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楽譜のお勉強【86】フランシス・ピルキントン『おやすみ、愛しいニンフたち』

フランシス・ピルキントン(Francis Pilkington, c.1565-1638)はルネッサンス期からバロック初期にかけて活躍したイギリスの作曲家で、リュート奏者・歌手として活躍しました。1595年にはオックスフォード大学にて音楽学士を取得しています。1602年にチェスター大聖堂の歌手になってから、大聖堂の音楽家として生涯を過ごしました。当時、教会を中心に活動した音楽家としては珍しく、作品のほとんどが世俗曲です。エアーやマドリガル、リュート歌曲などを作曲しました。

本日読む『おやすみ、愛しいニンフたち』(«Rest, Sweet Nymphs»)は今日遺されているピルキントンの楽曲の中で最も有名なものです。1605年に出版された『四声による歌・エアー集 第1巻』(«The First Book of Songs or Airs of Four Parts»)の第6曲です。この曲集は1968年にブロウド・ブラザーズ社によって新しいエディションが発売されるまで、発売されていませんでした。近年、古楽が復興するにつれて様々な楽譜が再び広く頒布されるようになる中で再販されたものです。

古楽の新しい版の出版は、音楽学者や古楽に詳しい演奏家のエディターを必要とするため、時間もかかり費用も嵩みます。そのため、古楽の復刊が盛んな現在も、当時の出版楽譜のファクシミリ版しか出ていないものも少なくありません。ブロウド・ブラザーズ社が1960年代に出版した新版は全て演奏に使いやすいようにリハーサル用のピアノ伴奏パートが付いており、実用的な版でした。全25巻からなるイギリス古楽エディション(The Old English Edition)というシリーズでしたが、現在は絶版になっていて再び入手困難になってしまいました。以前「楽譜のお勉強」で取り上げたタイの他、ブロウ、パーセル、アーン、カービー、バード、フェラボスコ、ウィールクス、ミルトンなどの作曲家の音楽がまとめて読める貴重な楽譜だったのですが。バードやブロウ、パーセルなど、他の出版社が積極的に学術出版を手掛けている作曲家もいますが。ピルキントンの『おやすみ、愛しいニンフたち』に関しては、有名な曲で昔からいくつかの出版楽譜が入手可能で、現在でも容易に手に入れることができます。

『四声による歌・エアー集 第1集』の原本では、合唱で演奏する場合の声楽パートと独唱とリュート伴奏で演奏するための楽譜が見開きで一望できるように書かれています。すなわち、左のページには高声とリュートのパート譜が書かれており、右側のページにはアルト、テノール、バスのパート譜が書かれています。奏者全員で本を囲むように座し、覗き込みながら演奏できるスタイルに仕立てているのです。昔の声楽曲は基本的にパート譜での出版でしたが、パートごとで分けて書かれているとは言え、見開きに全パートが書かれている出版楽譜は珍しいものです。

リュート・パートを演奏する際にアルト以下の低声合唱パートも同時に演奏するつもりであったのかは定かではありません。多くの演奏家や研究者は、おそらく高声独唱とリュート伴奏、もしくは無伴奏混声合唱のどちらで演奏しても良いという意味だろうと考えており、現在そのように演奏されることがほとんどです。今日この曲集の中から『おやすみ、愛しいニンフたち』を選んだのは、どちらの演奏スタイルの動画も発見できたのはこの曲以外にあまりなかったことによります。

出版譜では今日の合唱楽譜のスタンダード記譜に則り、総譜のフォーマットで合唱が書かれています。その下にリュート伴奏譜が付き、さらにその下に合唱のリハーサル用のピアノ・リダクション譜が書かれています。絶版になったことが惜しまれますが、演奏に用いやすいようによく考えられた楽譜です。

『おやすみ、愛しいニンフたち』は、微睡むニンフ(妖精)たちに向けて歌う子守歌(ララバイ)です。今日の子守歌は揺籠が揺れるイメージから、3拍子系、もしくは複合拍子系が多い印象がありますが、この曲は4拍子で書かれています。ト短調で憂いを感じる緩やかな音楽です。自然なメロディーの抑揚を意識して書かれています。最初のフレーズでは二つの山がありますが、最初にDまで上行し、一旦下行してから、2度目の山が作られ、半音高いEbまで上がります。フレーズ終わりは休止で呼吸を整え、Ebよりもさらに2度高いF音から緩やかに降りてくる第2フレーズへと続きます。

二つのヴァースで大きな弧を描いたら、「ララバイ」や「眠りなさい」という言葉を繰り返すコーラス(サビ)に続きます。言葉遊びの要素を取り入れた「ララバイ」は、「ラ・ラ・ララバイ」と歌われます。歌詞を定めずにラララと歌を口ずさむのは日本だけではありません。ラララと「ララバイ」をかけているのは、安直ですが、そういう分かりやすい表現が人気を博すのは今も昔も変わらないということなのでしょう。サビが終わった後は、同じ音楽が2番、3番と繰り返されます。

独唱曲としても想定されている曲であるため、合唱パートはポリフォニックではありません。基本的にコラールのようにホモフォニックに進行します。リュートのパートは合唱をなぞっているのかと思って読んでみると、結構違います。まず、独唱で歌われるメロディーはあまりなぞられません。基本的には下三声を軸に書かれていますが、低音はより充実し、和音に厚みが加わっている箇所が多いです。リュートのしとやかな音色を声楽の存在感と拮抗させる工夫でしょうか。

『四声による歌・エアー集 第1集』は、一冊の厚い本として初版が出版されましたが、ブロウド・ブラザーズ版では3冊に分冊されています。参考までに収録曲を記載しておきます。第1集(1 - 7)は『Now peep, bo-peep』、『My choice is made』、『Can she disdain』、『Alas, fair face』、『Whither so fast』、『Rest, sweet Nymphs』、『Ay me, she frowns』。第2集(8 - 14)は『Now let her change』、『Underneath a Cypress shade』、『Sound woeful plaints』、『You that pine in long desire』、『Look mistress mine』、『Clime o heart』、『Thanks gentle moon』。第3集(15 - 22)には『I sigh as sure to wear』、『Down a down』、『Diaphenia』、『Beauty sat musing』、『Music dear Solace』、『With fragrant flowers』、『Come, come all you that draw』、『Pavan for the lute and bass viol』が収録されています。


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