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井上毅郎評 アンナ・アスラニアン『生と死を分ける翻訳――聖書から機械翻訳まで』(小川浩一訳出、草思社)

人間とともに存在し続ける営み――通訳・翻訳という営みの本質を、歴史上の出来事に著者自身の知見を交えながら紐解く

井上毅郎
生と死を分ける翻訳――聖書から機械翻訳まで
アンナ・アスラニアン 著、小川浩一 訳
草思社

■翻訳・通訳という仕事はおよそ人間が言語を使い始めたときから存在していると考えてよいだろう。そして歴史の中であらゆる仕事が消滅する中、今日に至るまで生き残っている仕事でもある。この事実は翻訳・通訳に対する圧倒的な需要を意味する。今日、母語以外の言語を習得する機会がますます増えてはいるものの、グローバル化により人と情報の行き来が活発になることでかえって翻訳・通訳の不足が際立っているともいえる。
 しかし、ある仕事が存在し続けるには需要があるだけでは不十分で、それが人間にしかできないということが重要だ。この視点で翻訳・通訳を考えると、昨今の情報技術の進化に考えが及ぶだろう。特に人工知能(AI)や機械学習の進化は目覚ましく、すでにいくつかの領域で人間の能力を超えている。機械翻訳も日進月歩で進化を遂げていて、Google翻訳、DeepL翻訳といったツールを日常的に使用している人も多いだろう。生成AIであるChatGPTに至っては「なぜその訳語を用いるのか」といった疑問を解消することすらできる。
 このような劇的な技術の進歩に照らせば翻訳・通訳の仕事は早晩無くなってしまうようにも思えるが、案外そうでもなさそうだ。機械翻訳が実用性を帯びるにつれ、人々がその限界を認識する機会も増えている。例えば、機械翻訳が皮肉やユーモアを解して翻訳できるだろうか。翻訳元の言語でしか通じないようなジョークの面白さを翻訳先の言語に置き換えてくれるだろうか。対象が翻訳でなく通訳ならなおさらだ。翻訳よりも即時性が求められ、かつ場合によっては重要な駆け引きを左右しかねない通訳は、多くの要素を加味しつつ細心の注意を払って訳語を選ぶ必要に迫られる。
 この差を機械翻訳が埋められようもないのは、機械翻訳と人間による通訳・翻訳の本質的な違いが原因となっている。機械翻訳は原文の文脈に関するインプットが圧倒的に少なく、また原文の意味を理解しているわけではないため、曖昧に特定した文脈の中で統計的に最も現れやすい訳を提示するという仕組みで動いている。一方で通訳者・翻訳者が置かれる状況は、場の雰囲気、受け取り手の嗜好などの変数により常に固有で具体的なものであるため、その状況において最適な訳を追求することができる。人間らしい高度な駆け引きは、ビジネスなどの明確さが重視される場面であっても必要とされる。機械翻訳がつまずくこのような領域でこそ、今後の通訳者・翻訳者は最大の価値を提供できるだろう。
 また、人間の通訳者・翻訳者は当然ながら一人の人間である。これは重要なことで、その特殊な立場を利用したり権力者に気に入られたりすることで、通訳者・翻訳者自身が大きな力を持つことがある。一方で、人間であるためにコミュニケーションの誤りが生じた場合の責任を負わされやすいという側面もある。自動運転車が事故を起こした場合に責任の所在を特定しにくいことがその普及を妨げる一因であるのと同様に、機械翻訳が致命的な誤訳をした場合に誰が責任を負うのかという議論が成熟しない限りは、重要かつ高度な通訳・翻訳は人間が担うことになるだろう。
 本書の著者で翻訳家でもあるアンナ・アスラニアン氏は、このような通訳・翻訳という営みの本質を、歴史上の出来事に自身の知見を交えながら紐解く。そこにはフルシチョフ、オスマン帝国、ヒトラー、義和団といった歴史的な主体が登場し、彼らに影響を与え、与えられた通訳者・翻訳者たちの姿が描かれる。彼らの物語を通じて意訳の是非、通訳者のアイデンティティ、著者と訳者の関係、通訳の価値といったことについて思考を巡らし、最後には機械翻訳に関する論考に至る。通訳・翻訳の「人間らしさ」を考えこれからの時代における技術との関係を見通す上で、本書は通訳・翻訳に携わる人はもちろんのこと、そうでない人にとっても価値ある読み物と言える。(デジタルエンタテインメント企業PM/翻訳者)

「図書新聞」No.3639・ 2024年5月18日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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