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未発表曲について②男声合唱組曲『くちずさまれけるほどに』

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作曲家として仕事をするようになってから、それほど長い年月が経ったわけではないのですが、実は私の作曲家としてのデビューは1994年まで遡ります。当時私は神奈川県の県立高校に通う高校生で、合唱部に所属していました。私が作曲を始めたのは13歳の頃ですから、高校から合唱を始めた私は、すでにいくらか作曲をしていましたが、合唱のために何かを書いたことはありませんでした。高校2年生のときに、ある合唱曲の作曲コンクールのために曲を書いてみようと思って書いた作品が、幸運にも1位なしの2位を頂いたのでした。最上位入賞作品(私の作品ともう一つ、2位受賞作品がありました)が演奏会で上演されたのでした。その後、その時のご縁で入賞作品を演奏してくださった合唱団に入団し、合唱部以外の場でも合唱作品をいくらか歌ってきました。その頃からしばらくの間は合唱作品を中心に作曲していました。

合唱曲を作曲したと言っても、発表の場があったわけではありません。合唱部や合唱団では、ハーモニーの勉強になったり、定期演奏会のコンセプトに合う作品を演目に入れるので、私の作品が演奏されることはほとんどありませんでしたし、自分で団を立ち上げて合唱を指導して…というように器用なことが出来るタイプでもありませんでした。折に触れて合唱曲を募集している作曲コンクールに応募したりしておりましたが、最初のビギナーズラック以降、合唱のジャンルで成果が上がることもありませんでした。

未発表の合唱曲がいくつかありますが、その中から、私にとって唯一の男声合唱曲についてお話します。男声合唱組曲『くちずさまれけるほどに』は、おそらく2005年か2006年の間に作曲された作品です。この時期に書いた曲はほとんどが未発表で、以前楽譜を手書きで書いていたころは脱稿日を楽譜の最後に書いていたのですが、2002年頃から楽譜を浄書ソフトで書くようになった時期に、一時、制作時期を楽譜に書くことを止めてしまっていました。当時は作品目録も作っていなかったので、残念ながら未発表曲の制作順は多くが不明です。作風から推測ことも可能ですが、確実なことは言えません。『くちずさまれけるほどに』は、歌詞に藤原成道の和歌・詩句が用いられているので、東京学芸大学の遠藤徹先生の音楽学ゼミを受講するようになってから(私が日本の古典文学や音楽作品に関心を持つようになってから)作曲された作品だと判断しました。

『くちずさまれけるほどに』は3曲からなる男声合唱組曲で、最大8声部で歌われます。第1曲『雨ふれば』、第2曲『いづれの佛の願よりも』、第3曲『薬師の十二の誓願は』の3曲は、いづれも平安時代の歌人・藤原成道の和歌を歌詞としています。3つの和歌は、『古今著聞集』にエピソードと共に収載されているものです。

雨ふれば軒の玉水つぶつぶといはばや物を心ゆくまで

いづれの佛の願よりも 千手のちかひぞたのもしき
かれたる草木もたちまちに 花さきみなるとときたれば

薬師の十二の誓願は 衆病悉除ぞたのもしき
一經其耳はさておきつ 皆令滿足すぐれたり

第1曲『雨ふれば』は、謡のようなバス独唱から始まります。こぶし回しをシンプルに記譜しました。曲が進むと、テノール2人と、バス2人の独唱者群による小合唱に発展します。二声ハーモニーの考え方ではなく、ヘテロフォニック(一つの原旋律を二つ以上の声・楽器が異なる道筋を辿って同時に演奏する音楽)な扱いの二声部です。そのようにして和歌が歌い終わると、突然「つぶつぶ」という言葉がピックアップされて、リズミカルにホケトゥス(旋律が2人の歌い手で分断されて交互に歌われること)のように32分音符で8声部が交互に歌っていく部分が始まります。この無窮動のような「つぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶ」(ずっと聞いていると「ぶつぶつ」とも聞こえます)の下地の合間に再び歌詞の「雨ふれば…」が各声部の休符部分に仕込まれます。そこでは歌詞部分は強く歌い、「つぶつぶ」部分は静かに歌うことが求められますが、それほど休符が長くはないので、かなりアクロバティックな歌唱になります。さらに進むと、「雨ふれば…」の部分の伸びている母音も休符部分に仕込まれるので、実際に歌うパートの言語感覚がめちゃくちゃになります。例えば33小節目のバス1が歌う実際の歌詞は、「ぶのつおきぶいのつおたぶあまつあみぶいずつう」となります。身体に染み込ませるのが大変そうです…。全員がしっかり極端に強弱を付けて合わせると、ぼんやり歌詞が浮かび上がる予定なのですが、浮かび上がらなくてもそれはそれで楽しそうです。

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第2曲『いづれの佛の願よりも』でも、謡のような単声部が曲を開始します。第2曲ではまずテノール1が謡を務め、テノール2と交替で1フレーズずつ歌います。第1曲と違って独唱ではなく、パート全員で歌います。旋律を担当していない声部は旋律に付けられている母音を和音として歌います。それぞれの母音は徐々に口のかたちを変えて、次第に音が変化していくように歌います。現代の声楽作品ではよく用いられる技法で、私はマウリシオ・カーゲルの『Rrrrrrrr…』という連作小品集の中の合唱作品群から学びました。後半は素直な男声四部合唱曲になります。ポリフォニックな要素は少なく、コラールとして書かれています。

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第3曲『薬師の十二の誓願は』は、主題と変奏の考え方で書かれています。マシンガントークのように息つく暇なく、疾走する16分音符が呪文のように歌われる部分が主題です。第1変奏は、それぞれのパートごとに歌詞の一部の異なる箇所を強調させ、マシンガンのように呪文を唱える表現から歌詞の意味が少し現出するように意図されています。第2変奏では突然歌詞を普通に歌う音楽に変わります。リズムらしいリズムがそれまでなかった音楽に、リズムを与えることで音程関係が言葉らしく聞こえるようになりました。二声で歌われた第2変奏を四声体に完成させるのが第3変奏です。次の第4変奏では、冒頭の連打と真逆の、ゆっくりしたテンポになります。大体1小節に1から2音節しか入りません。歌詞の意味がひとまとまりのフレーズの間は、音の変わり目をグリッサンドで滑らかにして、うぞうぞと蠢くコラールになっています。徐々に変奏を展開していく経過で、音楽はテンポをどんどん落としていきました。それが最後の第5変奏で冒頭のマシンガンの呪文に戻ります。しかも主題よりもテンポが速くなっていて、疾走感が増しています。最後は音もよく動き、とにかく歌うのが大変そうです。練習量がものを言う感じでしょうか。

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久しぶりに読んでみると、作品のねらいや、歌詞から何のインスピレーションを受けて音楽を決定したかという点に関しては、若書きながらも明瞭なコンセプトに好感が持てました。第1曲ではオノマトペの面白さに着目してオノマトペの響きのカーペットを敷いた点、第2曲では母音の滲みが解消することで、願いが聞き届けられて花咲く様子が言葉の響きとして素直に耳に届く点、第3曲では薬師の十二の誓願を呪文のように処理することで、音楽表現に儀式性を与えようとしている点が面白みだと思って作曲したのだろうと思います。しかし、現在の私の感性で見ると、これらの和歌に対する共感が足りていないような、即物的な音楽表現のようにも見受けられました。音楽表現の力強さをコンセプトや技法に対する根拠のない過度な信頼から得ようとする姿勢は、経験が浅く若い作曲家にはよく見られるものです。そして何より、自らが打ち立てたコンセプトに隷属して作曲した私が最も見逃していたのは、音を厳選する作業だったかとも思いました。ところどころ、選ばれている音がふさわしくない感じなのです。「ふさわしい」音はどれか、というのは答えることは出来ません。しかし、あまり考えずに音を選んだかと思われる部分というのは、耳に届いてしまうものです。若い自分が夢見た音楽の素直な面白さと、作品を仕上げる難しさにまだ思い至っていない粗のバランスが小気味良い若々しい自分がいました。

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