名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その3

そろそろ展示替えでしょうか。
こんなペースで間に合うのかしら。

堀文子『紫の雨』

藤の花の季節。
「藤の花の名所」と名乗る各地から、一面の藤棚の映像が届けられます。
春と夏の間のさわやかな青空から降る陽射しが、梅雨前の、明るい緑色の葉を透かして、視界一杯に滴る紫の花を明るく照らす様は、それは見事なものでしょう。

だけど自分は、名所の名にふさわしく、広い藤棚いっぱいに埋め尽くすように咲き誇る藤の花よりも、山の中で、あまり人に見られることもなく、木々にまぎれてポツリポツリと揺れている藤の花の方が好きなのです。

花の季節が終わっても、梅桃桜は、まだ柔らかい葉を明るく光らせています。
でも、クスノキやクヌギ、ブナの木などは、そんな華やかさや艶やかさとは無縁だと言うかのよう。
黒々とした枝は頑固そうで、分厚く濃い緑の葉も金属のように鈍く光っています。
みっしりと繁り、濃密な樹の匂いで山を黒々と染める、雄々しい有様。

でも、そこにやさしく色を添える、紫色の山の藤。ふうわりとふりかかる色は、明るいけれど明るすぎない、とろりとした紫色。
あちらのクヌギ、こちらのブナと、気まぐれに群れて見せるのも意地らしく。
柔らかくて暖かく、光るようでありながら、つつましく輝きを控えて、奥ゆかしい色合いを添えているのです。
むべ紫をゆかりというらむ。
そんな山の藤は、まったく、空から降ってきたようにしか見えません。
まさに、山を木々を祝福するために、この絵に描かれたとおりに、空から降ってきたのです。

実に勝手な思い込みではありますが、画家も、こんな風に、山に木々に優しくなげかけられる紫色に、心を奪われたに違いないと感じるのです。
それがとてもうれしいのです。

福田豊四郎『六月の森』

森の緑は、梅雨となれば、湿気をたっぷりと含んで、
光まで吸い込むように濃くなって、それを滴らせるように葉先をたらします。

だけど、ここに描かれた森はまだ明るいので、まだ梅雨は来ていないのでしょう。
でも、こんなに視界がぼやけて緑色に染まっているのだから、この森の中は、たっぷりと湿気を含んで、まとわりつくように暖かい空気に満たされているのでしょう、
樹の幹や枝、広がった葉も、ぼんやりと、森の空気との境目が曖昧になっているようです。
それどころか、地面も緑色の海のよう。

確かに、よく繁った森の中は、目を下に向けても緑、顔を上げても緑。地面を左右に横切る木の根でようやく、足元と森の奥の区別がつくのは、この絵の通り。
ただ、湿気をむさぼるように伸びたゼンマイは、本来フワフワの綿毛のはずの輪郭をクッキリとさせていて、ひらひらと飛び回る蝶も、細部まで描きこまれています。

考えて見れば不思議です。
動き回って輪郭がブレるはずの蝶が、静止したようにクッキリと描かれている。
細く揺れる蜘蛛の巣、そこに息をひそめる蜘蛛、そんな姿は本来、葉の間に隠れていて、近づいて初めて見えるものなのに、やはりハッキリと見えるように描かれている。
それなのに、動かず、クッキリ、ハッキリと見えるはずの木々の根や幹、枝や葉が、ぼんやりと曖昧に、あるいは記号のように簡略化されて描かれている。
この逆転。

身を寄せ合う三人の子供は、この不思議さに戸惑っているのか、おびえているのか。
下の二人の兄弟をかばうように立つ黄色い服の子は、放心したようにこちらを見ている、
その腰に、何かにおびえるように縋り付いている、赤い着物の娘は、振り返って何を見ているのか。
青い着物の男の子は、いったいどんな音を恐れて、耳を塞いでいるんだろう。
命に満ちた森の、明るいけれど、それが恐ろしい、そんな経験。

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