親が毒親だと感じるので「毒親度診断チェック」をやってみた。

私と母は地元では「仲の良い親子」という評価を受けます。同じ会合に顔を出すことがたびたびあることと、同じ団体に所属しているからかもしれません。

確かに最近はさほど仲が悪くはありません。発達障害の診断を受けた12年前から、徐々に関係が改善し、最近は人生の中で一番マシになっています。

ですが私は2、3ヶ月に一度は「こんな家、早く出たい」と思っていますし、母のことは毒親だと思っています。

「現在」の母は世間一般の毒親と比べたらよっぽどいい親だと思いますが、それでも私は母をしんどく感じます。それには今までの人生で見てきた「過去」の母の影響が大きいのだと思います。

そんなわけで「おとなの親子関係相談所」の「毒親度診断チェック」をやってみました。

「現在」の母を思い浮かべての結果

我が家の、特に私と母の家族関係は、私が発達障害者であると判明した12年前から劇的に変化しました。その「12年前から現在」の母を思い浮かべてチェックしてみました。

結果は「要注意域」。チェックは2つだけで、あまり当てはまるものはないなと思いながらチェックをつけていました。

「現在」の母だけを見ると、そんなに問題な親ではないのでしょう。確かにトラブルも少ないです。皆無ではありませんが、トラブル皆無な家なんて無いでしょう。

「過去」の母を思い浮かべての結果

次に、私が発達障害の診断を受ける前、つまり「12年より前〜約36年前」の母を思い浮かべながらチェックしてみました。この頃の我が家は地獄でした。両親が別居していたこともあります。結果は、

超重度域。これは逆にびっくりしました。最悪の状況を思い浮かべてもチェックがつかないものがあるなあ……と思っていたのですが、8個以上ついていたようです。

12年以上前〜約36年前の母ということで、私の記憶が誇張されている部分はあるのかもしれません。ですが私が今でも怒りに駆られるのはこの頃の母です。

「過去」の母にされた、今でも許せないこと

「過去」の母にされたことで今でも許す気が浮かばないことは多数あります。

中学生の頃には私は不登校児でした。あまりにも生きていくのがつらいので、母に「精神科にかかりたい」と言いました。そうしたら母は「娘が精神科にかかってると近所に知られたら何と言われるかわからないから」と拒否しました。ものすごくショックでした。母は私の苦しみより世間体のほうが大事だったのです。私は精神科を受診できず悩みながら大学生になりました。

高校・大学の頃には母との関係は最悪でした。私が自室で学校の勉強をしたり、ネットを介して友人と遊んだりしていると、母が突然部屋に乱入してきて居座って喚き散らすことが多々ありました。「あんたはお母さんのこと憎んでるんでしょう! 死んでほしいと思ってるんでしょう! お母さんも母親が嫌いだったからこれは報いなんだわ!」私が発達障害ゆえに“人情が無いように見える”ことを、母は“私が母を憎んでいるから冷たく接している”と思っていたのです。こんなことを言いながら私の時間を妨害する人を好意的に見られるわけがなく、実際に母のことは嫌いでした。死んでほしいと思い、呪いをかけたことも何度かありました。

今でも困っているのは、大学時代に奨学金を上限まで借りろと言われて2種類借りたことです。「4年分の授業料も確保できたしもう借りたくない」と言って片方は上限の半分までで借りるのをやめましたが、後々大学院に進学することになったので結局また借りました。大学院進学が決まった頃までは私は発達障害と判明しておらず、大学院をすんなり修了して会社勤めして返済していけるものだと思い込んでいました。大学4年生の卒業間際(12月頃)から精神を著しく病んで精神科にかかり始め、大学院ではうつ病と発達障害が学業に悪影響を及ぼして落第し、退学。会社勤めも続かず、奨学金は未だに返済の目処が立ちません。うつ病がひどかった頃には何度も「死ねば免除してもらえるから」と自殺を考えました。(今は死ぬ気はありません。)

大学生のころにはどうしてもアルバイトしてみたい会社があったのですが、そこも母の強い反対で「私にアルバイトと学業が両立できるわけがない」「私にアルバイト先と学校の両方に時間通りに通えるわけがない」と思うことになって、面接にすら行くことができませんでした。今でも折に触れて「あの会社で働いてみたかったな」と何度も思います。できなかった後悔は重いとはよく言ったものです。アルバイトしてみたかったな。

これは例外的に、12年前より最近の発達障害の診断がついたあとの話です。趣味が合い、話も合い、何年も友人付き合いしていた相手と、母の指示で絶交させられたことがあります。もっとも、その人とは楽しい話をするぶんにはよかったのですが、トラブルが頻発していましたし、トラブルになると私の精神状態が異常に悪化していたので、結果的には離れて正解でした。しかしながら「親に友人付き合いにまで口出しされなければならないのか」と強い不満が生まれました。今でも納得できていません。

この他にも納得できない点は、母が父や私に対してかなり支配的だという点です。「現在」はずいぶんマシになっているので、一般家庭程度か、それよりもマシなくらいかもしれないと思います。ですが、「過去」の母は自分に納得がいかないことがあると私や父が言いなりになるまで愚痴を言い続ける人でした。そして「自分は正しい、あんたたちがおかしい」という理屈の人でした。私と母は何度も衝突しましたし、父が家から出ていって何ヶ月か別居していたこともあります。

最も納得がいかないこと

母は今、発達障害者やひきこもりの人の「家族」が集う会に頻繁に顔を出していますが、そこでは「理想の親」のように扱われています。私はそれが納得できません。

それらの会では私と母はいつも円満ということになっています。「素晴らしいお母さんで羨ましい」と言われることもあります。

「現在」だけを見れば概ねいい親だと思いますが、私と母の間には「まあまあ円満な12年間」の前に「荒れに荒れた24年間」があります。その年月が私に母を「いい親」と素直に思わせません。母は毒親だと思います。いえ、「毒親だった」でしょうか。

今でこそ私の言うことを否定することは減った母ですが、私の人生の2/3は母に否定され続けてできています。それも子供の頃から学生時代がずっとそうだったので、私は母の言うことを極端に否定的に解釈しがちです。「母」といえば「否定する」と無意識に刷り込まれており、その刷り込みが消えないのです。

私が人生の中で長い年月「死にたい」「消滅したい」と思ってきた原因の一つは母です。死にたいと思うのと同時に、「母に死んでほしい」「母を殺したい」とも思っていました。前の方にも書きましたが、人を呪い殺す方法を調べて母に呪いをかけたことも何度かあります。

親への割り切れない思い

発達障害の診断がついて、母との関係は劇的に改善しました。診断チェックの結果を見ても、現在の母は毒親ではないようです。

ですが私はたびたび母に強い怒りを抱きますし、2、3ヶ月に一回は怒りが爆発します。

別居するのが理想なのだろうと思っても、会社勤めが続かない発達障害者としてはそれも困難です。もし会社勤めができたとしても、給与を全額奨学金返済に注ぎ込まなくてはならないのではないかと思ってしまいます。

将来の夢としてお店を開きたいと思ってはいますが、その店に私が勤めることができないのは明白なので(発達障害のため)、収入源としてあてにすることができません。

親と離れて暮せばきっと楽にはなれるのです。その「離れて暮らす」が私にとって難易度が高すぎることと、私の将来の夢が地元で実現したいことなのが問題です……。

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