今が幸せだと思えない私へ。

4月にあるプロジェクトが燃え始めたあたりから、時間的な忙しさに引きずられて精神的に余裕がなくなっていった。リカバリーするはずだったGW、ずっと人が家にいたせいで全くリラックスできないどころかむしろストレスと疲れを溜めてしまい、それを引きずって5月はずっと鬱状態で過ごしてしまった。

6月、心機一転したいところ。でもせっかくなので、今の鬱を呼び起こしていることがなんなのか、紐解いてみたいと思う。

まず、4月20日に端を発した身内(であるはずの)コミュニティ内のトラブル。コミュニティへのニーズと認識の前提が異なる人びとから言われなき攻撃にあい、身を守るためにエネルギーを削られた。私が許せないのは、コミュニティの中で、ただ何か(それは、正義に見せやすい偏見だったり、偏見を広める誰かだったり、あるいは自分が信じたいコミュニティそのものの姿であったり)に無自覚にぶら下がっていないといられない人たちが、コミュニティを主語にして主張していること。自分の頭で考えたことを自分を主語にして言葉にすることのリスクを取らないずるい人たちなので、対論されて立場が危うくなるとすぐに被害者ヅラをし、相手を加害者にすることで自分を守る。私は加害者にされた。だから、ぶら下がることで生きている人への嫌悪や憎悪が止まらない。

GWにうちに陣取った迷惑女も、要するに、ぶら下がりだった。

私はぶら下がりが大嫌い。その嫌悪には、何が隠されているのだろう。

裏を返せば、自分を生きている人、つまり、自分の頭で考えたことを自分を主語にして言葉にすることのリスクを取る人たちと、生きていきたいということだ。

コミュニティが始まったばかりの小さかった頃は、そういう人しかいなかったように思う。だけど、大きくなって100人を超え、全員の顔と名前が一致しなくなり、メディアへの露出が増えて有名になるにつれて、そうではなくなってきた。

ぶら下がりが増えてきたのだ。もうできあがっている(ように見える)イメージがニーズに合うから、やってくる。違うと、勝手にがっかりする。そこには「問い」しかないのに、「答え」を求めてやってくる。

そういう人が嫌いだと心から思う。
人を嫌うのは、とても疲れる。


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