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江戸と明治とDX(その2)

前回記事はこちらです。

前回は江戸と明治とDXというものがDXにおけるメタファー(比喩)であり、自分や周りがどの位置にいるかというものをメタに眺める(メタ認知する)ためのものであることを述べました。
時代の変わり目を江戸と明治というメタファーで放言しています。この時代の変わり目に自分や組織、他の人がどこにいるかをメタに眺めるわけです。このとき、どのにいるかを認知するときには「上か下か」や「右か左か」ではなく「前か後か」という点が重要になるかと考えています。

前か後か

「前か後か」の前にまず「上か下か」からイメージしてみましょう。上か下かはある程度定量的な比較になります。優秀かどうか、お金持ちかどうかなどです。安定した時代の中にいるときはその次代の上を目指せばよかったのですが、時代の変わり目というのを考えたときに、「上か下か」はあまり重要ではありません。
江戸時代にも優秀な人間や優秀でない人間はいたでしょうし、明治時代にも優秀な人間や優秀でない人間はいたことでしょう。江戸時代のお金持ちもお金持ちでない人もいたでしょうし、明治時代のお金持ちもお金持ちでない人もいたでしょう。
この状況をChatGPTに描いてもらいました。ちょっとイメージと異なりました。優秀のイメージは難しそうです。ともあれ、どの時代に優秀な人とそうでない人がいるというのはOKかと思います。

江戸時代の優秀な人とそうでない人
明治時代の優秀なな人とそうでない人

時代の変わり目でなければ、その時代の優秀な人物を目指せばよいのですが、時代の変わり目では優秀の定義も変わってしまいます。「江戸」時代の優秀と「明治」時代の優秀は定義が異なるのです。例えば、「江戸」では剣術ができる人が優秀だとすれば、「明治」は銃を扱える人が優秀だとなるのかもしれません。時代にこだわらなければたとえはいくらでもあります。「そろばん」できる「電卓」が使える。「答えのある問題を解ける」「答えのない問題を定義し解決する」など。
また時代の変わり目は一瞬で訪れるのではなく、ある程度の時間をかけて変わっていきます。だから我々は江戸時代の優秀を目指しても良いし、明治時代の優秀を目指しても良いかと思います。ただ長い目で見たら明治時代の優秀を目指すほうがチャンスや伸びしろが大きいように思うのです。

江戸時代の優秀と明治時代の優秀

どちらを目指すにせよ、「前か後か」を見極めないと無駄な方向に進んでしまう可能性があります。
さらに時代の変わり目では、江戸つまり前の方は格差や身分が固定される傾向があるように思います。その中で上を目指すのは大変だと思うのです。逆に明治つまり後の方ではすべてが新しい出発だとすれば比較的フラットでまだ格差も固定されていない状態で、上を目指しやすい。大志を描きやすい状態にあるのではないかと思うのです。
現在に置き換えてみましょう。例えば生成AI、これは誰でも使える状況にあります。そしてまだ世に出たばかりの技術なので、実は専門家なんてほとんどいないのです。これから使っていった人が専門家になるのです。そして使いこなしている人を優秀と呼ぶ社会になっていくのです。そういう事が起きるときに、前の時代での価値基準で見ると、ちょっとどうかなと言う人が優秀とされたりお金を持っていたりする状態が生まれるのかもしれません。IT長者が胡散臭く見えるのはそういうことなのかもしれません。

今日はこの辺で。

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