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【21世紀的フランス革命の省察1パス目】シェイエス改めシィエスの極左冒険主義?

今回の投稿の出発点はこの記事。

実際、この本で紹介されている山崎耕一「シィエスのフランス革命: 「過激中道派」の誕生」は大変興味深い書籍です。それこそ私自身のフランス革命史観をアップデートしなくちゃいけない必要性を感じたくらいに…

という感じで、おもむろに新シリーズ開幕です。

とっくに終わってたブルジョワ革命論

私の既存のフランス革命史観も「シィエスのフランス革命」同様「ブルジョワ革命論なんてもう通用しない」なる前提から出発する点は同じ。

フランス革命史はこれまで、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)と、平民(第三身分)もしくは平民上層部の「ブルジョワジー」との間の、政治的・社会的闘争として捉えられることが多かった。その背景には、経済史を歴史学の中心に据えて、中世から近代への移行とは、封建制もしくは領主制と呼ばれる生産様式から資本主義と呼ばれる生産様式への移行であると捉える見方がある。すなわち、生産様式のこの移行に伴って、政治と社会での支配階級も貴族・領主から資本家(=ブルジョワジー)へと移行するが、その転換期には、古い時代の支配層だった貴族と新しい時代の支配層たるべきブルジョワジーが、政治と社会における覇権をめぐって争うことになる。それがフランス革命だと見るのである。この見方においては、さらに、ブルジョワジーの中で「商業ブルジョワジー」と「産業ブルジョワジー」が区別される。そして、商業ブルジョワジーは旧支配層と妥協しながら、変化を微温的で最小限の改革に留めようとするのに対して、産業ブルジョワジーは古いものを徹底的に排除して新しい社会を築こうとする、とされるのである。前者の、上からの改革の路線を代弁するのが「ジロンド派」であり、後者の下からの改革の路線を代弁するのが「山岳派」であるとされる。両者は1793年~1794年の、いわゆる恐怖政治の時代に文字通り流血の戦いを繰り広げ、山岳派が勝利して徹底した近代化の路線がとられることになった。それ故にフランス革命は「典型的な市民革命」と評価される。以上の見解は「ブルジョワ革命論」と呼ばれる。

山﨑 耕一. シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生

そう、こうした考え方はもはや現役ではないのです。

フランス革命をこのように捉える見方は、理論的にすっきりしていてわかりやすい。また、フランス以外の国々を、「上からの改革で近代化した国」と「下からの改革で近代化した国」に類型化して相互比較するのに都合がよかったこともあって、日本においても第二次世界大戦後から1970年代まで、学界で説得力を持っていた。しかしフランス革命史の実証的な研究が進むと、産業ブルジョワジーという概念に対応する社会階層が実質的には見つけられないなど、必ずしも史実にそぐわない点が目立つようになり、ブルジョワ革命論を支持する歴史研究者は次第に少なくなっていった。だからといって、ブルジョワ革命論に代わってフランス革命の全体像をすっきりと説明できるような理論が提唱されたわけでもない。場合によっては「我が国のフランス革命研究は、端的に言えば焦点の定まらない拡散状況」とも批判される状態の中で、個別の分野に関する様々な実証研究が積み上げられているのが現状だと言えるだろう。

山﨑 耕一. シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生

これまで、イデオロギー的立場からこういう現状を絶対に認めようとしない似非リベラルの方々に散々手を焼いてきましたが、これからはもう、この文章で示すだけで良くなる訳です。それだけでもう大収穫という感じ?

そもそもブルジョワ革命論自体が「マルクスの元来の思想」からの逸脱だったのでは?

本書はフランス革命を、支配的身分もしくは支配的社会階層の変化・移行ではなく、アンシアン・レジーム期の絶対王政から、1791年の憲法における立憲君主政を経て共和政へと至る、政体もしくは国制の変化・移行として捉える。そうした視点に立った時に、1789年(見方によっては1787年)から1799年まで、約十年にわたったフランス革命の全体像が見えてくると思われるからである。(ブルジョワ革命論ではフランス革命のクライマックスは1793年~1794年の恐怖政治期とされ、それ以降は「革命がもたらした混乱を収拾し、決着をつける時期」として、実質的には無視されてしまう。)

山﨑 耕一. シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生

まず指摘しておかないといけないのは、ここでいう「1793年~1794年の恐怖政治期以降は実質的に無視してしまう」ブルジョワ革命論の欠陥が「マルクスの元来の思想そのもの」由来ではないという事実。

ドイツのイデオローグ達の告知するところによれば、ドイツは近年比類のない変革を成し遂げた。シュトラウスに始まるヘーゲル体系の腐敗過程は、世界発酵にまで進展しており、過去の権威はことごとくそれに引き摺り込まれてしまっている。全般的な混沌の中でいくつもの強国がいくつもの強国が形成されては、やがて没落する事になった。束の間の英雄達が会頭しては、より勇敢で力のある競争者達によって再び闇に放逐されてきた。それは一つの革命であった。これに比べればフランス革命は児戯である。それはディアドッコイたちの戦争さえ小さく見える様名世界戦争出会った。未曾有の慌ただしさで、諸々の原理が互いに押し除けあい、諸々の思想的英雄がひしめき合い、1842年-1845年の三年間の間に、ドイツではかつての三世紀を上回る掃討が行われた。

カール・マルクス「ドイツ・イデオロギー」序論の第二草案

まさかの時にディアドッコイ。問答無用でディアドッコイ。

この部分は①当時のドイツには、歴史的に曲がりなりにも中央集権的絶対王政体制を樹立したフランスに対して江戸幕藩体制の如き連合王国状態に留まる後進性への劣等感が鬱積しており、②その反動でギリシャ統一を果たしたアレキサンダー大王とプロイセンの英雄王フリードリッヒ大王を同一視しようとする伝統が存在し、③こうした流れを踏まえてプロイセンの歴史家ドロイゼンが「ヘレニズム時代」なる時代区分を提唱し、それが世界中に広まった、なる時代背景を踏まえないと読み解けないし、ましてや「フランス革命もディアドッコイ戦争も一緒くたに党争の類として見下す」独特のニュアンスを掴み損ねてしまうのですね。そう、背後で蠢いてるのはドイツ人のフランス人に対する根深いルサンチマン…

そして、この頃からもう顕著に現れ始めてる「コスモポリタンぶって後進国ドイツを馬鹿にするカール・マルクスの悪癖」…そういえば「コスモポリタン」概念自体もヘレニズム時代由来だったりして。師匠ハイネはフランス人として生き、フランス人として死んでいく道を選んだのに、どうして…

あくまで文面上は「(国際的視野から俯瞰すれば井の中の蛙に過ぎない)矮小なヘーゲル左派」の視野狭窄を揶揄する文章なのがいやらしい。なおかつ引用元の「ドイツ・イデオロギー(Die deutsche Ideologie,1845年~1846年)」には、そのヘーゲル左派からの脱却宣言というニュアンスが込められているので話がややこしくなってきます。

それではカール・マルクス自身はフランス革命についてどう考えていたのでしょうか? カール・マルクスの言及は時期によって異なり、私もその全てに精通してる訳ではありません。
青年マルクスの「革命」観

とはいえ国家学者ローレンツ・フォン・シュタイン「今日のフランスにおける社会主義と共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, 1842)」を通じてサン=シモンやフーリエやプルードンといったフランス社会主義思想家の考えに触れる以前は、紛れもなく「(国際的視野から俯瞰すれば井の中の蛙に過ぎない)矮小なヘーゲル左派」の一員だった訳で、しかも「フランス革命など(ヘレニズム時代のディアドッコイ戦争同様に)ただの党争に過ぎなかった」史観は「フランスへのマルクス思想の紹介者」ジョルジュ・ソレルの手によりフランスへと輸出され、さらには彼の「暴力論(Réflexions sur la violence,1908年初版)」を通じて「実際に最終的勝利を飾ったのは(虐殺の繰り返しに屈せず、信念の共有を貫いた)王党派だった」なるブルジョワ革命論とは真逆の歴史観に発展してしまうのでした。

まぁ19世紀後半から第一次世界大戦前夜にかけて生きた人間の目にそう映ったとしても致し方がないところがあります。フランス革命の継承を誇示していた急進共和派はあっけなく壊滅してしまいましたし、ソレルはどうやらパリ・コミューンが内ゲバで壊滅するところや、ドレフェス事件を巡る言論でフランスのインテリがグダグダに成り果てるのも目撃してきた人だったらしいので(日本語版「暴力論」解説より)。

経済人類学者カール・ポランニー曰く「保守派の思想的足跡の支離滅裂さを笑うな。彼らにとっては生き延びる為の現状への最適化こそが最優先課題。だからどんな無茶苦茶な方向転換だって恐れず遂行する。翻って我々革新派は理論的一貫性に拘泥し過ぎる。それで時代の遺物になりやすい…」。そしてまさにこうして「国家の集団脱皮」が加速した1848年改革以降の欧州では「国王と教会の権威主義に宣戦布告した」旧世代の既存活動家達の多くが脱皮の必要性を思い付く事すらなくただただ死に絶えていったのです。

上掲「とある本格派フェミニストの憂鬱4パス目」

何より動かぬエビデンスが「フランスを代表するワインはドメーヌ(畑)単位のブルゴーニュでなく、シャトー(城)単位のボルドーである」という動かぬ事実。そう…

①ブルゴーニュワインがドメーヌ(畑)単位なのはフランス革命からナポレオン戦争の時代の土地改革によって(当時兵隊の主要供給源だった「サン=キュロット(浮浪小作人)」を含む)小作人が零細自作農に成り上がった証。生産量も品質も不安定で大量生産・大量消費には向かない?

②ボルドーワインがシャトー(城)単位なのはフランス革命当時も頑強に抵抗して領主と領民の協業体制を守り抜き、隙あらばスペインやイタリアと通商し、王政復古時代以降はロビー活動に力を入れ、国策で後押しされる「フランス最高峰」の称号を勝ち取った証。

なのですね。そもそも「ジロンド派」の語源はボルドーのシロンド県で恐怖政治時代の大虐殺も経験しています。全ての特徴がブルジョワ革命史観における「商業ブルジョワジー」のそれと一致。それにも関わらず、恐怖政治時代に滅ぼされるどころか、その後も繁栄を続けているってどういう事?

これまぁ「シーエスのフランス革命」との邂逅以前から「ブルジョワ革命論なんて通用しない」論拠として用いてきた説明。「シーエスのフランス革命」の以下の文章に符合してきます。

(1793年夏から翌1794年夏までの一年間は)「革命政府の時代」もしくは「山岳派独裁の時代」と呼ばれる時期で、対外戦争と国内の反革命反乱に対処するために、ロベスピエールを中心とする公安委員会が独裁的な権力を握り、反対派を次々とギロチンで処刑した、恐怖政治の時代である。従来は、すでに述べたように、フランス革命がもっとも急進化した時代として注目され、この時代があったからこそフランス革命が「典型的な市民革命」になったのだと考えられてきた。しかし、共和国の樹立という観点から見ればこの時代は、内外の戦争に対処するために臨時の一時的措置を取らざるを得なかったが故の停滞期であったと言えるだろう。

山﨑 耕一. シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生

シーエスとエドマンド・バークとサン=シモンに通底する「メリトクラシー」イデオロギー

「シィエスのフランス革命」まだ読んでる途中なのですが、そこでシィエスが目指したとされるメリトクラシー(人々がどの様な身分ないし社会集団に属するかでなく、個人としてどの様な能力を持つかという事によって評価される社会や集団のあり方)なる概念、エドマンド・バーク「フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France,1790年)」や、サン=シモン「産業階級の教理問答(catechisme des Industriels,1823年〜1824年)」の内容とも通底してくる部分がある話?

私はたとえ民衆が抑圧に苦しんでいたとしても、貴族にさしたる罪はなかったと主張する。しかしフランス貴族のあり方に、いろいろな欠点や過ちがあったことは認めよう。彼らはまずいことに、イギリス貴族のもっとも悪い点を真似してしまった。その結果、もともと有していた長所が損なわれたうえ、真に学ぶべき点は見過ごされることになり、質の低下は避けがたくなった。

わが国と比べても、フランスの貴族には、いい年をして自堕落な振る舞いをする者が多かった。放蕩ぶりがすぎたせいで、彼らは自分の首を絞めるに至った。いっそう致命的だったのは、貴族に匹敵するか、貴族をもしのぐ財産の持ち主が平民に現れたにもかかわらず、それらの者を正当に遇しようとしなかったことである。このような富裕層の分裂こそ、革命で貴族が弾圧された主な原因と思われる。わけても軍の上層部は、名門貴族によってあまりに独占されてきた。けれどもこれは、たんに方針を間違えたのであり、異なる方針を導入すれば簡単に修正できる。議会を定期的に開き、平民に相応の発言権を与えるだけで、不当な特権はすみやかに廃止されたことだろう。

エドマンド・バーク「.フランス革命の省察」第七章貴族と聖職者を擁護する。

まぁエドマンド・バーク「フランス革命の省察」いきなり序文から「第三身分とは何か?」への論駁から始まるし、エドマンド・バークが自信を持ってこう豪語出来た背景にあった「新興産業階層に門戸が開かれてる一方、衰退すると容赦なく平民落ちしていく」苛烈な英国貴族制度が、これはこれで物凄い代物だったりする訳ですが。一方、サン=シモン確実にそこで指摘されたような問題点はことごとく克服して「馬上のサン=シモン」にバトンを渡した格好?

やはり極左冒険主義者なのでは、シェイエス改めシィエス?

とりあえず今回はここまで。そんな感じで以下続報…

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