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変化の時代に求められるパラダイムシフト〜旧時代の考え方から新時代の考え方へアップデートしよう〜

こんにちは。VUCAの時代と言われて久しく、時代の価値観や事象が目まぐるしく変わることを感じる人もいるのではないでしょうか?

今回は、直近のニュースなどからどういった時代に今後の世の中や社会がどういった方向性になるのか?というのが見えてきたところがあるのでまとめたいと思います。

旧時代から新時代へのパラダイムシフト

結論からいきますと、以下のように旧時代的なパラダイムが新時代のパラダイムにシフトしていくと考えたおります。

  • 階級型から、フラットへ。

  • 陰から、陽へ。

  • 固定的なものから、流動的なものへ。

1つ1つ説明していきます。

■階級型から、フラットへ。

社会や経済がフラット化しているというのは、すでにいろいろ人文科学系で言われているところです。

有名なところだと「フラット化する世界」という本が2000年代初頭に出てきました。(主旨は後半書く内容とかぶっております)

またオープンソースであったり、ブロックチェーンとかも同じような思想ですよね。中央集権的なものから各自が自律・分散的に動くことが良いという考えは今後ますます市民権を得ていくと思います。

さてここでは垂直的な階級から、フラットになっていく傾向としてどういうことがあるのかというのを事例も踏まえて見ていければと思います。

まず最初のキーワードは「個の時代」です。
会社や組織といった階級的なものから、フラットになるからこそ個人の権利が尊重される流れは皆さん感じているかと思います。

特にキャリア開発の分野でニュースになりますが、終身雇用で会社の辞令で住む場所を選ぶ権利がないというところから、会社は嫌なら辞めるであったり、自分で自分のキャリアを作っていく、主体性を持つのが個人に力学が置かれてきたというのは皆さん感じているところかと思います。

これも結局は、組織や階級的なものから解き放たれるので、そうなるとす塀的な横並びの中で個人がどうしたいのか?自律性を求められるしかないので、出てくる特徴かと思います。(逆に、受動的ではなく主体的に自分で考えて選択していかないといけない時代になったとも言えます。

次のキーワードは「多様性」です。
こちらも言わずもがなで、かなりニュースやトレンドにもなっているかと思います。

特にジェンダーや国籍などの分野で、フラット化していって個々人が自律して生きるということは、水平化した社会では多様化せざる得ないということになります。(階級的な統一化構造があると、同じ民族や国、人種などで文化も規定されて大多数にとって管理や理解しやすい「普通」という概念が生まれることである種の共通性が生まれますが、これが無くなることで多様化が生まれます。※完全に影響が無くなるわけではないと思いますが)

ビジネスの分野でもかつて高度経済成長期はニーズが一様だったが、ニーズも多様化・ニッチ化・個別化しているというのが、少し前のマーケティングのテーマになっていたかと思います。

あえてネガティブな話もすると、これまで企業やブランドによって一定品質を保たれていたところから多様化することで、有象無象化・ピンキリ化するとも言えると思います。

こちらが有象無象のどちらかはわかりませんが、まだ22歳の火星に住みたいということで研究している村木さんという方が政府の委員会に選ばれた際には「学位もないのに選ばれた」ということで、SNS上で少し炎上しておりました。これまでは一定の成果などで権威を保証されていることが重要で、それが階級的なものが担っていた背景があるかと思います。
これもこの変化の時代の傾向とも言えると思います。(村木さんがピンかキリか判断する情報は持ち合わせていないので、ここではそれを判断するものではありません。)

逆にそれによって、リテラシーであったり自分が何をしたいのか?何が得意なのか?というセルフアウェアネスが重要になるといえると思います。

2030年に必要とされるスキルの1位になったのは「戦略的学習力」です。これはまさに自分自身でどういったものを学習していくのか?のための自己理解、学習する際にも何が正しいか?をつかめるリテラシーが重要ということを示しているかと思います。

またすでにあまり話題にはなってませんが、ホラクラシー組織やティール組織というものも提唱されて話題になりました。
こちらも実運用には至ってませんが、会社や組織はなくなるのではなくフラットな性質を帯びて、コミュニティや想いが同じ人が集まるものになっていくと言えそうです。

■陰から、陽へ。

こちらは少しわかりづらいと思いますが、陰と陽というのは単純にネガティブ・ポジティブということではなく、次のように言われています。

陽の性質

  • 活動的

  • 形のないもの

  • 外向き・オープン

陰の性質

  • 受動的

  • 形のあるもの

  • 内向き・閉鎖的

そこで陰→陽へ、という話になるとまずはより受動的に生きるよりも自律的に自分から行動を起こせるか?によって格差が生まれると言えます。

実は世界では若者の失業率が高いということをご存知ですか?

日本が少ないのは、新卒一括採用という全員同じタイミングで受動的にレールに乗って採用するという社会の慣習があるためです。

新卒一括採用はまさに前の階級的な側面もあり、自分の意志ではなく全員が一律のルールで従うという意味で、陰の性質が強いと思ってますが、逆にそれのメリットとして、特に何もしなくても大きな差が生まれづらいというのがあると思います。
これから、Youtuberなどもそうですが個人のやりたいことをどんどん挑戦して「好きなことを仕事に」という活動的な陽の動きは増えそうですが、逆にそれは全員一律ではなくなるとも言えます。(Youtuberもそうですが勝ち組・負け組的な勝てる人・負ける人がどれだけ面白いコンテンツを作れるか?という軸で明確に分かれますよね)

海外ではすでにこの傾向が自由経済の度合いが強く起きやすいため、活動的に自由にできる一方、格差も生まれているということです。
しかしこの傾向を逆行することはほぼ難しいかと考えておりますし、ネガティブな側面から入りましたが、逆に言えば自分の自由でやりたいことを活動的にチャレンジしていける機会が来たとも言えるわけです。(就活という仕組みはその陰の側面から社会問題のようになった背景もありますよね。)

活動的ということは、その分格差が生まれます。昔のように全員一律で残業は悪い側面が強調されますが、逆に横並びで一緒なので大きな差も生まれず、年功序列や新卒一括採用といった陰の仕組みと相性がいいことがわかります。逆に、これから働き方改革やリモートワークで一律残業がなくなったときに、残業しなくなった時間でどのように動いたか?で差が生まれるということです。

次に、形のあるものから形のないものへ、ということでいくとこちらは三才思想からなのですが、天地人で天=原理・陽、地=物質・陰と捉えております。

なので、不動産や紙幣のような形のあるものから、どんどんデータや情報といった形のない原理的なものに重きが置かれていくかと思います。

例えば、すでに皆さん利用している電子決済もその傾向の1つかと思います。

またシェアリングエコノミーなども実際に形のあるモノは媒介しつつも、個人が所有をするというところから、全体でモノをシェアをするという意味で陽的なものだとわかるかと思います。

アメリカのGDP成長を牽引しているのはIT関連企業でまさに原理的で形のない情報・システムです。(日本はそういったIT企業を既得権益という陰的・階級的なものが潰したから経済成長をしていないという趣旨の記事です)

DXもその本質は概念や本質を抜き出し、脱構築することにあります。これはまさに原理や要件から整理をしていく試みで陽的な考え方と言えます。

さてここまではビジネス的な話でしたが、先程の自律の話も相まって、最も重要な情報は思想や哲学になるかと思います。
これからの時代ますます自身の哲学や思想といったものが重要と言えるのではないでしょうか?
次にあるようなパーパスという言葉が流行っているのもそういうわけかと思います。
これに限らず物質的なものから目に見えない精神的なものが重視される時代となりそうです。

最後に、内向き・閉鎖的なものから外向きでオープンなものに変わっていきそうです。

この代表ですぐ思い浮かぶのは以下のドラマです。海外の人からすると
「なぜ転職しないのか?」
という意見は出ましたが、それは陰の時代だったためです。
銀行内という閉鎖空間で内向きな組織内闘争は視聴者として見ている分には面白いですが、登場人物としては時代の変化も相まってとてもではないですが耐えられないかと思います。

さて、これに関しては昨今たくさんニュースが出ております。

まずはジャニーズ事務所での事件はまさに、閉鎖的な空間の中で一般的な常識(外向き)では許されないことが正当化されておりました。まさに階級的・陰的な性質です。
またこれに関しては、各種メディアも政治や付き合いというものを重視することで知っていながら声を上げていなかったことが問題視されています。
こちらも陰的な閉鎖空間の中で正当化された独自ルールになっていたということでしょう。(陰が須く悪いわけではないので、この結果は許されないものですが、こうした仕組みが合理的だった時代も多いかと思います。そうでないと、ジャニーズ事務所もここまで成功していないためです。)

またもはや知らない人はいないようなビッグモーターの事例も、社内の独特の階級・閉鎖空間で正当化されたことが明るみに出ております。陰から陽へいくということは、隠し事はできないというか常にオープンに情報は流通するということがあげられます。これはオープンソースの思想でも似たようなことが言えるかと思います。

これに対して、情報を外に出さないように誓約書を出すという陰的なやり方をしたみたいですが、時代の変化ではそういった旧時代のやり方をしても、それ自体が明るみに出てしまうということが当たり前です。それを理解しないことでそれすらもメディアが流通させてしまい逆効果となってしまいます。

一時期話題になった「忖度」という言葉も、階級的で陰的なものを表しているかと思います。情報をオープンに指示するわけではなく、政治的に意向や意図を解釈して動くというのは今後主流でなくなってくるでしょう。

どうでしょうか?陰から陽へ、という変化の本質が見えてきたかと思います。時代の変化のタイミングではおそらく古い時代のこういったものがどんどんあぶり出されてくると言えます。

■固定的なものから、流動的なものへ。

最後に固定的なものから、流動的なものへという話です。
1個目と2個目も一部被る部分感じているかと思いますが、こちらも重複があります。
どういったものが固定的か?というと、設計可能性やルール・安定といったものから、流動的な不確実性や変動的なものがメインになっていくと言えます。

まずはIT業界の方なら詳しいと思いますが、プロジェクトの進め方でウォータフォールからアジャイルというのがあります。
ウォータフォールとは最初に全ての計画を設計して全体像から細部まで固めて、それをもとに計画通りに作るということ。
アジャイルとは、計画と実行を繰り返しながら変化に適応して進めるプロセスのことです。(簡易化してます)

これまでは全て見通しを立てたい、というのが階級的でもありますし、形のあるものの時代は作り直しが容易でないので合理的だったというのがありますが、ITのようなものだとリリース後の修正もしやすいため、IT関連の一定レベル以上の会社ではアジャイルが主流となっております。
不確実性とどのように向き合うか?ということの重要性がわかる事例です。もはや設計を無理にしようとしても変化の中で難しいため、設計して詰めていくのではなく、プロセスの中で不確実性を許容して進めていくことが主流となっていくかと思います。

またこうした考えだと、要素還元主義的な分解していってそれぞれの性質を知れば見通しが立てやすいという考えもありつつ、そうではなく総合的に見ることで別の性質を獲得すると、複雑系科学の世界では言われております。
こちらについては込み入った話になるのでこちらの記事を興味ある方は御覧ください。

次にルールから原理へというのは、これまでの階級や陰的なものがあること前提のセーフティネットとしての大きな政府的な過剰なルールというものから、小さな政府的な自由に任せるというのは、自律・多様性の時代では広がりそうです。
これを妨げるのは、ビッグモーターやジャニーズと近い階級的・陰的な既得権益ですが時代の流れには逆らえないでしょう。

例えばライドシェアの議論は、まさに陰的なタクシー業界が影響していると言われてます。タクシー業界が政治に働きかけて規制を敷くことで、利用者のメリットになることではなく、自身の保身を図るということです。こちらはシェアリングエコノミー的な意味でも、政治的なやり方という意味でも、既得権益的な意味でも時代に淘汰されそうと考えております。

また、固定的で安定してるものから、流動的に変化を常とする部分がこの背景にあります。
例えば政府が人材の流動化を示すようなことを方針として示してるのも一個特徴的です。

「過剰で一方的な自由」という似て非なる方向性(偽りのパラダイムシフト)

さてここまででかなり概要を把握できてきたかと思いますが、勘のいい人の中には違和感を覚えている人もいるかもしれません。
逆にこうした「自由」みたいなものは逆行したバックラッシュが起きていないか?という点です。
こちらについては以下のような事例別に見ていきましょう。

■(イデオロギー的な)「多様性」の統一は、(本来の意味の)<多様性>ではない。

こちらは僕も認識しており、そして同様の違和感をずっと感じておりました。例えばジェンダーレストイレです。(私自身、LGBT当事者ということもあります)

ジェンダーレスというのは、先程のフラットのところで多様性や個の時代になると当然流れとしては受け入れられるはずですが、この事例では逆にこうした一部のマイノリティの自由を過剰に尊重することで、女性の人権の尊重との自由の対立問題が起きている形です。

こうした考えの背景にあるのは実は「多様性の統一」という言葉に現れている考えではないでしょうか?
実はこのイデオロギーとしての「多様性」は本来キーワードとして使っていた<多様性>と全く似て非なるものです。

なぜなら、多様性を尊重しようという考え自体は時代の流れに沿っているものの、その考え方で統一させようとして、それに反するものを法律に違反しているわけでないのに罰する私刑のような形は、実は階級的で陰的なやり方というのをお気づきでしょうか?(新しい時代の考え方だが、それを無理矢理当てはめて、ルール化・階級化しようとすることが実は古いOSのまま、パッケージだけが新しくしているようなもの)
<多様性>というのは、本来本当に様々な考えがあって良いことで、それによって他人の自由を害しない限りは何をしても良いのに、「多様性」の名のもと違う意見の人を攻撃するのは、新しい時代の皮を被った古い時代の考えなのです。(もちろん攻撃や批判をすることが悪いのではなく、それも1個の意見ややり方としてということであれば問題はないかと思います。)

■自由の暴走であるキャンセルカルチャーやハラスメント・HSP

キャンセルカルチャーというのもまさにこの一例で、私刑化したり誤解があって立ち直れないほど過激に進めるのは、もはや多様性を破壊しようとしている行為にしか見えません。

また昨今のハラスメントやHSPなどといったことにも、行き過ぎた自由で他方の自由を侵害するという意味で近しいかと思います。被害者や弱者になることでルサンチマンで強者になろうとする神経症患者のための病的な動きに見えます。まさにこれはニーチェが指摘したキリスト教が広まった背景にあるようなもので、ポリティカル・コレクトネスが現代のキリスト教的な役割を果たしているというnoteがありますので、気になる方は御覧ください。

実はこうしたことへのバックラッシュは本場の欧米ですでに起こっており、下記のような書籍で批判が起きております。

特に下記の本では、こうした傷つきやすい・自分の気持ちの安全が第一の若者の、自分を守るためだけに不快なものを一方的に排除していく過剰な自由の主張によって、学問の自由や表現の自由という別の自由が侵害されているという旨が書かれております。こちらが上記の事象を全て説明できるため要約して説明したいと思います。

こうした背景にある、若者たちが信じるエセ真理として次の3つがあげられてます。

  • 脆弱性(困難は人を弱くする):
    困難をとにかく避けるような教育によって、ストレス耐性が過剰に低い。本来の精神医学の「トラウマ」の定義が拡張し、自分が少しでも傷つけばトラウマ、自分が傷つくこと=全て悪と捉え、「多様性」や「ポリティカル・コレクトネス」という大義名分のもと、排除しようとする被害者意識。(本書では安全ismと言われている)

  • 感情的決めつけ(常に自分の感情が正しい):
    自分の感情は全て正しい。自分の感情に従った現実解釈は正義であるとする考え方。よって、自分の感情を害するような人は全て敵だとする考え方。

  • 敵か味方か(人生は善人と悪人の戦い):
    すべての人は善人か悪人かに分かれるので、悪人は善人である自分たちが糾弾・キャンセルしないといけないし、そうすることは正義であるとする考え方。

こうした若者ほど、先程の自由の考えでフラットで陽的なものを好みつつ、実態は旧時代の考えなので、その現実にも不満を持ってしまう構造があります。オープンでフラットにコミュニケーションして成立する組織は、精神的な自律が必要で、それができないのにフルリモート・心理的安全性など権利ばかり主張しても上手くいくわけないのです。
最近こうした自由へのバックラッシュを感じる意見がバズってたのでシェアします。

■権力vs反権力は、実は階級的なパラダイム

現代においては加害者・被害者というものが一律に定義しづらくなっているかと思います。そもそも権力vs反権力もそうですが、それ自体が階級的なパラダイムを前提としております。つまり絶対的な権威者・加害者がいて、それに反抗することはどんな場合でも正義であるということは、階級があったから成り立つことで、反権力・反体制的なものは反階級的なものに見えて、実は階級的なパラダイムを前提にしております。フラット化した世界ではそもそもその前提が崩れるので、誰もが加害者であり被害者である構造があるのです。

こうしたことがわかるのは、時代の変化で日本の政党において階級的で陰的な自民党よりもまず支持率を落としているのが立憲民主党であるということが1つ象徴的な事例かと思います。

一方的に強者を規定して、ただ当事者意識なく批判をするだけだったり、言ってることとやってることに一貫性がなかったり・乖離がある(ブーメラン)のプロレスに存在意義はなく、逆に階級側よりもそちら側が先に淘汰をされるというのは似て非なる方向性として重要かと思います。

何より日本の「左翼・リベラル」と言われてる政党は、先程のライドシェアやマイナンバーについて否定的で、自民党といった保守政党のほうがそれを推進する始末です。
時代の必然として、そもそもリベラルとして機能していない既得権益層ばかり向いていることが一番の凋落の原因かもしれません。

■変化の時代の最初のテーマは似て非なるものの淘汰

新時代というのは、なにか全ての束縛が無くなり自由になる時代というより、自律していく自立した人間同士で繋がっていろいろ生み出していく時代になっていくと思います。
なので、自分への強要されるということが無くなりつつも、ただそれでカオスな自由になるのではなく、その上で上述したようなセルフアウェアネスやパーパスを主軸に自分が何をやりたいことやできることを見出す必要性があるわけです。

そうした時に、強要というのが無くなるはずなのに、新時代の皮を被って最後に強要をしようとしているのが、上記のような事例で似て非なる過剰な自由を求める、変化の方向性を曲解した動きです。しかし時代の変化で強要はなくなり、個々人の自律を求めていく社会になるかと思います。そのためこの最後の強要は10~20年程度で淘汰されるのではないかと思っております。
それを通して、まずは新時代に向けた自律するということが最初のテーマとなり、自律を目指すことがこの先20年のテーマとのりそうです。そこから本来的な意味のフラット・陽的・流動的な世界に本格的に移る準備が整っていくのではないかと。

こうした移行期間としては、ヤバい人からは距離を置くしかないというのと、この「過剰で一方的な自由」の方向性をいち早く警報をならして、「世界はなぜ地獄になるのか?」という書籍をまとめた橘玲さんという方が言っております。(上記の似て非なる方向性を更に知りたい方は読んでみてください)

そしてこの淘汰した先の世界観は、すでに答えが示されております。
多様な時代ではどうしても考え方が相容れない方が存在してしまうものです。そうした方はゆるやかに距離をとり、クラスター化して、セーフよりのアウトくらいは飲み込んで生きる、ある意味不愉快な社会になりますが、それに応じた寛容性を持つところまでが、新時代のお作法ということです。

こちらについては素晴らしいnoteがあるので是非読んでいただきたいです。

変わらない「客観性」と今後課題になること

さてここまで時代の変化で変わることをあげてきましたが、実は変わらないものはあります。本質的なものはどの時代も一貫してますが、そういう意味ではなく今回の変化では「客観性」という特徴は普遍であると考えております。

先程の私刑もそうですが、誰もが理解できる論理や情報というのは、これまでの物質や現実も現物があるが故にみんなが納得できる客観性があったと言えます。
様々な考えの人が生まれるからこそ、共通の地盤としての論理やファクトが重要になり、できるだけ両者の自由を最大化できるような落とし所を模索していくような形になるかと思います。

これをまさに体現したのが、Xのコミュニティノートかと思います。個々人が自由な意見や考え方を持つのは自由ですが、それではただのカオスです。それぞれの自由を客観性をもって調和するために、イデオロギーで現実と異なることを見るのではなく、飽くまでファクトと論理で社会に筋を通すという原理的な仕組みは残るでしょう。

前の時代の客観性はこれを大きな政府や中央集権による過剰な管理やルールによってやっておりましたが、そうではなくLinuxやオープンソース的なやり方で行こうという考え方です。伽藍ではなくバザール的な考え方で運用を進めていくのが今後の時代の考え方と言えそうです。(どちらも客観性に根ざした考えであることは重要です)

(以下、上述した橘玲先生の本での解釈から引用)

それを 「伽藍とバザール」 で説明しよう。

伽藍というのは、お寺のお堂とか教会の聖堂のように、壁に囲まれた閉鎖的な場所だ。それに対してバザールは、誰でも自由に商品を売り買いできる開放的な空間をいう。そして、伽藍かバザールかによって同じひとでも行動の仕方が変わる。

バザールの特徴は、参入も退出も自由なことだ。商売に失敗して、「なんだ、あいつ口ばっかでぜんぜんダメじゃないか」 といわれたら、さっさと店を畳んで別の場所で出直せばいい。

その代わり、バザールでは誰でも商売を始められるわけだから (参入障壁がない) 、ライバルはものすごく多い。ふつうに商品を売っているだけでは、どんどんじり貧になるばかりだ。

バザールでは、悪評はいつでもリセットできるのだから。

これを言い換えると、バザールの必勝戦略は 「よい評判 ( 「あの店、美味しいよね」 「そこがいちばん安いよ」 ) をたくさんあつめること」 になる。だからこれを 「ポジティブゲーム」 と呼ぼう。

それに対して伽藍の特徴は、参入が制限されていて、よほどのことがないと退出できないことだ。このような閉鎖空間だと、ちょっとした悪口 ( 「あそこの店主、態度悪いよね」 ) が消えないままずっとつづくことになる。

その代わり、新しいライバルが現われることはないのだから、競争率はものすごく低い。どこにでもある商品をふつうに売っているだけで、とりあえずお客さんが来て商売が成り立つ。

これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略が最適だろうか。それは、「失敗するようなリスクはとらず、目立つことはいっさいしない」 だ。なぜなら、いちどついた悪い評判は二度と消えないのだから。

このように、伽藍の必勝戦略は 「悪い評判 (失敗) 」 をできるだけなくすことになる。こちらは 「ネガティブゲーム」 だ。

こうした変化の中で、まずは強要されることで誰でもできることをやる、という依存体質から卒業し、自分だからこそできる・自分が心からやりたいことをやっていく時代で、こちらのnoteを読んだ皆さんは自分の本来性・天才性を見出して活躍していただければと思います。

※あくまで最後注釈として伝えますが、今は時代の変わり目で、陰的なものや階級的なものなどが悪しきものと捉えてしまうかと思いますが、実はこれらがある時代の課題を解決したから今残ってるとも言えるかと思います。
そういう意味で、フラットや陽的なものにも課題が訪れそうだな~と思ってますが、それはまた別の機会にまとめたいと思います。

かなりの長文となってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました!是非いろいろご感想やお考えなどいただければ嬉しいです。

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