見出し画像

小説 開運三浪生活 38/88「一発逆転」

「広島大って、結構難しいんじゃねえの?」

高校時代の同級生数人が集まった居酒屋で、文生はさっそく受験の心配をされた。先日、文生を東京のアパートに泊めてくれた野田や、中部地方から一時帰省していた木戸も顔を揃えていた。文生が彼らと対面するのは卒業以来のことだった。みな、大学で覚えたアルコールを口に運んでいた。彼らが言うには、入学するとまずは新歓に強制参加させられるので、嫌でもアルコールを覚えざるを得ないとのことだった。創立二年目の県大には無い文化だった。文生だけ、頑なにウーロン茶を飲み続けていた。

「偏差値いくつ? フミオが受ける学科って」
「60」
「それ普通に難しいって」
「んじゃ、仮面浪人するってことけ?」
「当分そのつもり」
「まあ、そう言いながらもみんな、今いる大学の色に染まっちゃうんだよねえ……」

したり顔で口を挟んだのは、さっきから半ば呆れ顔でやりとりを聴いていた木戸だった。

文生は少し、ムッとした。

「フン……俺はそうなんねえと思うよ」

高校時代、文生の学力がいかほどだったかは全員が知るところだった。木戸のように嫌味を含んだ言い方でないにしても、旧友たちは遠回しなに文生を止めにかかった。しかし、言われれば言われるほど文生は意固地になった。

「もう決めたからヨ」

すると、それまで黙って料理をつついていた野田が口を挟んだ。

「編入はしねえの? 三年から入るっつう手もあるはずだよ」

編入制度については文生も少し調べていたが、どこも定員は若干名で、どうにも不透明な制度に思えた。何より、まる二年も県大の学生をやるのは精神的に無理だと思った。

「編入はしない。普通に受験するわ」

そうけ、と野田は赤ら顔でうなずいた。すでに瓶ビールを一人で数本空けている。 

「でも、ほんとに受かったらかっけえよな。納得するまでやればいいばい。俺にはもう、そんな気力ねえわ」

野田だけは、文生の無謀を否定しなかった。

八月下旬に岩手に戻ると、早くも秋風が吹き始めていた。

文生は実家の押し入れから引っ張り出してきた数学と化学の教科書から、受験勉強に着手した。基礎の基礎から始めようとしたのである。高校時代、こと数学と化学に関しては、記述模試では答案らしい答案も書けず、ほぼ白紙で出すほどの落ちこぼれぶりであった。偏差値60の広島大総合科学部に受かるなど、文生の学力からすれば雲をつかむような話だった。

残された日数を考えると、あまりに遅すぎるスタートだった。さすがに無謀な挑戦だということは自分でも判っていたが、だからこそ挑む価値があると、この男は開き直っていた。ある種のロマンであった。さらに厄介なことには、彼は中学までの優等生だった過去をいまだに引きずっていた。高校ではぐうたらしていたので劣等生に甘んじたがそれは仮の姿であり、これからの半年間本気で努力すれば、失われたプライドと学力を取り戻せると信じて疑わなかった。

「自分復興」を密かなテーマに掲げ、遅すぎる受験勉強が始まった。まだ夏休みはひと月余りある。この間にできる限り教科書を消化し、後期が始まったら県大に通いながら問題集に取り組もう――。文生は躍起になっていた。

広大の総科は文系と理系の二つの受験コースがあったが、文生は迷わず理系で受けることを決めた。文系の二次試験は小論文と英語だったが、英語も苦手だし、どんなお題が出されるかわからない小論文は対策が難しいのでバクチだと考えた。対して理系受験は物理・化学・生物・地学からの一科目選択と数学の計二科目だった。苦手とはいえ、勉強すればしただけ学力が伸びそうな理系科目のほうが安全だと文生は考えた。一見、理にはかなっていたが、あまりに分不相応な戦略をとったのである。

理系への苦手意識をここで克服しない限り、その先の人生はない――そう思い込んでいた。劣等生のままの自分でいるのは嫌だった。しょっちゅう赤点を取りクラス内ではおふざけ要員にしか見られなかった高校時代も、いつか殻を破らねばと思い続けてはいたのである。

プライドだけは一丁前であった。しかし教科書からのリスタートは、明らかに遠回りだった。不幸にして、彼の狂気の選択を思いとどまらせる者はいなかった。そもそも文生自身がまったく悩まずに決めたことなので、客観的な意見を誰かに求める気など毛頭なかったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?