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『この地獄を生きるのだ』を読了して悲しくなった。

淡々とした語り口調で必要以上に心を揺すられることなく、するすると読めた。自分の傷をえぐって人に見せるような自虐的な箇所はなく、いたずらに読者の感情を揺さぶることもせず、ひたすら淡々とつづられた文章に好感を持った。

事前情報として大変な過去を過ごされていた事は知っていた。でも実際に読んでみて、共感して大きく悲しむこともなければ、行政やクリニックの対応に憤ることも無かった。ああ。なるほど。と思うに留まったのは、自分が精神障害者で身近な世界だったから。

自立支援医療制度は利用している。でも、障害者手帳、障害年金、生活保護は取得してない。取得を考えるに至ったまでで、取得するために行動に起こしたことは無い。幸運なことに受けなくても生きて行くことができたから。

その程度の私が「当事者」だと発言するのはおこがましい。当事者というにはあまりにも私は軽度すぎる。軽度という表現が適切かは分からない。そして、私よりも重度の友人がいた。書籍で語られていた内容は、彼女から聞いていた話を思い出せたし、とても似ているものだった。

ここにも苦しんでいる人がいた。
だけど
彼女は抜け出せた。
自分を養うお金を自分で手にいてる事ができるようになったんだ。

書籍の感想を一言で表すなら「嬉しい」がしっくりくる。

でも。
この作品を読まなければと良かったと思う自分もいる。

読了直後にモヤモヤを感じた。
そして何故モヤモヤするかに気付いた時に悲しくなった。
これは「うつ病」の人のお話なんだと。

このストーリーの最後はゴールだった。
当たり前だ。
うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。のお話だから。
有体に言えばハッピーエンドだ。そんな容易いものじゃないけれど。

ゴール。とは言っても、うつ病はすぐに治らない。幼少期の辛い経験があったならなおの事。この先も壁にぶつかるかもしれないし、また絶望感に飲み込まれることもあるかもしれない。働けなくなるかもしれない。
でも。
ゴールで終わるストーリーには違いないと思う。

私にはゴールで終わるストーリーは書けない。
だってストーリーは繰り返すのだから。

双極性障害ってそういうことなんだよな。
改めて突き付けられた気がした。
目の前に透明な壁が降りてきたような気がした。

私にもゴールに辿り着けたと思った時があった。
手放した「ふつう」を取り戻すことができた喜び。
自分を誇らしく思う気持ち。
その感情を知っている。

這い上がっては沈んでを繰り返しながら、深い穴から抜け出すことができて、再び「ふつう」になれた時。安堵すると共に感謝の気持ちに包まれた。それ以上に喜びがあった。またココに戻れたと。

でも。
私には「また」がやってくる。
ゴールしたはずなのに、いつの間にか「また」うつ期が再スタートする。

終わりが無い。私はゴールを純粋に喜べない。ゴールは終わりじゃなくて、次のストーリが始まるまでの猶予期間が始まっただけ。そして次のストーリーではゴールにたどりつけないかもしれない。

急に足元の地面が無くなったかのようにストーンと落ちる。
深い沼の底にいるかのように、身動きが出来なくなる。
思考は遅くなり、ものごとを整理することが出来なくなる。
そのくせ自己否定の言葉で脳みそはフル稼働してしまう。
働けなくなり、お金が無くなれば病院にも行けなくなる。
「また」だ。

取り戻すことができた「ふつう」が、また手元から無くなる。
「ふつう」だった事は嘘なんじゃないか。
あの世界が非日常で、この沼の世界が日常なんじゃないか。
この沼にいる私が本物で、仕事をし家事をこなし趣味を楽しむ私は偽物じゃないのか。

もう「また」は来ないかもしれない。
来ないようにする努力はしている。
でも「また」がやってくる事を私は知っている。

最後に感謝を。

小林エリコ様。
精神障害者や生活困窮者に携わる方に、「助けを求めることができる事を知らない人」がいる事実を改めて認識して頂ける素晴らしい作品だと思いました。この作品を世に出してくださってありがとうございます。