Endless Summer 第3章 恋の最初の一口

学連のヨット連中には、色々なやつがいた。

中でも綾乃がいた、今井浜に拠点がある大学の連中は、あまり真面目にレースでの結果を目指していない、ナンパ型が多かった。

女の子も多くて、男女仲良さそうにワイワイやっていた。

女の子とは呼べないような硬派筋力女子ばかりの僕の浜に比べて、女の子のレベルは悔しいけど高かった。

でも僕は、彼女探しや女漁りに海へ通ってたんじゃない。そんなことが目的なら、渋谷にでも行けばいい。

僕は、このスポーツで日本一になるつもりで、ヨットの世界に入ったのだ。

はっきり言って、レースで負けても女の子とヘラヘラして真面目に練習もしない今井浜のやつらを、僕は見下していた。

「あいつらなんかに負けるものか。負けるわけがない。」そう思っていた。

そして、僕の同期や先輩も僕と同じように思っていて、そのことは僕らの連帯の一部になっていた。


もし、綾乃が僕と同じチームでもっと早く出会っていたら。

並んで同じ夢を追いかけていたら。

沖縄での最後のインカレのとき、綾乃の隣にいたのは、あの妙に垢抜けた、綾乃と同じ大学の先輩ではなくて、僕らだったかもしれない。


海の方から、湿った風が吹いていた。世界は眠っていて、僕らと海と風だけが起きて、流れていく時間を見ていた。

芝生がそっと僕らの足音を隠し、白い砂浜が後に続いた。

左手のすぐ近くに、綾乃の右手があって、たまにほんの少しだけ触れた。手をつないでしまうのよりも、ずっとドキドキした。

みんなでいた部屋から、綾乃が僕を連れ出した。

心から、甘い蜜が滴り落ちた。

恋愛の、最初の一口。

「終わっちゃたね。インカレ。」

あいつが僕を見ていた。暗闇の中で、目がキラキラしていた。あいつはいつも大声で「てめー」とか「秋元よえー」とか可愛げのないことばかり言ってたくせに、その時だけ、とても丁寧に言葉を発した。

「ダメだった。おれ。」

「そうだね。信じられないよ。過去の栄光を他人の口で語れるのいやかもしれないけどさ、秋元はいつも表彰式で名前を呼ばれて、壇の上に上がって光を浴びてた。私はいつも、それを下の方から遠くに見てた。一回もちゃんと話してない時から、あんたの存在は私の中にすごくあってさ、何かすごい強い感情を持ってた。憧れと嫉妬と、有無を言わさずかっこいいと思っちゃう気持ちと。レース会場のあんたは、いつも、めちゃくちゃかっこよかったよ。すれ違ったり遠くから見つけたりした時も、すごく大きく見えた。だから、私の中ではさ、あー、秋元でもダメなときあるんだーって感じだよ。」

綾乃は決して、なぐさめなかった。

彼女が僕と親しくなる前に僕に対して持ち続けてきた感情を話すことで、僕をなぐさめようとしていたのではなかった。彼女自身のヨットに対する思い入れの強さを、必死で僕に伝えようとしていた。

「私はさ、そんな秋元の姿を見て、自分を比べて、チクショーって思ってた。海に行っても、あんたが練習してるの全然見かけなくて、なのに2年でインカレ入賞したりしてさ。私はそのとき、いっつも後ろの方を走ってて、そんな自分に嫌気がさしてたから、なんて不公平なんだろうって。秋元くんはセンスもあって、まわりも速い人ばっかで恵まれてていいなーって。

でも、そんなの言い訳にしたら負けだって思って、絶対諦めないぞーって燃えた。秋元は、ちょっとした敵だったんだよ。よく知りもしないのに敵な人って、自分にとって実はすごく意識せざるをえない何かを持ってるってことなんだよね。」

綾乃の声は少し震えていた。そして、力のこもった話しぶりだった。本物の心情吐露だったんだろう。そして話すうちに、当時の悔しさが蘇ってきたのかもしれない。

綾乃の言葉は、ひとつひとつ、僕の心を激しくかき乱した。

その熱が、今は思い出したくない、僕のかっこ悪い努力の数々をいやというほど思い出させたからだ。

練習、バイト、自宅から2時間もかかる海までの道のり。ピザ屋と居酒屋を掛け持ちしてヘトヘトになるまで働いて、稼いだ金は全部ヨットに消えた。道具代、レースの参加費、部費、遠征代。あんなバイトの不毛な時間は二度と思い出したくない。次の日が練習となれば、夜遊びもできない。

夏休みは週2日の練習の他に、2回の合宿、少なくても2つ、多ければ3、4つのレースがあるからほとんど海漬けだ。そんなんじゃ彼女もできないし、付き合いが悪くなって友達も減った。

いつも気が張っていることに疲れると、なんのプレッシャーもない日々を送る普通の大学生がうらやましく感じた。そいつらが、気ままにもてあそぶ余裕が、僕にはなかった。

合宿では、朝6時に起きて懸垂50回、腹筋背筋スクワット100回をこなし、朝メシの後は合宿所から海までの10キロをダッシュつきのランニング。会場で午前3時間、午後2時間半の練習、そしてまた合宿所まで5日間のランニング。これが10日間続いたこともある。

ちっとも楽しくなんかなかった。

耐えることをやめなかったのは、どんな犠牲を払っても手に入れたいものがあったからだ。

僕は、日本一になりたかった。

その思いを捨てることは、バカみたいにキツい合宿から逃げ出すよりずっと難しかった。

勝利に飢えていた。勝負事の持つ魅力に取り憑かれていた。

今井浜のやつらとは違う。僕は勝つために、たくさんのものを犠牲にしてきたんだ。

綾乃は、それをまるで、僕が運がよかっただけ、とでもいうような言い方をした。違う。「違う。」と、大声で綾乃に言い聞かせたかった。




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