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東条操の方言矯正論は予想を(良い意味で)裏切っていた

日本の方言研究は長い歴史があるので,時折古い文献にあたることがあります。そういう資料を読むと発見もあるのでけっこう好きなんですが,時折ギョッとするような記述に出会うことがあります。

そのひとつが「方言矯正」です。今の言語学・日本語学での方言調査は話者・方言の言語知識(体系)やそれを手掛かりにした言語史の解明などといったあたりを目的にしていますが,かつては目的のひとつに方言を矯正してあげ(「あげ」が大事だと思う),共通語を浸透させることがありましたちなみに目的に「主要な」という修飾語を付けるべきかはちょっと分かりません。いずれにせよ,矯正ためにはその地域の方言の実態,つまり共通語とどう異なるのかが分からないといけませんから。

方言関係の古い文献のひとつに東条操(著)『大日本方言地図』(育英書院,1927年)があります。これは日本各地の方言を音韻,文法的特徴から分類したもので,現在でもスタンダードな区画としてあり続けています。ウェブで見やすいのは大西拓一郎先生の解説でしょうか。

この解説部にあたる「国語の方言区画」は多くが区画設定基準の解説に費やされています,終盤(p.55以降)になると「方言矯正」の記述が登場します。

はじめは「やっぱり東条操もそういうことは書くのか。時代だもんね」ぐらいに思っていたのですが,終わりまで読むとだいぶ印象が違います。ちょっと長いですが原文の感じを損なわない程度に現代的な表記・表現に変えて引用しつつ紹介します。

序盤は当時の標準的な考え方なのかなと思います。ただ,「なかれ」主義,つまり「〜という表現は使っていけない」というやり方,ではなく感化,つまりマネさせる,といったあたりに教育的なところを感じました。

 終に方言矯正についてほんの一言そえておく。
 一般に,方言矯正は児童において有効で,成人には少々困難である。したがって,この作業は多く小学校の低学年において行われるべきものである。
 小学校はこのためにまず方言矯正の案を立てなければならない。
 第一にはその地方の方言について委員を設け分担で詳細な調査を行うことである。
 第二にはその方言研究の結果と標準語と比較して,対照表を作りその相違点を明らかにする。
 第三にはその中で矯正を要する事項を選定し,これを難易と軽重とに応じて各学年(三四年までくらいに終わる程度で)に配当し各学年の矯正教材を定める。
 第四には学年の教師は自己の分担の矯正案に対して責任を持って児童を指導する。その態度は「なかれ」主義ではなく,教師の模範的言語の感化によって積極的に美しい標準語が自然に学校内に行われるようにしなければならない。児童にも教室内では原則として標準語を使わせることと定める。
 教師は常に児童の模範であるから,言語も標準語を正確に使用する義務がある。

東条操「「国語の方言区画」pp.55-56

続けて,具体的な方法に入ります。

 そのために教師には種々な用意が入る,音声学や文法書を研究することも必要だろう,ただ忘れるべからざることは標準語を真に体得するためには実地の練習—正しき標準語を多く耳にしてこれを多く口に模範すること—の他に方法のないことである。理論を学んだだけで満足してはいけない。実際の発音を習うためには「語学レコード」の利用が便利であろうし,語法に慣れるためには国定読本を研究しながら適当な文学書などを多く読むのもよかろう。(語学レコードは佐久間氏のものと神保氏のものとの二種が売り出されている。)

同書pp.56-57

佐久間鼎(さくまかなえ),神保格(じんぼうかく)は言語学・音声学でかなり大きな仕事をした人(佐久間鼎は心理学者としても有名)です。「語学レコード」は知らなかったのですが,レコードで共通語の発音を収録したものなどが出ていたようです。原文までたどり付けていないのですが,佐久間鼎の仕事については下の記事に記述があります。

神保格は音読法の書籍もあります。

ちなみに東条操の本の後ですが,レコードが出ていて下から聞けます。

続いて「なかれ」主義の話です。

 児童に対して「そんな音はいけない」「そんな言葉はいけない」といちいち厳重に咎める前に,教師自身の発する標準音,標準語の中に児童を,まず浸らせなければならない。児童には音声学も文法も入らない,ただ積極的に教師の模倣をさせればそれでよい。
 強制的な口形練習もずいぶん考えものである。
 正しい言葉を耳に聞かせ,これを口で模倣させる——なんでもないようだがこれが方言矯正の王道である。ただ持続的に,計画的に熱心に練習が続けられなければならない。徐々に,少しずつ,しかし,正確に児童は標準語を練習しなければならない。

同書pp.57-58(太字は原文のもの)

「強制的な口形練習もずいぶん考えもの」と書いているあたり,当時の状況が想像できます。

最後の家庭での方言使用の話題が私にとって驚きでした。

 この方言矯正の最後の目標を方言絶滅におく人がある。
 しかし,著者は各人が公的言語として標準語を使用する能力を得ることをもって,標準語教育の最後の理想と考える。
 家庭の私的言語までに立ち入って極端に方言を排斥しようとすることは,それは一場の美しき夢であり,また無用な仕事であろう。
 むしろ,今日の急務は,方言を理解し,標準語を正確に教育しえる良教師の養成ではあるまいか。

同書pp.58

家庭の言語使用まで入りこむのは良くないという考え方はどこまで取られていたのでしょうか。

こうして見ると,東条操の場合,方言矯正については比較的穏当という印象を受けます。ただ一方で「方言矯正の最後の目標を方言絶滅におく人がある」ということからも,今の目から見て過度に方言を使わせないという人がいたこともまた想像できます。

ただ,方言札のことを考えると,この考え方があまり浸透しなかったのかなとも思えます。

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