キノの旅と現代社会の生きてる世界

キノの旅が中学生の頃好きでした。色んな国に行って、3日間というルールを自分で守ってその中で国のことを知ったり、国の人と交流する物語です。
中学生のころは、バイクに乗って、旅をすることに憧れになりました。雨に降られたり、厳しい寒さがあったりするので、バイクよりも自動車の方が便利ではあるのですが、個人に特別なその人だけの相棒としてバイクが出てきます。その丁度良さのような、バイクが良いな、と感じていました。

大学に入学したあと、職場にいた頃、周りの人がこんなに色んな考えを持ち、価値観を持ち、理想や、目的や、考え方も違うことに、疎外感のようなものを強く感じるようになりました。
カルチャーショックでした。

わたしの感じている良さは、ある人にはそれがみすぼらしいものであったり、理解できないし、理解しようとも感じないことに気づきました。
「住む世界が違う」という表現があります。

家が貧乏だったり、一般家庭でも、資産家でも、何にどのくらいの費用をどの割合で使うかは違うのです。
また、男の子、女の子、兄弟の立場などなど、生まれたときに囲まれている当たり前の状況の違いから始まります。
地域の常識があって、学校のルールがそれぞれあります。それから、大人になるにつれて、専門性が高まっていきます。その専門性を高めるにつれて、他の専門外のところに関しては人によって、それまでに培ってきたものでやりくりするようになります。
そうやって個人で過ごしてきた個人レベルの歴史から、個人の常識が生まれます。
常識というのは、当たり前の、あるルール化された身につけてきた前提になります。

他者と関わるなかで、自分の外に存在する他者との精神的にも交流が生まれます。
キノの旅と重なる部分があるように感じました。
キノが持っていることで大事なことは、自分の価値観をはっきりと言う訳ではないのですが持っている所です。「ぼくにはこれは必要ないや」と自覚できること、気づけること、納得が追いついていることが大切に感じます。

内側にそのひとの持つ価値観として在るけれど、それを明確に掴むことができていない状態は、それを空の状態で言えるくらいで明らかにしていると軸となり、主体になります。それは周りに振り回されることが少なくなります。流される、と言うあり方もあります。

そうなると、自分で好循環の流れを掴んで乗れそうだな、と。

何が自分にとって満足なのか、何を成したいのかを分かるための一歩だな、と感じました。
個人の旅だと、それがある人は自転車かもしれないですし、ワゴン車かもしれません。歩くくらいのスピードで旅するものかもしれません。
学校や、職場といった長い期間を同じ環境に身を置いている状況だと、その場にいる人が同じ世界を生きているような錯覚を見てしまいます。
向き合うことって、何からスタートするのかな、と思い考えたことでした。

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