#エッセイ 『今どきの就活から』

    日本で少子化問題が語られるようになったのはいつの頃からでしょうか。私には正確な時期はわかりませんがおそらくはここ十数年くらいなのかと思っています。少子化とは厄介な物らしくて色々とそのメカニズムを調べてみたのですが今の所納得のいく話には出会えていません。というよりも、色々な話を読んでみたりしても、実はあまり理解が出来ないというのが本当のところです。そんな折に就職活動に悩んでいるとある知り合いの大学生の状況を聞くことがありました。少子化の時代だから就職は引く手あまたと思っていたのですが、どうやらそうでもないそうです。やはり今の時代は企業も採用は控えているのか、苦戦を強いられているそうです。不況が長引いているからなのか、はたまたOA化が進んで仕事に人手がかからなくなったからなのか、もしかしたらその両方が複合的に作用しているのかそれはよく分からないのですが、私の就職した頃とは変わらず内定を勝ち取るという事は大変だという事は学生さんの活動を聞いて良く伝わってきました。

 『働きに出る』-この言葉は日本の学生にとっては、今通っている学校を卒業する事が視野に入ってきた時に初めて自分の心の中にリアルな問題として現れるのではないでしょうか。高校を卒業して働く、専門学校もしくは大学ないし大学院を卒業して働く、というようにどこの学校を節目にして働き始めても大いに結構だとは思うのですが、実は自分が最後に通う事になる学校に入学する時には既にその問題(就職の大変さ)は無意識に卒業するという事とセットになって学生の心のどこかには入っていると思うのです。入試に向けて受験勉強に打ち込んでいる学生の中で、医者や弁護士などの具体的な仕事を目指して勉強を頑張る子はいつの時代でも一程度の割合でいるとは思いますが、多くの子の場合、実は卒業した後の事は何となくぼんやりとした感じで考えていて、社会に出て何をやりたいかという事はあまり考えていないのではないでしょうか?まぁまずは学校に入らないと何事も始まらないですから当然といえば当然なんですけどね。めでたく入学した後、数年たって何となく卒業が近づいてきてから“周りも就活に動き出してきたなぁ・・さぁどうしようか・・”と考え始めるなんて人も多いのではと思います。特段、別にそれが悪いとは思いません。私が就職する時もそんなもんでした。大学に入るときの進路選びも何となく数学が好きだし理系の方が得なんじゃないかと思って大学の工学部を受けたくらいですからね。しかしそうなると実は後で大変な事になるという事が多かったりするのですね・・・。大学に入学してしばらくの時が過ぎ、三年生の秋ごろから就職活動を初めて本気で意識し始めた時に、口に出しては言えないが実は社会に出てやりたい事なんて何もないという事に気が付く人がチラホラ現れてきたりしているのではないでしょうか。ちなみに私の場合は、兎に角それなりの大きな会社に入りたいという事が優先でした。『大きな会社に入る』という事と『こんな仕事をやりたいか』という事は違う事だと思うのですが、残念ながらなぜか当時の私の頭の中では矛盾なく自然とイコールで結ばれていたのですね。もっと砕けた言い方をすれば、それは無意識の感覚だと思っていますが、実は仕事内容なんてどうでもよかったのだと思います。それなりの安定した未来を無意識に求めていたのだと思うのです。この当時の事を思い出し自ら改めて文字にしてみるとメチャクチャ恥ずかしく、かつバカな話になっていますよね!顔から火が出るほど恥ずかしい限りです。冷静になって普通に考えれば、“大きな会社に入る”と“こんな仕事がしたい”・・この二つはイコールの内容では無いですよね!でも当時私の頭の中では残念ながら(笑)矛盾を感じてはいなかったのですね。当時の自分を言い訳させてもらうなら、私が就職を意識した当時では日本人のごく一般的な考えとして、“大きな会社に入ることによって安定した人生を送る”という事は普通だったという事もかなり大きく影響していたと思います。もしかしたら今でもそのような感覚は学生たちの間に多少なりともあるのではないでしょうか?その考えがベースになる当時の日本社会の常識ではやはり終身雇用という暗黙の了解が国民に共有されていた事だと思います。それを大前提として“大きな会社”と“やりたい事”が無意識のうちにイコールになっていたのだと思います。終身雇用という制度が成り立っていたのは、日本が経済的にまだ登坂にいたからだったんでしょうね。そんな感覚を持っていた私も、そして私の周りも突然採用が厳しくなった年での就職活動では大いに苦労したものです。私が就職活動をした年からバブル崩壊の影響がもろに出て、各企業の採用が途端に厳しい状況になりました。自分が機械科だったこともあるので、それでも一応メーカーを中心に考えて手あたり次第面接に行ったのですが、はなから採用なんてする気がないその面接官の質問が厳しい事と云ったらなかったですね(笑)。今から考えると、もしあの当時自分に何か明確にやりたい内容の仕事があれば面接官との受け答えも違った展開になったので・・はと思わずにいられません。

   では、私以外の当時の学生はどんなことを考えて就職活動に臨んでいたのでしょうか。これも当時の私の周りにいた同じ学校の友達とアルバイトの仲間ぐらいしか参考にするものが無くて申し訳ないのですが、その時の様子を思い出して書いてみたいと思います。私は取敢えず大学に進学していましたので、私が書けるのは当時の大学生の就職活動の雰囲気の話になります。今でもそうでしょうが、当時の私の友人達も入学する学校の学部や学科を選ぶときは当然それなりに興味のありそうな所を選んで入学している感じではありました。中にはこだわりをほとんど持たずに“入れそうだから”という安易な理由で選ぶ学生も勿論いたと思います。経済学や法律ないし工学部といってもその中身はイメージでしか掴めないでしょうし、その先の将来にしてもとてもぼんやりとした希望的観測でしか思い描けなかったでしょう。なにしろ入試に受かって入学する事が優先ですから、そんな先の事は考えられなかったでしょう。なにもそれを責めている訳ではありません。当然私だってそんな感じでしたからね。そして当時の多くの友人は、就職活動が近づいたら自分の所属する学部や学科の中でそれなりに近いと思われる分野の仕事で少しでも条件のいい(企業規模や給与体系のいい)会社を選んでいたのではないでしょうか。そのように思い込んだ瞬間から採用面接に臨むための志望動機を考えていたのではないでしょうか。それは与えられた条件の中での選択、逆を言えばそれぞれの学生がそれまでに自分が掴みとってきた条件の中での選択をしていくという行為だったのでしょう。もしかしたら自分の中に無い物(価値観や経験)を無理やり見つけ出すという作業もあったのではないでしょうか・・。
   ここから少しだけ寄り道をさせてもらいます。私が学生の頃にマスコミ等でよく言われていた事ですが、当時の大学生に対する時代を反映する言葉の一つとして『モラトリアムな時間』なんていう言葉がありました。その意味合いとしては『大人になるための準備期間』とか『社会的に認められた猶予期間』といった意味合いで、私なりの解釈でいうなら、その期間にゆっくりと次の道を決めなさいといったくらいの意味合いと思えば分かり易いのかな?と思っています。当時の社会における現実的な肌感覚で言えば、『モラトリアムな時間』=『社会に出る前にまとめて遊ぶ最後の時間』というくらいにしか認識されていなかったのではと思いますね・・。まぁ私はそんな感じでした。まだバブルの余韻が社会に蔓延していましたしね・・。ともあれ、その間にやりたいことを自由に探すとはいえ、今から考えるとそれなりの専門教育を受けているのですから、“ある程度の既に道をすでに決めているではないか!”というような気にもなるのですね!私としては・・・。そんなにゆっくり決めるもんでもない様な気もするのですが・・。二十歳前後という時期は若い人にとってはこれから先の人生は無限に広がるような感覚もあるでしょうが、その年齢の学生の歩みつつある人生の道は無限に視界が広がっていくような感覚を持つ傍ら、実は歩みつつある道は実は先細りしていっている気もするのですね。そこに至るまでに各々の選択肢は進む大学に入った時点で各自が自分の手で消してしまっていると思えますし、また取り留めなく考えるなら、人間は度未来の選択肢に対してある程度の制限(これは私の思い込みかもしれませんが)がかかるからこそ、初めてその枠の中で自由な考えが思い描けるのかもしれないと思ったりするわけです。表現を変えて言うなら、就職活動に限らず、何もない真っ白な所から何かを考え出して行動に移すという事は実は本当にしんどい事なのではないかと思っています。そこから考えると、学生は自分が入っているその枠組みの中でなぜか無自覚に無限の選択肢があるように感じながら職探しをするのではないでしょうか。それはブレていく考え方の始まりと思えなくもありませんよね。また、視点変えて企業の側から見れば、やれ経済や法律または電気や機械などを学んできたと言われても十中八九、学生が学校で学んだ知識などこれっぽっちも期待してないでしょう。要は限られた時間内で仕事を処理する事務処理の能力をまずは求めているという感じがしますよね。採用される学生の中には大学等で学んだ専門的な知識を企業から求められる学生もいるとは思いますが、それは希なケースでしょうね。そうなってくると一般的に内定は上位の学校の生徒から“何となくよさそうな学生”に対して順に出していくというのも分かり易いですよね。これによって面接では学生と企業のお互いの側の“何となく”と“何となく”が上手に噛み合って、チョッとした騙し合いもしながら就職戦線は成り立っているのではないかと思います。

    以上の話は三十年ほど前の就職活動の状況を思い返して書いたのですが、意外と現在就活(現代風の表現)をしている若い人の中にも私たちの世代と同じ様な人は多いのではないでしょうか。私が社会人になってからよく耳にする就職活動のキーワードとしてはエントリーシートとか自己分析なんていう言葉があります。最近では自己分析なる言葉はあまりもう聞かなくなりましたが、それでもやはり今どきの学生さんも何かの本やネットのツールなどを使ってその作業をしているのでしょうね。自己分析とは読んで字のごとく、自らを分析して己を知るといったくらいにしか思えないのですが、この時期の学生にとっては、この作業をすることによって自分の志望動機に強いインパクトを与えるというのが一番の狙いなのではないかと思っています。何かの機会に自分を知るという事はとてもいい事と思うのですが、就活というタイミングの自己分析は志望動機に対する少し無理な理論武装を施すという感じがどうしてもしてしまうのです。何かの折に今までの自分を振り返る事は、それが別段悪いという訳ではないのですが、そのタイミングで始めるのはやはり何となく不自然さを感じてしまうのです。それは『・・・だから御社への入社を希望いたします!』という自己PRの最後の言葉に辿り着くために、自分の今までの行動や考え方を無理矢理にでも正当化するような形にして引っ付けていく作業に感じてしまうんですね。ともするとそれは下手をすれば滑稽な話を作り出す危険すら感じてしまいます。二十歳そこそこの若い人たちですからやはりその作業はとても大変な事だと思います。基本的にはまだ社会に出ていない状態ですので、人生経験と言われても乏しいでしょう。もちろん企業の採用担当もそこを分かりつつ学生の話に耳を傾けているとは思います。私は採用の担当になった事は無いのですが、おそらくは面接官は目の前に座った学生が話す話の内容よりもむしろその学生が醸し出す雰囲気やその話し方などから人物の良し悪しを感じ取っているのではないかと思います。もちろんその判断の前提としてその学生の持つスペック(ほぼ大学名と思っていいと思います)が根底にはあるとは思います。
   スペックという事で言うなら、多くの上位企業は何故上位の学校から優先的にしかも大量に採用をするのかということが気になって若かりし頃の私は周りの大人達に意見を聞いて回ったことがあります。常識的に考えれば当たり前なのですが、何かもっともなる明確な理由があるのではないかと思って訪ねまわった記憶があります。そこでは色々な答えがあったのですが、一つだけ“なるほどなぁ”と思った話があります。それは、企業はある意味多くの人間が集まった有機体としての一つの生き物のような存在であり、組織としてのノウハウを持っています。そうすると採用活動をする時に企業が何を考えるかというと、その組織の中に蓄積された今までのノウハウというか経験を踏襲していくという事なんですね。例えばA大学の学生を採用すると10人中6~7人は使い物になり、また1ランク下のB大学なら10人中5~6人は使い物になる・・という具合に暗黙のノウハウを持っているのでしょう。そうすると優秀な人材確保が大切だと思う傍ら、採用面接にそこまで時間なんてかけられないという事なんでしょうね。企業側としては日々の儲けを出すために他にやるべき仕事も山ほどあるから短時間で要領よく採用をしたいでしょうしね。だとすれば採用経験のない大学(私が通っていたようなチョイ偏差値の低い大学ですな・・・笑)の学生にも丁寧に面接をすればよさそうな人材がいることは分かってはいますが、そこに時間はかけて探してられないというのが実情のようです。面接を一人するのにも時間はかかりますからね。当時の私はそれを聞いて“ムッ”としながらその話を聞いた記憶があります。そしていざザックリと採用した上位大学の学生を働かせてみてその中に思うような成果が出ない人材がいても、採用した責任として終身雇用の中で目をつぶって雇い続ける感じだそうです。その様な範疇に入る人は、上の言い方をすれば10人中の残りの数人といったところの人材なんでしょうね。そんな社員がいても何もしない訳では無いんだし、またどの企業も優秀な人間だけで構成されているわけでは無いのでそれはそれでOKなんだろうとの事でした。もっと冷めた、そしてもっと究極的な言い方をすれば企業にとって採用する人間は本当のところ誰でもいいという発想もあると聞かされました。大学を出て働く気があるならだれでもOKという考えですね。『働こうという気があるなら入社をしたら何かしらやってくれるでしょう!』という発想でいけば、入社の募集をかけた日に会社の前に並んだ順に採用して“ハイ終わり!”でもいいはずということらしいです。今年の採用計画が100人なら、会社の目に並んだ前から100人で“ハイ終わり!”その中にはそこそこいい奴もいるだろう、という少し暴力的な考え方もあり得ると聞かされました。当時はガッカリしながらも変に納得してしまいましたが・・・ (笑)。それでも現実にはそんな訳にもいかないので企業は採用面接をしているんですね。
    では、なぜ企業は金と時間をかけて面接をするのでしょうか?学生が学んできた事なんて、これっぽっちも期待していないとさっき書いたばかりですのにね!折角ですから次は、それでもなぜ企業が採用面接をするかという事について少し深堀してみたいと思います。採用する側の面接官だって言うなれば実は普通の人です。人が人を選ぶわけですから選ぶ人なりの観点や視点があるはずです。もちろん会社側から言われているある程度の基準に沿って学生を見てくるのでしょうが、それとは別に無意識のうちに自分と馬が合うかどうかという感性で見ているでしょう。実はここがクセモノと思っています。面接するおじさんにしてみれば、目の前の学生が将来自分と一緒に働くかもしれないという事を心のどこかで、しかも無意識に思い描いていると考えれば分かり易いと思います。もしこの目の前の学生が会社の規定範囲に入る(改めて書くと腹が立ついい方ですよね!)大学の子で、少しばかり賢そうに見えても、『なんか虫が好かないヤツ』と感じたとしましょう。そうすると、次の春に入社してきたその子にもしかしたら自分が会社のルールや習慣をはじめ、仕事の仕方を教え、下手をすると何年も会社の目の前の席に居座るかもしれないのですからね。時にはその“何となく気にいらない子”と仕事で一緒に外を駆けずり回って商品を売りに行ったり、または一緒にお客さんの所に行って頭を下げたり、そして一緒に昼飯なんかを食って、夜は一緒に酒なんかを飲んだり、そして休日にゴルフなんかに行ったりして・・何だったら家族より長くて濃密な時間を会社の仕事を通して苦楽を共に過ごす事になりますからね。歳の差はあれどその子(学生)はかけがえのない戦友になる可能性があるのですからね。そうすると感覚的であっても嫌な奴を会社にある自分のデスクの前に座らせたい訳はないですからね。だとすれば直感的な判断とはいえ、面接官から見て嫌な感じの奴なんて採用しなくて当然です。これが面接をして採用をしているという意味になるのではないでしょうか。

  人って不思議なもんで、初めて会った人に対する直感的な感覚が、結構な確率で当たっていると多くの人は経験上で思っていたりしますからね!ここまでくると先ほど書いたように採用する人間は“誰でもいい”という訳ではないんですよね!やっぱり。そう考えると面接の当日にどの面接官に当たるかも運であると感じますよね。何度も書きますが、面接官だって普通の人です。その人の人間としてのクセだってあるでしょうから、正しく人を評価できているかといえば、決してそうでは無いはずです。そもそも正しい人の評価とは何であるかという事だって疑問ですからね。やはりそこはその人の好み、いうなれば究極の好き嫌いでしょうね。目の前の知らないおじさんが感じる雰囲気や好みで人生が左右されるとは・・本当にそんな事が大きなポイントになってしまうなら学生の立場で考えれば絶句してしまうかもしれませんが、でもそれが本当の意味で“縁”だと思います。昔からお見合いの席なんかでもよく言われる『ご縁があったら・・・』という言葉は、体よく断る便利な言葉だとくらいにしか思っていませんでしたが、実は場合によっては人の人生を左右してしまう言葉になっているのですね。(結婚だって人生を左右しますからね・・笑)そしてその言葉の意味は決して否定的な側面だけでなく、肯定的な意味もあるという事ですね。その縁によって、目の前の面接官であるおじさんが自分の至らない所に目をつぶってくれる事もあるでしょう。それはイコール、要は内定が取れるという事ですね!そして、その目をつぶる匙加減は相手のスペックをみて変わってくるのではないかと思わずにいられませんね。

   ここまで考えると、面接に臨む学生さんはあまり飾らないで、ありのままの自分を出せるといいのでしょうね。これまでに積み上げてきたものは変わらないし、また変えられませんからね。もちろん採用面接では目上の人に会うのですから、それなりの礼節を守りつつ、若者らしく少し緊張しつつも素直な気持ちが出せるといいですよね。一番いいと思うのは、自分が学校で学んだ事、もしくはこだわって活動したことなどを面接官に熱く伝えることが出来るといいのでは?と思うのですけどね(これは相手が求めてなかったら困っちゃいますけどね・・・)。あまり自分自身の気持ちに変な理論武装なんてしなくていいのではないかと思うのです。また『どうしてこの会社が好きなのか』、また『どうしてウチの商品が好きなのか』という質問でもされたらは、好きなものは好きなのですから、そこに理屈を付けたら聞いてる方は本当はシラケてしまうのでしょうけど、でもそこが上手く伝わるといいですよね。(答えにくい質問をされるのは、面接官に試されているか、もしくは“お帰り下さい”というどちらかの意味があるのではないかと思っちゃいますけどね・・)そんな中で相手の面接官が何かの拍子に自分を気に入ってくれたなら、自分の話がたどたどしくても、それはいい結果につながるでしょう。もし面接で、相手と話が噛み合わない、もしくは明らかなる抑圧を感じたなら、それはそれこそ縁がなかったと心のどこかで割り切ることが大切だと思います。目の前の人間となんだか合わないというのは、お互いの人間性が合わないという事もあるでしょうし、相手に見切りをつけられているという事もあるでしょう。そこはなかなか厳しいですけど、これは就活以外でも人生で何度でもぶつかる壁と思います。もちろん簡単にあきらめろという訳ではないです。せっかくの面接まで漕ぎつけたなら粘り強く話すこともするべきですよね!でもそんなに構えないでください。世の中にはちゃんと分かってくれる人はいますから!今日、目の前のおじさんには分かってもらえなくても、あきらめずに就活をすれば中には『お前がいい!』という人は現れるもんです。もしかしたら『お前でいいや』かもしれません。でもそれだっていいじゃないですか!ちょっと良くないスタートになるかもしれませんが、入って頑張れば挽回するチャンスだってありますから!そしてその“ご縁”は就職だけでなく実は友達選びや結婚相手までも含め、あらゆるところで作用していると思います。そんなに恐れる必要はありませんが、やはりここ一番、自分を大切にするなら、日ごろから人を大切にするという事は大事だと思います。そして自分が大切なら自分と関わる周りの人も日ごろから大切にするという事も大切ですよね。私も忘れがちになるのですが、やはり多くの人の支えがあって成り立つのが人間の人生ですからね。それと同時に自分が大切にしている事もよく見つめていく事も忘れてはいけませんよね!そうでないと大切な時に目的の無い行動に走ってしまう恐れがあると思うんです。

 最後になりますが、何度も書いた“ご縁”ですが、これはラッキーパンチの様にその場で偶然的にフッと湧いてくるようなものではないと思っています。そんな事も有るかもしれませんが、基本的には今までの自分が過ごしてきた過程の中で積み上げられた色々な経験や要素などがモノを言うと思います。何かを頑張ってきたから巡ってくるチャンスや、自分の頑張りを見ていてくれた人が与えてくれるチャンスという事も大きな要素ではないかと思います・・。多くの学生が苦しんでいるとは思いますが、苦しみながらでも一人ひとりが希望を持って社会に出てきてくれたら本当にうれしく思います。何故ならそんな若い彼らが次の時代を作っていくのですからね・・。





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