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檀原実奈評 アン・ラドクリフ『森のロマンス』(三馬志伸訳、作品社)

評者◆檀原実奈
二百年余りを経て翻訳された、謎めく英国女流作家のゴシック名著
森のロマンス
アン・ラドクリフ著、三馬志伸訳
作品社No.3628 ・ 2024年02月17日

 The Romance of the Forestはフランス革命の勃発から二年後の一七九一年に出版され、それから実に二三二年の歳月を経て『森のロマンス』のタイトルでわが国で翻訳、出版された。
 本作はゴシック小説というジャンルの名著とされてきたため、ゴシックの諸要素から現代サブカルにおける片鱗まで図説した『ゴシック全書』(原書房)の〈森〉の項で、まっさきに紹介されている。「ゴシック」は「ゴート人の」という意味から発展して、ヨーロッパのある建築様式を指すようになり、やがてはゴシック建築の廃墟や牢獄などを配した怪奇小説を形容する言葉となった。一方で「ロマンス」は「ローマ人の」の意味から変化して、中世ヨーロッパの騎士物語や恋愛小説を示すようになった。ゆえに『森のロマンス』は、こうした要素をすべてはらむ壮大な物語となっている。
 舞台は一六五〇年代後半のフランス。スペインとの戦争が終わりに近づく頃、遊興による没落でパリ逃亡を余儀なくされたラ・モット夫妻と従者の一行は、ヒースの荒野を馬車で急いでいたが、突然一軒の家が目の前に現れる。そこにいた悪漢たちに捕えられるかと思いきや、監禁されていた乙女アドリーヌを託され、一緒に遠くへ行けと命じられる。一行が薄暗い森を進むうちに、廃墟となった修道院にたどり着き、しばらくその不気味な僧院に留まることにした。
 この辺りの雰囲気は冒頭のエピグラフに書かれた『マクベス』の一節そのもので、ラ・モット夫妻の一行は蝙蝠や梟、亡霊に怯えながら迷宮のような僧院で幾夜も過ごすのだ。十八歳ほどの娘アドリーヌは母を亡くし、父になかば捨てられた孤児だが、美しく気品にあふれ、若い紳士を次々と虜にする。だがこのヒロインは、ギリシャやシェークスピアの悲劇を思わせる運命のいたずらに容赦なくさらされる。一件落着のそばから別の事件や懸念が持ち上がり、読者は休む暇なくページをめくることになる。
 三部構成をとり、しだいに白骨、悪夢、短剣、巻物、霊廟などがあらわれ、〈この恐ろしい宙吊り状態〉がいつまで続くかとアドリーヌが怯えるように、サスペンスに満ちている。著者は巧妙に筋道を立てて読者を物語の深い森へ導くのだ。
 やがて舞台は森を抜け、ローヌ川を上り、アルプスの崇高な山々にたたずむ村や、イタリアの海岸に及ぶ。その折々の風景描写も本作の魅力のひとつだ。たとえば夕暮れには〈風はなく、遠くの丘の後ろに沈んでゆく太陽は風景を虹色に輝かせ、林間の空地をより穏やかな色合いに染めた。夕露から発散する瑞々しさが空気に充満した〉と感嘆し、山岳地帯では〈太陽がアルプスの山々の上に顔を出し、白い頂をほんのりと照らし出したかと思うと、突然その光を自然界すべての上に投げかけ、炎のように燃え立つ雲が下の湖面に映し出され、上方の岩山が薔薇色に染まっていく〉と大自然を讃美する。当時の読者は旅行記を読むような興奮をおぼえただろう。
 豊麗な翻訳の言葉にも魅了される。〈野趣にあふれる〉〈名状しがたい〉〈尊ぶべき資性〉といった気品ある表現に出会い、心地よいリズムの文体に運ばれ、文語調の詩歌を味わうことができる。
 第Ⅲ部から登場する村の神父ラ・ルック師によって、本作はまた違う側面を見せる。決して他者への攻撃を正当化するためではない、本来の信仰の美しさがそこにある。
 アドリーヌがたびたび失神するのには、さすがに時代の隔たりを感じるが、そこは現代に生まれた優勢をかみしめるとしよう。
 原著が古く著作権が切れているため、一部のウェブサイトでは英語版電子書籍を無料で公開している。印象的な場面があれば、もとの英文を気軽に調べてみてもいいだろう。
 次の長編The Mysteries of Udolphoは『ユドルフォ城の怪奇』上下巻(作品社)として既に翻訳が出ている。その巻末に収められた訳者解題では『森のロマンス』と同じ訳者三馬志伸氏が、著者の知られざる経歴を詳述している。一部を紹介させていただくと、ロンドンの商家に生まれたアンは、かの陶芸商ウェッジウッドの共同経営者である知識人トマス・ベントリーに預けられて育った。そこで培われた文学の素養を余すことなく発揮し、作品では冒頭のほか各章にエピグラフを入れ、オリジナルの詩も多数したためている。長編三作目『森のロマンス』がアンの出世作となったが、それ以降も公の場にほとんど出ることなく、生涯は謎に包まれていた。数々の模倣作が出現し、英国ゴシック小説の一大ブームを巻き起こしたという。
 怪奇小説のみならず、現代人が親しんできた童話、ファンタジー、ホラー映画、ゲームなどに、本作との共通点を見いだす人もいるだろう。それは幾つかの大作を生みながらも静かな最期を遂げたアン・ラドクリフが、実は作品の息吹を遠く現代にまで伝えてきた証ではないだろうか。
(翻訳者/ライター)


「図書新聞」No.3628・ 2024年02月17日に掲載。

https://toshoshimbun.com/

「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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