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小説 開運三浪生活 24/88「宅浪志望」

『竜馬がゆく』で歴史小説の面白さに目覚めた文生が、司馬遼太郎の次に手を着けたのが井上靖だった。『敦煌』『天平の甍』『風林火山』といった薄手の文庫本を、勉強そっちのけで次々に読み漁った。本はすべて書店か古本屋で購入した。自分が読む本は常に手元に置いておきたかったし、高校の図書室にはどうしても足が向かなかったからである。一年生の頃に二、三回図書室を覗いてみたが、黙々と自習する上級生たちで室内はいつも張り詰めており、文生はまったく気後れしてしまった。劣等生の自分にとって、およそ場違いな空間だった。
 
二年生の夏休み、課外授業最終日の帰りに立ち寄った書店で文生の目に留まったのが『北の海』だった。文庫本にしてはかなり分厚く、七百ページ近くあった。裏表紙を見ると、それまで好んで読んでいた歴史物ではなく、どうも青春小説らしい。せっかくの夏休みだし、たまには新しいジャンルをのんびり読んでみようと、軽い気持ちで買った。
 
ページをめくると、文生はすぐに物語の世界に引き込まれた。舞台は大正時代である。旧制中学を卒業し下宿先の寺に住みながらダラダラと浪人生活を送っていた主人公・洪作が、当時金沢にあった四高の柔道部員にスカウトされる。「練習量がすべてを決定する柔道」という四高柔道部のモットーに底知れぬ魅力を感じた洪作は、浪人の身でありながら柔道部の夏稽古に参加し、四高を目指して本格的に受験勉強を開始する――そんな話だった。
 
 
一週間くらいかけて、お盆の夕涼みの時間を読書で楽しめればいいと思っていた文生だったが、予定に反して二日で読み終えてしまった。それでもペースは抑えたつもりだった。本当はじっくり咀嚼して味わうべき高級店のパフェを、あまりにうますぎて食べ急いでしまったような、もったいないことをした気持ちだった。読んでいる最中の高揚感がページをめくる文生の手を早め、読み終えてしまったことへの寂しさが文生をとらえていた。
――こういう人生、いいなあ。

文生がしみじみ感じ入ったのは、ストイックな部活に青春をかける登場人物たちの潔さと、洪作の気ままな浪人生活である。もちろん現役でどこかの大学に受かるに越したことはないが、もしどこにも引っかからなかった場合、自宅浪人という選択肢はあるなと文生は思った。できれば、周囲がうるさい実家よりも、他県にある親戚の家などが望ましかった。予備校に通わずマイペースで受験勉強を進める洪作の姿がうらやましく思えたし、自分にもそのほうが向いている気がした。親にとっては甚だ迷惑な願望であった。

一気に物語を読み終えた文生は、天井を眺めてしばらくぼーっとしていた。扇風機の羽音に混じって聞こえる弱弱しい蝉時雨が、東北の夏が残りわずかであることを告げていた。

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