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「これからを生きる」ための人生まるっと振り返り

これからの人生がどれくらいあるのかはわからない。けど、なんとなく生きる=現状維持で生存することはぼくにはできそうにない。じゃあどうすりゃあいいんだとなったときにmindset schoolでこの「人生の振り返り」に出会った。
未来に一歩踏み出す、飛び立つための土台がここにある。

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海と山と川とぼく~自然あふれる幼少期~

1歳のころ

兵庫県城崎郡香住町(現:美方郡香美町)という広い海と山に囲まれた田舎町で八次家の次男として産まれた。母親は名前を「涼」の一文字で考えていたようだが、父親が「太郎」をトッピングして、「涼太郎」という幼い頃は長くて嫌だったけど、今ではとても気に入っている名前を授けてもらった。

生まれ育った町は兵庫県の日本海側に面した漁業が盛んなところで、特にカニは絶品らしい。ということで海の幸に関しては一通り味わったし、やっぱり今でも肉派ではなく魚派だ。
当時住んでいた家から徒歩1分で海にダイブできるほど、海が身近だった。

不思議な世界観の絵を描く小学校低学年

小学校には行きたくなかった。家のトイレにこもって小さなストライキを起こしていた。理由は給食のトマトが食べられないから。
当時は大きめのトマトが食べられず…食べないとお昼休みもそうじの時間も残される。それでも頑なに食べない。担任の蔵野先生に何と言われようが、ぼくは食べない。
先生は「りょうくん」と呼んでくれてたぶん一人ぼっちだったぼくに目をかけてくれていた。
「字がきれいね」
「絵も上手ね」
といって褒めてもらった記憶がある。
今となっては特に字もきれいでもないし、習字に関しては二度書き、三度書きをしていた。習字も絵も「となりの山田さん」の真似していただけ。そう思っていたらなぜか小学校2年生のときに書いた絵が表彰されることになった。

「かまきりと家族」

かまきりと家族

「あれ?一人足りないんじゃない?」という疑問が生まれた。ぼくの家族は両親と男3兄弟だったからだ。
「かまきりが父さんなんじゃない?」と母は話していたが…
今になってみてみるとサイズ的に右上が父親だろうなと思う。おそらく自分がかまきりで、みんなの中心にいるイメージだろうか。

そして5年生になったときに再び表彰されることになる。
「城崎マリンワールド」でのイルカショーを絵だ。これはまだ写真を入手できてないができ次第更新することにする。

絵自体はイルカショーの描写だけど…
なぜか観客席が宙にに浮いている。実際はコンクリートの段々になったふつう観客席なのに…明らかにおかしな視点。
ちなみにイルカがボールはもっている絵はとなりの山田さんから頂いた。
良いところはすぐに真似する、そんな子どもだった。


生死をさまよう小学4年生

小学4年生のときに原因不明の高熱で10日間ほど入院した。41℃を超えたらしく、お医者さんから「今夜が山だ宣告」を受けたと母親から聞いたのは大学生になってから。
このとき以降の記憶は結構あることから推察すると…
おそらく高熱で脳みそが生存本能を発揮して何かしらのリミッターを外した結果、過去の記憶を少しばかり(ほとんど)Deleteしたのではないかと考えている。

小学時代に友だちとスタートした卓球クラブ

親友のじゅんぺい(右)

小学3年生か4年生の頃に、小さな教室で岡住君とじゅんぺいと始めた。じゅんぺいとは保育園からの仲だ。3つ上の兄が中学生になり部活で卓球をしていたことに影響を受けたのだろう。その後大学生1年生までこのスポーツを続けることになろうとはそのときは考えていなかった。6年生になるころにはクラブ活動が拡大して総勢40~50名の生徒が10台以上の卓球台で練習するようになった。
中学の部活ではキャプテンになりそうなところを回避して、副キャプテンというちょうど良いポジションに身を置く。
のびのびとプレイさせてもらえたおかげで京都の福知山にある高校からスカウトを受けて迷わずそちらを選択した。学年では一番の成績だったこともあり誰もが進学校に行くと思っていたようだ。あまりにも迷わなかったから先生も母親も驚いていたが、ぼくからすると「自分の可能性を広げる環境」を本能的に選んだだけだった。いったことがない場所で、会ったことがない人たちと卓球ができる、こう考えただけでわくわくする気持ちを抑えられなかった。
父親がスーパー野生児ということもあり、幼いころから自然のなかで遊ぶことがスタンダードであった。山にいって山菜やきのこを採ったり、夏にはクワガタやカブトムシを捕まえたりした。蛍を捕まえてきて、寝室で解き放ったときの感動は忘れられない。山だけでなく、海や川にいって魚をつったり、貝を採ったり…どこに何があるかわからない、どのタイミングで見つかるかもわからない、何もとれないかもしれない、そんな世界観に魅了されたことを覚えている。

中学1年で学ぶことに目覚めた「つのだ☆ひろ」との出会い

小学生にもなるとみんな塾に通い始める。田舎でもそれは変わらない。ぼくはそのとき勉強に興味がなくて、塾には通わず、じゅんぺいと海にキス釣りに通っていた。
中学生になったときにいとこが塾に通うということで、何となく体験にいったことがきっかけで英語と数学の塾に通い始めた。

そこで出会ったのがつのだ☆ひろに激似の塾長とボウズといってもいいレベルのベリーショートのかっちょいい女性の先生だった。ぼくに学ぶことの楽しさを教えてくれたのはこの二人だったと今になって思う。
決して真面目な授業ではなく、時にはボケやツッコミがありながらも締めるところは締めるというメリハリが絶妙な空間だった。

そんななかで取り組んだわけだが、勉強についてはそれまでやってなかっただけで、やってみたら人よりできてしまったという感覚だ。
中学時代のテストの点数はずっと一番だったけど、これに最も驚いたのは両親だった。兄に対しては「勉強しなさい」と厳しかった母親が勝手に勉強するぼくを見て、なんでこの子は勉強するんだろうも不思議に思ったそうだ。
勉強については苦しんだ感覚はなくて、新しいことを覚えていくことはむしろ楽しいことだった。
これはスポーツ校だった高校進学後も変わらず、新しいことを学ぶことに対してはなんのストレスもなかった。

縦社会を無視してフラットな世界をつくりあげてしまう高校寮生活

水平線はいつもフラットだけどちょっとまるい

高校生になると、親元を離れて寮生活がスタートした。スポーツ校ならではの激しい縦社会がぼくを歓迎してくれた。先輩たちには絶対服従というなんとも古い、くだらない世界を体験したことで、無意識だけど自分が大切にしている価値観が見えてきた。

「みんな同じ人間だし、同じ生き物だ」

それ以上でもそれ以下でもない。だから基本姿勢としてフラットに接してしまう。先生や先輩からお叱りを受けることもあるし、まわりの同級生からすると冷や汗をかくようなコミュニケーションをとってしまうけど、たくさんの人から可愛がってもらった記憶のほうが強く残っているから幸せな脳をもっていると思う。

大学にいっても、社会人になってもこの世界観は変わっていない。権威や地位について考えるよりも「人として」目の前の人を観察する癖がぼくにはある。
小さな子どもに対しても、親しい友人に対しても、会社の後輩に対しても、イケイケの経営者に対しても、そこらへの犬や猫に対しても…

いつもフラットな世界でコミュニケーションをとろうとしてきた自分がいる。


高校時代に卓球が教えてくれた「勝ちパターンづくり」の楽しさ

小学生から始めた卓球で高校にいくことになったけど、そこでは順風満帆とはいかなかった。簡単に言うと「レベルが違った」のだ。
田舎の中学生がやる気満々で臨んだ初日の練習相手はまさかの全国選抜出場者…どうやら故障から回復したばかりで調整のために一番下のレベルで練習したいとのこと。

基礎のレベルが違いすぎて相手の練習にならない。というか怪我してたんですよね?練習してないんですよね?!ちょっと待って!という心の叫びは誰にも届かない。
卓球部の専用体育館のなかには20台以上の卓球台が並べられていて、一番上のランクにたどり着くまでの道のりが果てしなく思えた。

ただがむしゃらにやっても無理ゲーだということは直感的にわかっていた。センス抜群の輩がわんさかいる体育館内で、勝ち上がり東山、平安を破るためには…
ぼくは勝利をつかむためにどうすればいいかを考えた。まずは自分の武器(強み)は

・サーブ、レシーブの質の高さ
・打点の速さ、カウンターでの得点力
・勝ちパターンメイク

かなりマニアックになるけど、上記のような自分の強みを明確に理解できたのは2年目に入るときだったように思う。

逆に弱みもわかってきた。
・ラリー戦(ロングボールは特に✕)
・初見の相手(分析データがない)

ここで導き出した答えは
・3〜4球目までに終わらせる勝ちパターンメイク
・対戦相手を知ること(次の相手の試合を観戦しておく)

この2つをもってして部内リーグで勝ち上がりレギュラーの座を獲得した。とはいえエースではない。思えば中学生のときもそうで、ぼくはずっとエースキャラではない。
だから個人戦はそんなに楽しくなかった。それよりもダブルスや団体戦のほうが心から楽しいとおもえた。

高校時代、ぼくのダブルスパートナーは常に同級生ではなかった。1年のときは先輩と組んでいたし、2年のときは後輩エースと組んでいた。
同級生と組んでいないことに違和感はそんなになくて、それはフラットな世界をもっているからなのかもしれない。

そんなダブルスパートナーは2022年に突然亡くなった。そんな彼への想いはこの記事に残しておいた。

 

心が震えるのは「チームで勝ちを目指すとき」

all-win

卓球という個人競技をしているのに、ぼくが熱狂するのはいつだって団体戦だった。1番、2番、4番、5番がシングルスで3番がダブルスというのが一般的な団体戦なのだか、ぼくが最もしっくりくるのが3番ダブルスと5番シングルスのときだ。
つまり勝負の要となるポジション。ここが勝つか負けるかで勝敗が決まることがほとんどなのだ。この条件下でぼくはプレッシャーをパワーに自動変換することができる。チームからの期待、想いを背負うことでスイッチが入る感覚を何度も体感してきた。

ぼくはスポーツ全般が好きで応援するけどやはりチーム戦が一番熱狂する。卓球ではなくてバスケットボール、野球、バレーボールなんかをやっていたらどんな自分になっていたのか…

仕事を始めて店舗ビジネスの現場に約8年間いたが、チームで売上をつくることに楽しさを感じていたから続けていたんだと思う。プレイヤーとしてはエースではないという点は部活動でも一緒だったけど、店長として働くことになって「チームメンバーそれぞれのどの強みをもってして、目標達成に導けるか」を考えて実行することに対しては情熱をもって取り組んでいた。

初めて現場を離れてオフィス職になったときに、少人数の部署だったこともあり、現場のようなチーム感を感じることができなくなってしまった。異動したフランチャイズの部署、その後EC事業、そしてアフターサポートに関する部署と転々としたがなんだか魂が抜けていた時期かもしれない。その時期は仕事においてのプライオリティも下がり、大した成果を残せなかった。

2023年の2月に今後の出店拡大を考えて新入社員の教育に力を入れるということで、教育チームの責任者としてアサインされたことがきっかけでぼくは復活した。あの悶々とした3~4年は決して無駄ではないし、学びはあったけど「やりたい」と身体が感じていなければ、そのように反応するし、大きなエネルギーは生み出せないことがわかった。
チームで取り組んだ2023年の1年間はひたすらに熱中している。家族との時間、趣味の時間、仕事の時間をトレードオフで考えていた数年が嘘のように「すべてをとる」という精神で、ちょっとした怪我はしながらも進んでいる。

初めて好きなことから逃げた高校三年生

高校2年生の後期になってなぜかキャプテンに選ばれた。一番強いわけでもなく、たいしてリーダーシップも発揮せずに生きてきたぼくを何を血迷ったのか、監督は指名してきたのだ。
一個上の先輩からの推薦だったとしてもよくわからない、と当時は思っていた。中学時代は回避したけど、今回ばかりは空気的に回避不能だった。
このキャプテン選出の理由はまだわかっていないが…15年後に後輩と飲みにいったときに言われたのは
「八次さんが選ばれたのは、卓球が上手い下手に関係なく全員に気を配って、偉そうにすることなく対等に話を聞いてくれたからですよ」
ということだった。ぼくにとっては当たり前にしていたし、無意識的にやっていたことを監督や先輩は見ていたのかもしれない。

そんな期待を背負って3年生と死での最後の大会を迎えるわけだが、その前に事件が起こる…キャプテン失踪事件だ。
失踪と書くと事件性MAXだけど、事実としては逃亡であり、サボりだった。好きで始めて好きで高校も選んで続けていたのに…
ぼくはキャプテンのプレッシャーに勝てなかったのだ。代々受け継がれてきたバトンを次に繋げる勇気がなかったのだ。チームがいるのに、それすら信じられずに、エースでもないのに独りよがりになって、負けたらどうしようという不安と、もっと自分が上手くならないと、というhave toに縛られていた。どうやったら勝てるかではなく、勝たなければならない、という重圧に負けた。

さらに逃げた先がふざけていた。なんと3日間舞鶴の海で海水浴とBBQを楽しんで、岩に足をぶつけて怪我を負って帰ってきたのだ。

副キャプテンからはフル無視という死刑宣告。これは仕方がない。
そして監督からは激しい叱責を覚悟していた…がしかし、そこにことばはなかった。ただ淡々と練習が進められていく。その週の他校との練習試合でもレギュラーから外される。しかし一向に呼び出されて怒られることはない。
ぼくは自分自身がやってしまったことの影響の大きさをただただ感じる日々を過ごした。ことばで叱られるよりも、ずっと苦しい気持ちを味わったし、何よりみんなの期待を裏切ってしまった自分への失望が大きかった。人生一度目のどん底だったかもしれない。

のちに教育実習生として母校に帰り、そのときのことを先生に謝罪した。「生きていればそんなときもある」という先生のことばに人間としての器の大きさを感じたし、この高校で過ごした3年間は人生の宝物だ。

じぶんルール作りで領域展開する高校時代

勉強については「自分ルール」を発動した。テスト前には勉強しない、というものだ。これには理由がある。部活ばかりの毎日で休みもなければ遊ぶこともできないのがスポーツ校のしきたりだ。そんな中でも唯一テスト前の数日は部活が休みなる。※朝練はするけど
みんなこの期間で短期集中で勉強するわけだが、ぼくは異なった戦略を立てた。テスト前にはすでに勉強が完了しているのだ。そして自由を手に入れ、遊びに没頭する。デートはこのタイミングしかない。
その代わり毎日21:00から2時間は勉強タイムと決めて、習慣をつくっていた。当時流行っていた「bad day」を聞くとあのときを思い出す。

「ゴール、目標を決めたら勝つための習慣を形成する」という習性がある。
中学校の自己学習の仕組みとして「漢字ノート、数学ノート、英語ノート」というものがあり毎週どれだけ学習したかを測るためにノートを提出していた。すべてのノートの冊数で一位をとるためにゲームやテレビをそっちのけで手を動かしていた。兄に対しては「勉強しなさい」と叱っていた母親も、ぼくの一心不乱にノートに書きまくる姿をみて「ちょっと休んだら?」と言ってくる状態だった。でもぼくはやめない。
25歳のときにインテリアコーディネーターの資格をとる、と決めてそこから2カ月で習慣を決めて教本2冊と過去問1冊で合格したときもこの習性を活かすことができた。期間は短いが記憶力と理解力には自信があったため「毎日2時間参考書を眺める」というシンプルな勉強法で間に合うと判断した。というのも当時のインテリアコーディネーターの一次試験は問題によって配点が異なり、2点問題と5点問題に分けられていた。限られた時間の中での勝ちパターンを考えたところ、5点問題をノーミスでとることができれば140点がとれる。つまり一次試験の合格ライン(200点満点の7割)に到達することがわかり、そこにフォーカスした。5点問題は記憶よりも理解力を問われる種類の問題であったため「参考書を読んだら大丈夫」と考えたのだ。その結果5点問題はほぼパーフェクトにとりきって合格することができた。

天真爛漫な大学時代〜卓球→キックボクシングへの転向〜

大学に入学し、中学ー高校と続けていた卓球を辞めてキックボクシングに転向した。きっかけはアルバイト先の居酒屋のカウンターで飲んでいた常連さんが親子でキックボクシングの道場に通っているという話を聞いていたこと。もともとK-1が好きでテレビで観ていたので格闘技には興味があった。

「涼太郎もやってみるかえ?(土佐弁)」

YES!という返事の翌日には一緒にキックボクシングの道場にいき、練習を始めた。居酒屋のアルバイトがない日はキックの毎日を過ごしていくことになり、試合の前には人生初の減量を経験した。
当時体重は60~61キロだったが、55キロでの出場を決めてからの2週間は練習と食事制限の日々が始まった。納豆と豆腐とサラダを中心とした食事を続けてわかったことは「人は糖質をとらないと危険」ということだ。お米を食べなさ過ぎて立ち眩みが増えたし、頭がうまく回らなくなった。贅肉が落ちたからか自転車に乗っていて「お尻が痛い」と感じた。脂肪というクッションがないため、木の椅子に座るのも骨があたるから痛かったように記憶している。
ちなみに試合は相手が突っ込んでくるタイプの選手で、練習の成果は1mmも出せずに悔しい敗北を喫した…そしてぼくは旅に出た。

未知の世界にGO!~高知から北海道へ原付旅~

未知へと続く道

試合に負けた翌日、ボロボロの身体ではあったがぼくは、というよりぼくらは旅に出ることになる。パートナーは農学部の先輩であるたいしさん。就職活動を支援する団体で出会った1単位足りずに卒業し損ねた筋トレと柔術を愛する先輩だ。
先輩と言いながらもここでも完全フラットな関係である。そもそも彼の名前は「大史」と書いて「ひろふみ」である。最初に誤った呼び方をしたままずっとこれで通している。そんなたいしと「卒業論文なんて書いている場合ではない」と意気投合して「そうだ、北海道にいこう!」となった。
約3週間の無計画な旅路はたいしのゼミの教授からの緊急呼び出しによって終えることになるのだが、これはまた別で振り返ろうと思う。

なんだかんだでこのポジション?と感じた高校~大学時代

ポジショニング

人生を通して「自分はこのポジション」と言えるものは…ない。
強いているなら全員に影響するポジションにいる、全員の話を聞いているポジションにいる。サッカーでいうと監督やコーチみたいなところか。
小学校でも中学校でもグループに属するというよりはクラス全員、何ならクラスをまたいでいろんな人と関わっていた。偏ることなく、つながることを無意識的にやっていたように思う。
といっても「一番の人気者」というわけではなく、そういう人の横にいることが多かった。たくちゃんが生徒会長に立候補するときは応援演説を頼まれて見事に当選、部活では井堀君をキャプテンに仕立て上げた。リーダーとして先頭に立って引っ張っていく感じではなかったと言える。

高校でもクラスのリーダーではなく野球部やサッカー部のイケてるやつとは仲は良いが、陸上部やなぜか帰宅部の山本君と西田君とも話す間柄だった。
スポーツ校のなかに「特別進学コース」というクラスがあって、一部学力の高い学生がいて、スポーツばかりしている体力馬鹿組とは相容れない関係性だったりするのでが、そちらの人ともコミュニケーションをとっていた。

高校はほぼ男子校であったが、大学の学部は国際社会コミュニケーション学部という国際交流、語学を学びたい人が集まる学部だったため、一変して9割が女の子であった。しかしそこに違和感は特になく、気を遣ったということもなかった。環境の変化に対しての順応性はわりと高いほうかもしれない。
大学ではあるが田舎であったからか学部の中でもクラスが分けられていた。いろはにほへとの順番で「イ組」と「ロ組」があり、ぼくはロ組。50名弱だったように記憶しているが、大学側がそのような制度をつくっているわけではなく、学生が勝手にそうしている、ということは後々知ることになる。代々その文化が続いていて、先輩達にはイベント、飲み会などの企画運営で大変お世話になったし、そのおかげで大学全体が仲が良かった。
2回生になり、今度は自分が責任者に選ばれることになる。積極的に立候補したわけではないし、先輩たちへの感謝とは裏腹に責任者の大変さも感じていた。しかし、高校の時と同様に「誰とでも分け隔てなく話してしまう」という特性のおかげで、そういう役割が回ってきたのだ。

強力なリーダーシップをもっているというよりも、誰とでも本音ベースで対話する、という特性があるから何か問題が発生しても人とのコミュニケーションで解決できるから選ばれたのかもしれない。
先輩から受けた恩恵を後輩に返したいと思いながら、責任者としても期間を終えて後輩との仲は深まった。責任者のバトンを渡した後輩テツローとの再会は意外な形で実現することになる。

屋久島での再開

2021年6月に仕事で鹿児島に2カ月ほど滞在する機会があった。そんなときに数年ぶり?もしくは10年ぶりくらいにテツローからinstagramでメッセージが来たのだ。
「あれ?屋久島って鹿児島じゃない?」
そこからはとんとん拍子で話は進み2週間後にはぼくは屋久島にいた。
思い立ったら即行動、未知の世界に足を踏み入れたいという欲求が久々に叶った時間だった。

この旅のなかで発揮した「人の懐に飛び込む」という能力が旅の楽しさを何倍にもしてくれている。ぼくにとっては当たり前になっている距離感が、周りの人とは違っているのだと徐々に気づくようになる。


人との距離感がバグってるのは昔から?!

これは人間関係においてずっとそうなっている、というよりそうなってしまう。昔から人の懐に飛び込むのが得意で、気づいたら家に転がり込んでいる。小学生、中学生のときにはたくちゃん、じゅんぺいの家族に可愛がってもらい、本当に家族のように接してくれた。
高校になると寮生活が始まったものの隙を見つけては先輩、同級生、後輩の実家に泊まりに行く始末。高校生の最後の2カ月は寮生活を終えて、同級生の枚田家(ひらた)で面倒を見てもらった。大学生になってもその勢いはとどまることを知らず、いろんな人の家に転がり込んで自宅で寝る日数のほうが少ないんではないかというくらいの月もあった。
人との距離感については接客という仕事においてもバグっていくことになる。あくまでもお客様と販売員、であればいいもののズケズケと踏み込んでいくものだから「家具の納品のときにおいでよ」と言ってもらい、家族の一員となってお茶をすることもしばしば。

なんでこうなるんだろうと推察してみると…基本スタンスとしてこちら側が常にオープンである。「忖度」という概念があまりないというか、単なる失礼で礼儀を知らないというか。だから人との対話のなかでも聞いていくなかでぶっこんでしまう。それで失敗した経験がないわけではないと思うけど、それがあるから相手もオープンになって受け入れてくれる。損得でも善悪でもない。「人類皆友也」だし、すべてがつながっているとすら感じている。

だからと言ってずっとべたべたするわけでもなく、感謝をしながらも次の関係性をつくりにいく。昔の友人に会うことは決して多くない。未知を求める欲求が既知の友との関係性を凌駕する、そんな感覚だ。
(とはいえ年に1回か2回くらいは会うことはある)

have toに押しつぶされた就活体験

want toで生きる

部活動でのhave toからの逃亡に続き、次は就職活動という儀式に押しつぶされた。みんなが同じようにスーツを着て、同じように説明会を受けて面接をして…このままでいいのだろうかと漠然と感じたぼくは足を止めた。いや、足どころか手も止めて、アルバイトもキックボクシングにも行かずに自宅に引きこもってしまったのだ。

仕事ってなんだろう…
自分は何がしたいんだろう…
スーツは着たくないな…
通勤電車もなんだか苦しそうだ…

そんなこんなを考えながらずーっと映画を見続けたことだけは覚えている。1ヶ月の葛藤の末に出てきたのは「この世界に”しなければならないことはない”」というフレーズであった。しなければならないと思うから逃避するという行動が生まれる。じゃあ自分が「したい、やろう」と思えることをやるんだとノートに書き出したことを覚えている。
そんなときに過去を振り返って高校1年生のとき書いた作文を読んでみた。地元である香住を離れて、地元愛を感じていたからだろうか…「地方創生したい」と書かれていた。当時の香住町は財政難で全国の自治体の中で確かワースト3に入っていた。そのころ夕張市が財政破綻したというニュースもあって「地元がそんなことになったら嫌だな」と直感的に感じたのだろう。
そんなことができそうな会社を探し始めたところからぼくの就活はスタートした。
そして短期間で内定をゲットして就職支援センターみたいなところ報告にいったら大学の中で一番です、と言われた。ゴールを決めたら「ゾーンに入って最短ルートを設計する」というのは勉強でも資格取得でも就活でも同じようだ。
ちなみにこの就職活動中に、現在学んでいるコーチングスクール(株式会社mindset)の創業者になる李さんと出会っている。当時の印象があまりにも強かったので就職した後もその会社はベンチマークしていた。ブライダルを中心に歴史的建造物を再利用して事業再生するようなビジネスモデルで、働いている人たちがとてもきらきらしていたことを覚えている。今思うとなぜそうしたのかわからないが、最終面接前に今の会社の内定が出たので最終面接をお断りしたのだ。
そして今も務めている会社は…なんとインテリアの小売業をメインにしている。どこでどう血迷ってインテリアの世界に飛び込んだのかはわからない。しかし最終面接で当時の社長に
「ぼくは地方創生がしたいんです」
というよくわからない発言を根拠のない自信をもって堂々と言い放ったことを覚えている。社長は社長で
「八次くん、それは素晴らしいことだ。是非うちに入りたまえ」
という始末。しかし筋は通っていたように思う。インテリアは空間づくりの仕事であり、地方という空間やコミュニティに貢献できるような気がしたし、接客サービスやセールスの力を身につけることで地方で商売できるようになるのもありだなと考えていた。さらにこの世の中のほとんどすべては人と人が関わって生み出される。だから人と人という空間の最小単位を制することで30歳では独立するんだと意気込んでいた。

就職したのはLIVING HOUSE.

仕事に没頭した新入社員時代@大阪の堀江

スーツを着たくない、電車にも乗りたくないと思って入社したぼくは3月頭には大阪の本社兼オフィスの近くに(徒歩5分)引越して「電車に乗らない」というポイントは早々にクリアしていた。
しかし4月の入社式で配属店舗が告げられたときにぼくは愕然とした。なんと当時リビングハウスがフランチャイズでやっていたデンマークのモダンインテリアブランドに配属されたのだ。何が問題かと言うと…その店舗にいる先輩方がバリバリのセットアップだったからだ。あれ?そんなスタイリッシュなスーツはもってないぞ、となって翌日にスーツを買いに行った記憶がある。
そんなスタートだった社会人1年目はひたすらにインプットとアウトプットを繰り返す毎日だった。
「接客/接遇×セールス×インテリア(専門性)」という今まで居酒屋のバイトと家庭教師しかしてきていないぼくにとってはすべてが未知の体験だった。そんな環境に身をおいたからこそ、ぼくは仕事に没頭していく。
ストレングスファインダーのトップは「学習欲」であり、新たな領域に対する学習は誰にも止められない。インテリアの勉強はもちろんだが、それよりもドはまりしたのが接客とセールスの分野だ。顧客心理に基づくセールスのステップを叩き込まれて、それを先輩のフィードバックを受けながら毎日毎日トレーニングする。あんなにフィードバックを受けたことはないんじゃないかというくらいに徹底的に客観的な視点で自分を磨いてもらう期間だった。運がいいことに当時の全社のトッププレイヤーが同じ店舗だったので彼女のマインドやスキルをすべてインプットさせてもらい真似していた。真似していたら接客の言い回しだけでなく、普段の話し方も似てくるのはやりすぎだっただろうか。
そうやって飽きることなく没頭できたのは、接客やインテリアコーディネートは「正解がない世界」だからだったのかもしれない。

学びたい、シェアしたいという欲求は誰にも止められない入社2年目

learn&share

新しいことを学ぶこと、インプットについてはずっとやっていられる。
未知の世界に足を運ぶことと未知の領域を知ることはぼくにとっては同じくらい楽しいものだ。
所属している会社が「人を育てる」ことを大切にしていることもあり、読書をするということに対して多くの社員があたりまえのレベルでやっている環境だった。それに倣ってぼくも本を読み始める中で気づいてしまったのだ。書籍というものが「学びたい」という自分の欲求を次から次へと満たしてくれるものであることに。それ気づいてから文字通り「本の虫」となってしまう。学生時代の勉強が苦でなかったというのも新しい学習において特にそうだった。「これがわからない」と困っている人がいれば意気揚々と教えにいっていたし、高校時代のテスト前には自分の部屋にテスト攻略法を教えてほしいという人が来ていたことが懐かしい。(ぼくはすでにテスト勉強が完了している)
教えたいというより、シェアしたいという感覚のほうが近いなと感じたのはつい最近のことだ。自分がインプットしたものをシェアしてしまうから、読書会やLINEでの配信、2022年にはnoteで本の棚を開設した。ぼくが読んだ本は自宅には保管されず所属店舗に置いていかれる。売るわけでもなく、ただみんなにシェアしたいだけ。それによって店舗やオフィスが図書館みたいになっていくことで迷惑をかけている可能性は高い。

天国も地獄も見た札幌店長時代

入社当時から社長に「札幌にいきたいです」と言いまくっていた。これは知らない土地にいって、知らない人と出会って、今までにない価値観を吸収できることで自分が大きく成長できるという確信をこれまでの人生でもっていたからだ。
そんなことを言っていたら突然社長に呼び出されて「八次くん、来月から札幌ね」というお達しがきたのだ。当時の札幌店は会社の中でもいわゆる稼ぎ頭の店舗で常に目標達成しているイケイケ押せ押せ軍団だった(解釈強め)
そんな札幌に3年10カ月ほど住むことになるのだが、そこでの経験は今後のぼくの人生の財産になっていく。
セールスにおいては常勝軍団であるがゆえに優秀なプレイヤーがたくさんいたので、転勤した最初の年は見事に年間達成。(そのときは副店長)
そして2014年の4月に店長に就任した。
常勝軍団の店長のバトンは想像以上に重かったことを覚えている。しかもこのタイミングは…そう、8%への増税があったのだ。中価格から高価格帯を扱うぼくらのビジネスは3月で爆発したものの4月からは悲惨だった。それに加えて「達成しなければ!」とhave toまみれの八次くんはできもしない店長理想像を追いかけて、トップセールスでもないのに最前線に立ち、見事にフルスイングで空振りする。気づけば見たことのない実績で4月を終えて、何と6月まで3カ月連続未達成を経験する。
高校に時代にも前キャプテンからのバトンを受け取り、逃げ出した記憶がよみがえってくる…
「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」
家に帰ってお風呂に入ろうとする奥さんから一言。
「なんか背中が大変なことになってるよ」
病院に行っていないので原因は明らかではないがどうやら過度のストレスで背中に発疹が出まくっていた。それ以外は全くもって問題ないけど身体が反応しだしたのだ。
6月も未達で終わり、このままじゃ達成できないけどどうしたらいいかはわからないからみんなで飲みに行くことになった。その飲み会のことは当時のメンバーは今でも覚えているそうだが…なにをしたかというと、ぼくはみんなに謝ったのだ。独りよがりな店長であり、付け焼刃のリーダーシップも効果なし、これまでの未達は誰のせいでもない自分のせいだと。でもこのままだと悔しいし、このチームで勝ちたい、もう一度札幌店を輝かせるのは自分たちだと本気で思っていた。
ドラマのようだが、そこからチームのムードは激変してなんと年間達成して最優秀マネージャーとして表彰してもらった。あの地獄のような3ヶ月の経験が自分のプライド、思い込みを取り払ってくれたんだと今では思える。

「光が見えません」関東旗艦店の店長時代

2017年4月28日(ちゃんと覚えている)にオープンする関東で最大規模の店舗のオープニング店長を任された。札幌では仲間に恵まれ、多くの顧客様にも助けられながら次の店長にバトンを渡すことができた。
そして初めての店舗立上げ…チームメンバーに驚愕した。6人中4人が新入社員だったからだ。オーマイガーだ!勝ちパターンが見えない。当時の予算を眺めてそう思った。パターンを見出すために新入社員を育成することに精を出すわけだが、なかなか成果を出せるまでには時間がかかるのが現実だ。教えることは1mmも苦ではなかったが、チームが勝てないこと、お客様に貢献できていない現実は苦しかった。ここで札幌時代を越える6カ月連続未達を経験することになる。今でも当時住んでいたセンター北のあの帰り道を思い出す。駅から徒歩7分が長く長~く感じる。家に帰ると1歳になった子どもが迎えてくれるけど、あのときのぼくはどんな顔だったんだろうか。
2カ月に1回ある全国店長会議で各店舗の業績進捗、改善計画を発表する場があったのだが、その場で「正直、光が見えません」と口に出してしまったことは苦い記憶だ。
しかし10月になり中途入社の女性が横浜に入ってくるということを当時の上司から知らされた。「もう新人は勘弁してくれ」と心で思っていた。が、その彼女がぼくの救世主になってくれるとはそのときは思いもしなかった。
ぼくよりも3つ年上の彼女はもともと飛び込み営業で活躍していて、インテリアに興味があるということで入社してくれた。接客指導についてはぼくが担当してみっちりとトレーニングした。朝練はもちろん、営業中もリプレイトレーニングを繰り返して、自分がこれまで学んできたことを体系立てて指導していった。すると11月には彼女は達成し、12月に運命の日を迎える。
12月31日、店舗目標まで残り60万。新人の予約がちょうど60万入っていた。これはいけるとだれもが思っていた、そのとき電話がなり「今日の予約はやっぱりキャンセルで」の一言。全員が失意に暮れるなかぼくとエースである彼女はあきらめていない。夕方の17時くらいだったかぼくが以前案内したお客様が戻ってきてくれたが、まだ迷っているというではないか。全員の視線をビシビシ感じながらも卓球の団体戦でラストが好きだったぼくにはそのプレッシャーは怖くないし、むしろパワーに変えることができる。そのときは達成しなければならない、よりもチームで勝ちたいという欲求が大きかったように思う。そして約2時間の接客の末に見事目標達成のゴールテープを切ったのだった。(まさか自分が切ることになるとは…)

ゴール達成が見えるとつまらなくなる店長時代後半戦

ゴールイメージ

ゴール達成に対して重きを置いていないというと誤解が生まれるかもしれないが、そこまでの過程をつくっていくことがおもしろい。「あっ、もういけるな」というシャイニングロードが見えるとあとは自分じゃなくていいかと感じてしまう。
店長時代も月初は「今月いけるかどうかまだわからない」からわくわくするが、月半ばになって「もうゴール達成が見える」となるともう次の月に頭がいっている。
できるかできないかのゴールを思い描いて、そのプロセスを想像することはとても楽しい。これからも未知の世界へ自分を連れていくことを続けるだろう。
次はそれをチーム、組織でできたらいいなと考えている。多くの人が自分の可能性に蓋をして、できない、怖いと言って一歩踏み出せないでいると思う。日本という国のステージがそうだからかもしれない。だけどそんなことはぼくたちの人生とは関係がない。
どう生きるかを決めるのはいつだって自分だ。常にゴールを思い描き、近づいたら更新して、また思い描き、更新する。こうやって人生を楽しんでいく人を増やしていく。

念願のはずがパワーが出ない異動後の自分

2020年に数年前から始まった地方創生事業にアサインされることになる。高校時代から言っていたことが実現したわけだが、決して良い結果が出たわけではない。ぼくらがやっている事業は
①地方の業績が苦しい家具屋さんに対して経営コンサル、接客指導、オリジナル商品の卸、店舗設計、集客支援など
②家具メーカーが自社倉庫を改装して小売事業を始めたいということでその立上げ
当時はこんな感じであった。(今はもう少し手広くやっている)

やりたいと思っていたことであったが、コロナの影響もあり現地に足を運んだりすることも難しく(断られる)データとにらめっこしながらオンラインでコンサルティング、接客指導などをしていた。1on1での接客指導や人材育成のところは苦はなく、実際に成果をあげることができたが、それ以外はパワーの出力が店舗でチームでやっているときの半分以下だった。もちろん成果も出ずに約1年半ほど従事した後に次の部署へと異動していく。

新天地でもいまいちなぼく

10年間はずっと現場にいたぼくに告げられた辞令は「EC事業部への異動」だった。これまたコロナの影響もありEC事業が伸びているということで、その中間管理職としてチームをマネジメントする役割と聞いていた。
ふたを開けてみると任された業務は「プライバシーポリシー、利用規約の整理」「売上データの分析からのサイト改善」「部下のマネジメント」でありパソコンとのにらめっこの時間が多かったように思う。チームづくり的な要素はなく、当時のぼくは上司の指示を忠実に実行することで一日を終えているつまらないやつだった。特にプラポリと規約みたいなゴールも道筋も決まっていることに対して時間をかけることが自分にとっては苦行だったと言える。オフィスのメンバーには「あのころは目が死んでた」と今では笑って言ってもらえるからいいけど、魂が抜けた状態で仕事をしていたのかもしれない。やりたいことではないけど、できてしまうこと。これがやっかいなのだと気づいた。器用貧乏的なところがあってなんでも卒なくやってのけるから営業が使うデータ管理ツールを開発したり、インフラ関係の業務もポンポン降ってくるからやってしまう。(これは今でもそう)組織としてのマストだからやるけど、やらなくていいならやりたくはない、というのが本音だ。
かくしてまた10カ月ほどいまいちな自分と付き合っていくことになる。そのときはちょうど下の子が小さくて家族も大事にしたいと「仕事と家族」をトレードオフの思考でとらえてしまっていたことは反省点だ。

ついに見つけた自分の本当の「やりたいこと」

34歳になってEC事業からまた異動して、アフターサポートの部署の立ち上げをやっても、現状維持に対する「このままでいいんだろうか」という悶々とした思考が曇った状態が続いていた。そんなあるとき「守りばっかりやっててもつまらない、そろそろ本当にやりたいことやるぞ!」っていうタイミングで次の仕事がやってきた。
2023年2月17日に「新入社員教育を再設計する」というプロジェクトの責任者として招集された。青天の霹靂とはこのことだと思った。なんで?と思いながらも身体は素直なものでドキドキしているし、ワクワクしているし、体温が上がった感覚があのときにはあった。
何かを体系的にまとめてシェアする、ということはこれまでの仕事の中でもやってしまっていることだし、人を可能性の世界に案内したい。
さらにはプロジェクトチームとしてぼくを含む3名が集められたが全くタイプの違うメンバーで、このチームの個々の強みを最大化したらとんでもない未来が見えると感じた。チームで勝ちたい、そんなチーム名は「LIVING Z」だ。ドラコンボールZ的なノリでつけられたこの名前はこのあと全社に知れ渡ることになる。。。

そこでコンサルに入って頂いた池田さんとの出会いも印象的なものだった。彼は人生全取りするんだ、ということで仕事も趣味も家族も社会貢献もすべてに対して全力で挑戦している。そんな人がいることをぼくは知らなかっただけで、知ってしまったが最後、ぼくも全取りするんだ!と人生のゲームチェンジが起きた。
そこからの1年は文字通りのあっという間であったけど、新入社員の研修を設計、講師としてトレーニングしていくなかで、仕事でこれだけ感動して涙を流したことはこれまでなかったし、家族との向き合い方も変わったし、卓球も再開して今はフルマラソンに挑戦している。
いつもぼくの左耳でささやいていた現状維持の小悪魔はしばらくお休みしてくれているようだ。
組織やチームや人を可能性の世界に案内したいというフレーズをもって毎日自分に対しても仲間に対しても初対面の人に対してもそういう姿勢で向き合っている。
これからの人生を生きるためにまずは誰よりも自分の可能性を信じることから始めようと思う。

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