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【地獄とは他人のことである】ゴミの日

今日、久々に、本当に久々に(2年ぶりくらい)、他人をサシ飲みに誘った。

コロナ期間を経て、飲み会という文化自体が縮小傾向の娯楽になってから、他人と飲みに行くことがめっきりなくなった。
飲み会どころか、朝の「おはようございます」さえ、他人に声をかける際に緊張してしまう性分の私だが、相手は仲が良いと思っている相手であり、久々の出張があり会える距離に一泊する。
大人数は苦手だから、2人きりの方が気兼ねなく話せるだろう。
ということで、意を決して声をかけた。

(以下お誘いの会話)
やつはし「久しぶり!今度出張でそっちに行くんだけど、飲みに行かない?」

相手「いいね!誰か誘う?AさんとかBさんは?」

やつはし「あ〜、あえてのサシ飲みとかもありじゃない?」

相手「それもあるけどね〜。一旦、AさんとかBさんが忙しくなさそうなときに声かけてみるわ!」

やつはし「OK!」

…これ、サシ飲み断られてるよね???


正直2人がよかった。
でもこの流れから「2人っきりじゃないとやーや(˘・з・˘)」と言い出す会話術を持っているはずも無かった。
結局サシ飲みという話は流れ、誰を誘うかひと通り話し合い、会話はおわった。

◇◇◇

この会話をしてから数時間ほど経過し、家に帰りぼーっと過ごしている間にも、サシ飲みを断られたショックが定期的に蘇ってきた。

「相手は自分のこと好きじゃないのかな。」
「サシ飲みがいいって素直に言えなかった自業自得だ。」

後悔と反省を何度も頭の中で繰り返し、サシで飲みに行ってもらえない自分の価値の低さに嫌気がさした。
心なしかご飯も進まない。ため息が出る。ネガティブなことしか考えられない。とにかく強いストレスと疲労感。もう何も考えないようにするために、爆音でホラーゲーム実況を見続けることで気を紛らわした。もう誰とも話したくない、誰にも傷つけられたくない。


そんな具合でひとしきり嫌気が差し終えたとき、ある一つの考えに辿り着いた。
今まで自分のことを「ちょっとコミュ障で気にしいな性格」と思っていたが、その認識は間違っていて
私は「他人からの評価が気になりすぎて日常生活に支障をきたしている」という、ある種の異常事態なのではないだろうか?
という考えである。

この友人も、飲みに行くこと自体はすぐに快諾してくれてるのに、いくらなんでもダメージ量が多すぎるような気がした。

そしてストレスが限界まで達した瞬間に、唐突にこう思ったのだ。

他人はゴミだ。
ゴミが何を考えていようが関係ない。

◇◇◇

…擁護できないくらい言葉が強いが、降って湧いた「他人ゴミ理論」。
ここまで思わないと「他人の評価は気にするだけ無駄」という実感が湧いてこないのだ。
緊張したときには客席をジャガイモだと思え、という例えがあるが
八方美人歴20年以上にもなると、ジャガイモにすらちょっとした遠慮を覚えるようになる。

ジャガイモにすら傷つきたくなくて低姿勢

「他人はゴミ」というのは、とにかく周りの目が気になる自分のための荒療治であり、
相手をゴミまで落として初めて「自分と少しは対等に話せるな」と思えるレベルなのである。

…一応言っておくが、あくまでも比喩表現であって他人からの評価や視線はゴミだと思えるくらい、気をしっかり持ちましょうねという話ではある。

◇◇◇

かの哲学者サルトルが「地獄とは他人のことだ」という言葉を残している。
ある漫画がきっかけでこの言葉に出会ったが、これほどまでに今まで他人に感じていたことを端的に表現した言葉は無いと衝撃を受けた。
他人が周りにいるだけで不便さ不自由さを感じて、それが進行していくと地獄だといえるくらい辛くなっていく。

花粉症は、花粉を吸い込んだときに体内で作られる抗体が人生でどんどん蓄積され、一定量を超えたときになると言われている。(全日本病院協会

今回サシ飲みを断られたと感じたストレスで、他人の目を気にすることによる疲れが一定量を超えたんだと思う。
サルトルは地獄=他人と表現したが、私の場合は他人=ゴミという形でそれが現れた。


何が言いたいかというと、
今アイドルのコンサートチケットが2枚あり、誰かと一緒に行きたいが誰にも声をかけられないという時間が何週間も続いていたが
他人はゴミなので、誰を誘って断られても問題ないし、1人で行ったとしても周りにあるのはゴミであり視線とかは無い、という意思を持って早く誘おう。


やつはし

参考 「地獄とは他人のことである」に出会った漫画
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』5巻

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