか。

二人でレコード屋に行き、一緒に選んできた物らしい。

ともかく、姉貴の1番最初に買ったアルバムは、前川清という事になる。


弱小剣道部の主将。姉貴は小学生で始めた剣道を高校3年で引退するまで続けた。

剣道の成績はいまいち残せなかったが、チーム内の結束は強く、中学の部活仲間が大人になってからも、家によく遊びに来ていたのを覚えている。

友情というか大切な仲間を残す事は出来たようだ。



3

清重そろばん塾という、姉貴をはじめ兄弟3人が通った塾があった。

確か週4日、月火木金曜の放課後に立ち寄って、そろばんを習った。

ここは主に女の先生が1人で数多くの子供たちを見ている。

この塾では基本的に自分で問題を解き、その答え合わせを、近くで終わった者同士が互いに○×をつけていた。

先生は解らない問題や悩んでいる子には優しく教えていたが、ズルをする子供には厳しかった。



井本というやんちゃな同級生がいた。

当時僕は小学5年くらいで周りの友達はドラクエというゲームに夢中で、誰が先にクリアするのか競いあっていた。

家にファミコンのない僕は、学校が終わるとソロバンではなく、井本の家に直行した。そして2人でせっせとドラクエのレベル上げに没頭していた。

しかしソロバンを休む訳には行かず、突発的に編み出した技がある。

そもそも、清重ソロバン塾は性善説で、互いの答え合わせを信用していた。

俺と井本は、答えの桁数だけ合わせて、適当な数字をサッと書き

「終わったので答え合わせしまーす」

と、しれっとした顔で、お互いの解答用紙に⚪︎をつけた。

「正解したので帰りまーす」

と通常は、1時間位かかる所をたったの5分で終わらせていた。

そしてダッシュでまた井本の家に戻り、ドラクエのゲームをする。これを繰り返した。

二週間くらいこの方法を続けていた。ある日、

「正解したので帰りまーす」

と2人が言うと、先生が

「ちょっと、拓ちゃんとのぶ君(井本)の解答を持って来なさい」

穴があれば入りたい。この時程、そう思ったことはない。みんなの前でめちゃくちゃ怒られた。

「何これ!!全然違うじゃない」 

当然だが、僕らの解答は一問も正解では無かった。

そして怒るとヒステリックな先生は、白目をむいて甲高い声で僕らを叱ってくれた。



4

正月早々、左眼の上を6針縫ったという話。

我が家の元旦は、親父の実家近くの神社に参拝して、お墓参りするのが恒例であった。

小さな神社だが、境内に滑り台と鉄棒、そしてシーソーが2台ある。お参りの後、姉貴と僕、4歳くらいの弟と遊んでいた。

そして姉貴と僕がシーソーで遊んでいると、弟は隣のシーソー脇に、立ち小便をやりだした。

「こんな所で小便などするな」

と僕は怒ってシーソーから飛び降りた。

小便の痕を消す為、周りの土をかき集め、それを掛けようと屈んだ瞬間、目から星が飛び散り、強い衝撃を受けた。

よりによって僕が土を掛けていた、隣のシーソーに姉貴と弟が乗って遊ぶという惨事になる。

弟はシーソーの前の方に乗っていたのか、はたまた降りていたのか。

姉貴が勢いよく乗ったシーソーの反対側の角が僕の顔面に激突し、目の上を陥没させた。

息子が眼の上を陥没させ顔面血だらけの状態でも、親父は家族全員を連れ、まずはお墓参り。

さらに母方のお墓に車で行き、お墓掃除と線香をあげて、ようやく僕の治療へと病院に連れて行った。

左眼の上を6針も縫って、なんとか血は治まった。

さぞご先祖様は正月にやってきた、血だらけで、お化けみたいな顔をした少年を憐れんでくれたことであろう。


5

少しでも歯の丈夫な子供を育てたい。オカンはこの願いが人一倍、強かったのであろう。

姉貴、オレ、弟の3人が小学生の頃、国立大学歯学部の小児歯科で定期検診を受けて育った。

数ヶ月に一度、オカンが学校まで自転車で迎えに来る。授業を途中で抜け出して、オカンのこぐ自転車の後ろにまたがり、10キロ先の大学病院まで通った。

雨の日や風の強い日でも、オカンは自転車で子供を荷台に乗せて走り続けた。

オカンは生まれつき歯が弱かったという。僕の一番古い記憶でも既に入歯をしていた。

もしかすると、オカンは歯の弱さが子供たちに遺伝しないかと心配して、大学病院の定期検診を受けさせていたのかもしれない。

これは祖母から聞いた話だが、オカンがまだお腹の中にいた頃、食べ物がなくて、ほんとうに困窮していた。

家の白壁を崩して、それにかぶりつきカルシウムをとっていたのだと。

昭和25年の田舎では、女手ひとつで子供3人を育てるのは、かなり厳しい環境であったと想像する。


6

オカンが車の免許を取りにいく話をしたい。僕が中学の頃だったと記憶している。

チェッカーズの解散で落ち込んでいる僕をオカンが初ドライブに誘って、死ぬほど恐ろしい目にあい、くよくよしてるのがバカらしく思えた。

話を戻そう、オカンは姉貴と新聞配達で貯めたお金で、共に自動車教習所に通うことにした。

高校まで剣道で鍛え、18歳になったばかりの姉貴と、当時40代のオカンでは比べるまでもない。

反射神経というか運動能力がものをいう運転教習で、オカンはかなり苦戦した。

そして実地の教習を落とす度に、親父の激怒は止まらなかった。

家で嵐のように怒り狂う親父を見ながら、

「オカン頑張れ!」

と子供心に応援した。


7

我が家で唯一、ファミコンを買ってもらった、弟の話を書こうと思う。

小学生にとって4年の歳が違えば体力の差は歴然とある。それでも弟は僕の遊びについてきては、よく泣かされていたといわれている。

ある日、そろばん塾からの帰り道に弟が友達と畑で遊んでいた。そこは数日前に僕らが遊んで

「畑を子供らに荒らされた」

と学校にクレームが入り、先生から注意を受けていた場所であった。

僕はそろばんのカバンを振りかぶり、迷うことなく弟の頭をバシンと叩いた。

「ここで遊ぶな」

とそれだけを言って、友達の家に遊びに行った。

しばらくして、家に帰ると弟の頭が、なんと包帯でぐるぐる巻になっており、さらに親父の機嫌が悪かった。

「なんかあったん?」

こっそりオカンに聞くと、僕がカバンで叩いた後、弟は頭から血を流して、病院に運ばれたらしい。

慌ててカバンの中を見ると、ソロバンと教科書の他に、細長い文鎮が入っていた。恐らくその文鎮の角が彼の頭に当たったのであろう。

そして弟はケガした部分をバリカンで刈られ、何針か縫ったという。

僕は親父からゲンコツをくらい

「人を叩くな、言って聞かせろ」

と怒られた。

今思えば、親が子供に体罰でしつけをしているのに、その子供が弟に暴力をもって、教育するというのは、ごく自然な形であるように思う。

膨大なエネルギーと時間を持て余し、同じ空間で、常に一緒に居れば、喧嘩は絶えないだろう。

しかし僕が中学生になると兄弟喧嘩はぴたりと無くなった。

陸上競技と駅伝を本格的にはじめて、自分の持つエネルギーがそれに注がれ、喧嘩などする暇がなくなったのだ。

またその頃になると、幾分か親父の癇癪の頻度も少なくなり、それは年齢のせいであろうが

「加齢と共に性格は丸くなる」

と世間で言われるように、親父は、オカンや子供たちへの態度も少しずつだが、穏やかになっていった様に思う。

8

話を戻そう。弟は高校に入ってからようやくファミコンを買って貰えた。

正確に言うなら、弟の貯めたお金で買ったので、買っても良いという許可を得た。

僕が小学生の頃、誕生日やクリスマス、正月やお盆など何度も親父に

「ファミコンを買っていい?」

と頼んだが

「ファミコンなんて物は絶対に駄目だ」

と言われ続けた。姉貴もファミコンが欲しいと何度も頼んだが断られた。

「我が家にファミコンは必要ない」

と親父は断固として許さなかった。

子供たちがお小遣いを必死に貯めて、買いたいとお願いしても、断固として親父はそれを受けつけなかった。

僕が高校を卒業し、川崎市で働き始めた頃、久々に帰省すると、オカンの部屋で、弟がテレビに向かってファミコンをしていた。

「ファミコン、買ったんや」

と弟の背中に向かって声をかけると、後ろを振り返る事なく

「親父と一緒に買ってきた」

と彼はテレビの画面から目を逸らすことなく答えた。

僕は心の中で「もう高校生なんやから必要ないやろ」

と思ったが、長年の蓄積されたファミコン熱に無我夢中の姿態を見ると掛ける言葉はなかった。



9

その頃、姉貴は鳴門にあるリゾートホテルに就職してその社員寮に住んでいた。

もともと狭い教員住宅に5人で生活していたのだが、新しい家に引っ越してすぐ姉貴は高校を卒業することになる。

卒業と同時に就職してホテルの独身寮に入った。

僕の記憶が定かではないが、弟が高校に通っている頃に姉貴は1年間、沖縄の系列ホテルで働いていたようだ。

それからまた、鳴門に戻ってから、姉貴の行動力は、なかなか凄いものがあり、身近にいたオカンが一番よく知っているのではと思う。

アメリカのユタ州にある、英語学校に留学する段取りを1人で考え、それに向けて行動に移していく。

今でこそスマホがあれば、何でも調べる事は可能だが、当時の姉貴のバイタリティを想像だけだが、敬意を込めて書こうと思う。

まず、働いているホテルを親父の承諾を得て、辞めなければならない。

そこで登場するのが沖縄で知り合ったハーフの同僚である。

わざわざ沖縄からその同僚を実家に連れてきて、親父にホテルの勤務状況が、どれだけブラックであるかを酒を交えて説いた。

そして姉貴がホテルを辞めるのに、引き留めにくるマネージャーに対して、親父を味方につけて、強引に退職届を出すという荒技をやってのけた。

安かったであろうホテルの給料を、少しずつでも貯蓄して、留学の費用に当てた。

姉貴の周りにアメリカで留学した人間などいたのか分からないが、とにかく一人でビザを取り、入学と住む場所を決めて旅立った。



10

ちょうど姉貴がアメリカに行く頃、川崎で働いていた僕の陸上部が無くなるという、降ってわいたようなチャンスが巡ってきた。

会社は早期退職制度を用意して、まだ3年目の僕に200万円の退職金を提示してきた。

しかも辞めてから1年間は、会社の寮に残ってもいいという。まだ20歳そこそこだった僕は、そんな条件に迷わず飛びついた。

そうして一緒に辞めた先輩と向かった先は、川崎駅前にある「HIS」という格安の航空券の店で、

「来週から10日間、どこでもいいからお得なチケットを下さい」

と東南アジアのタイ往復チケットを三万円で手に入れた。そして何の準備もなしに2人は旅立った。

日本から出るのが初めての2人は、旅行の知識どころか英語も全く喋れなかった。

タイの空港に降り立ち、売店でリンゴを買おうとしたが、どう言って買えばいいのかさえ分からない。

「マイネーム イズ アップル」

キョトンとする店員にリンゴを指差し、お釣りまで受け取ってきた先輩を見て人間力の凄さを学んだ。

旅の話はまた今度に書くとして、姉貴と僕は一時期は就職して安定していたが、弟が高校を卒業する前に不安定な状況に陥っていた。

「これはファミコンをしている場合ではない」

反面教師ではあるが、国立大学に受かるために、猛勉強する弟のモチベーションになったのではないかと、勝手に思い書いてみた。


11

最後に親父について書こう。

自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。

「借家の大工だと馬鹿にされる!」

と親父が昔、よく言っていた記憶がある。

僕が高校生の時に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。

通常は木造二階建てを造るのに3〜4ヶ月で、できるというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。

これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。

いろんな病院に診てもらったが、病名すら分からなかったらしい。

恐らくバブルの時代にひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだと思う。

それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。それが3年もかかった理由である。

祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから必然的に自分も大工になった。と親父が酔っている時に何度か聞いた事がある。

「ワシは中学を卒業したらすぐに働いた」

それが親父の口癖だった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。

千葉の伯母さん曰わく、勉強が出来なかったから定時制の高校しか受からなかったのだと。

中学の同級生であり当時、農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に住むことになる。

当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。

中学の母の成績が良かったので、もし結婚したなら、自分より頭のいい子供ができるはず。自分に似た頭の悪い子供を作りたくない、そんな想いから結婚を申し込んだのだと。

そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。確か月5,000円程だった気がする。

僕が小学生の頃は、友達の家よりもかなり貧乏だと思っていたが、今から思えば破格の家賃で、こんな所に住めればラッキーと思う他ない。

一度だけ親父から聞いたことだが、結婚前にこの団地が造られる頃、町中から応募が殺到したというが、真実の程は定かではない。

教員住宅なのになぜ農協の職員が入れるのかと、疑問に思うかもしれないが、役場に勤めてる人や消防士の方もいたので、恐らく公務員であれば、誰でも入居できたのだと思う。

親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことを、良く思っていなかったようだ。

学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で、子供を育てたいと思ったのかもしれない。

この話の大半は役場に勤めておられる木村さんという方が、親父とよく酒を飲んでおられ、そこで話していた内容を子供ごころに覚えたものである。

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