推理小説を多読した効能
以前の記事で、エラリー・クイーンの名作「Yの悲劇」をベタ褒めした。
あれからいくつか推理小説を読んだり、はたまた探偵アニメ物を見ていたのだが、ふと私はそれらに触れる際に、とある視点でストーリーを追うようになっていた。
つまりそれは「推理小説を多読した効能」と呼べる代物であると考えたがゆえに、ここでまとめてみようと思う次第である。
結論から言ってしまえば、「犯人の動機視点から観察できるようになる」というところだろうか。
以前のエラリー・クイーンベタ褒め記事でも記したが、よほど性格的に難儀でないのであれば…基本的に人間が犯罪を犯す際、犯すだけの「動機」がなければ犯さないのが常である。
推理小説ではもはやこれありきで成り立っているであろう「殺人事件」に関しても、「人を殺す」というあまりにも心理的・かつ社会的ハードルの高すぎる犯罪を犯すには、それ相応の動機がなければまず起こり得ない。
それこそお金(借金等)の問題、人間関係における憎悪、恋愛関係における憎悪。
「殺人を犯す」という行為がどれほど醜悪で、かつ倫理的に問題があるのか…を自負していない人間はこの世においてほぼいないと考えてもよろしいはず。
それらの超えてはいけないハードルを乗り越えるほどの強い動機に後押しされ、殺人事件は起こりうる。
ここで、当記事の結論である「犯人の動機視点から観察できるようになる」がニョキっと顔を出す。
推理小説入門者だった頃の私なら、とにかく「殺人トリック」にばかり目や思考を奪われがちだった。
「この場合のトリックはこうなのではないか」
「とすると、犯人はこの人ではないか」等。
しかし、推理小説を多読してきたことにより、
「なぜ犯人はこの場でAを殺さなければならなかったのか」
「そもそも、なぜAを殺す必要があったのか」
「Aを殺すタイミングは他にもあった可能性はないのか」
など、登場人物(犯人)の内面、および思考や実行理由に目を配るようになっていた。
これらは実生活でもかなり役立っていると自負する。
例えば、私たちはお腹が空くと物を食べるが、「お腹が空く」という動機(この場合は本能的なものだが)があるがゆえに「物を食べる」という行動に出る。
つまり、「物を食べている人」というのはその欲求(理由)を満たしている最中であると言えるわけだが、以前の私はこのように考えることはほぼなかったと言って良いだろう。
我々の多くの行動、自律神経が機能する無意識下の行動を除く多くの行動は、「理由→行動」の順で運ばれていることが大半だ。
…という前提を持っておくと、少しだけ人生が生きやすくなるのでは…と思った次第である。
人の行動を数式的に理解できるような気がする。
おーわりっ!なんだこれ!
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