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新時代は飄々と生きろ。

こんにちは。最近は時代の変化について考えることが多いです。
前回のnoteではそうした時代の変化、旧時代→新時代のパラダイムの変化をまとめました。

前回はどのようなパラダイムシフトがあるか?に終止していたので、今回は新時代ではどのように生きると良いか?という視点で書いてみたいと思います。

「飄々とした」とはなにか?

いきなり結論ですが、タイトルにもあるように新時代においては飄々と生きることが合理的であると考えております。飄々としているの意味は次のような意味を持ちます。

「飄々」の意味は「 風に吹かれてひるがえるさま」や「ぶらぶらとあてどもなくさまようさま」です。

そんな飄々としている人というのはどういう特徴があるかと言いますと、大きく次の5つになるかと思います。

  • 執着・固執しない

  • 自分軸を持っている

  • 取り繕わない・表面的に着飾らない

  • 余裕がある

  • 捉えどころがない

それぞれ解説していきます。

■執着・固執しない

まずは1つ目の要件は執着や固執がないということです。
例えば、世間の常識や過去の成功体験、自分の中の屈折したこだわりみたいなものに執着や固執をするわけではなく、他者や特定のものに依存をすることをしません。

しかしこれは何にもこだわりがないということではなく、ポートフォリオ化したように複数の「極」を持つということに近いです。
自立とは複数の依存先を持ち、依存先を増やすことと提唱している大学教授の方がいらっしゃいますがそのイメージです。

人間は関係性の生き物なので、全く何にも依存しないということはできません。飄々としているというのはそういうことではなく、複数の依存先があるのでなにか1つのことに過剰に執着や固執をしないということです。

■自分軸を持っている

しかし、ただ複数の依存先があるということを保つことができるのは、自分の軸を明確に持ち、自律ができるからです。

自分の意志のないまま依存先を増やすことは難しいですし、増やしてもただの付和雷同・迎合になってしまいます。
そのためには自分のことを理解するセルフアウェアネスが重要です。

自分は何がしたいか?何が得意か?何をすべきか?という問いへの自分なりの意見を持っている状態があることで、自分というものの輪郭が見えてきます。

■取り繕わない・表面的に着飾らない

取り繕うというのは、本来の自分とは違うなにかで自分を覆うようなイメージがあります。これはやはり自分軸を明確に持つこととも近いです。

なぜ人は取り繕ったり着飾る必要があるのでしょうか?それは何かしらのしがらみがあるからだと思います。他者に振り回されたりして自分が見えなくなるので、自分に嘘をつくような感覚で背伸びをするのだと思います。
飄々としているということは、マイペースやありのままで生きるということです。

■余裕がある

飄々としているということは余裕があることです。結果として自然体でメンタルが安定しているともいえます。これは執着や自分軸でも話しましたが、自分をしっかり持っていることで相手への寛容さが初めて生まれます

これができるのはこれまでの話とも被りますが、
「自分は自分、他人は他人。」という考え方ができるからです。
少し冷たく見える人もいるかもしれませんが、相手の問題と自分の問題を切り分けます。

アドラー心理学で言われている課題の分離にも近いです。

「課題の分離」とは、「他人の課題に介入しないこと」、そして「自分の課題に他人を介入させないこと」と考える思考法です。これは、「人間関係のトラブルは、“自分の課題”と“他人の課題”がごちゃまぜになっている状態から引き起こされる」とするアドラー心理学に基づいた考え方です。

【事例で解説】「課題の分離」で組織課題を解決する! 〜アドラー「課題の分離」の重要性とリーダーに求められる具体的なアプローチとは?〜

他者はコントロールできないので、自分たちにできることは飽くまで「自分の信じる最善の道を選ぶこと」。それに対して周りがどんな評価を下すのか?というのは相手の問題です。

ニーチェの思想にも近いですが、こうした考えを身体化できている人が飄々としている人と言えるでしょう。

■捉えどころがない

捉えどころがないというのは、相手が何を考えているか分かりづらい=相手や世間一般の持つ考え方に縛られてなかったり、単調にひとつのことに執着しないことでできているということです。

こちらも多数の「極」を持つというところでもわかりますが、全体をポートフォリオのように捉えて、バランスやコントロールをすることができます

なぜ飄々としていることが最適なのか?

さてここまでで飄々と生きるとはどういうことか?をお伝えしてきましたが、なぜそれが新時代で必要なのか?ということが前回のnoteを読んだ方はなんとなく把握されている気もしますが、明瞭でないので説明していければと思います。
まずは旧時代で合理的だった生き方から解説して定義を明確にしていきます。

■旧時代のパラダイムに最適な生き方

旧時代では飄々としている人は逆に生きづらかったと思います。そこで旧時代ではどういう生き方が良かった?というところから見ていきます。

前回のnoteで書いた旧時代の特徴は下記3つでした。

  • 階級的

  • 陰的

  • 固定的

まずは中央集権的にある階級や、社会全体も単一的に良いもの・悪いものが規定されやすい時代だったので、そうしたものから外れることはただの変わり者という感じでした。

1億総中流という言葉が日本ではありましたが、ワークスタイルも大学を出て、就職(就社)して、引退して老後を過ごすというような単一的な生き方がすでに共通認識として共有されてましたし、社会自体もそうしたものを前提にできあがっておりました。

逆に元々全然価値観の違う人でも、会社の価値観やスタイルに染められて、大体同じくらいの金銭感覚で同じようなことをして楽しめていたというのは、ある意味幸せだったと思います。

SNSで話題になっていたことで、スケジュール・金銭感覚・価値観が合う人はほとんどいないというのも話題になってましたが、こういったこともほぼ起きていなかったと思います。

2017/3/9放送アメトーークより

ここからわかるのは階級や一定の基準がある社会というのはある意味自己責任というものが希釈化するので、不自由ではあるもののそれに合わせられれば幸せなので、合理的な生き方というのは「長いものには巻かれろ」的な大きな階級やそれに合わせて生きることです。

そうすることで、大体みんなが良いと言って保証されているものを購入・体験することで一定品質や水準も保たれますし、似たような人が集まるのでスケジュールや予算、価値観がミスマッチであることも少なく、合わせていくことがとても幸せな生き方です。

※逆にそうした階級的な支配層へ極左愛国的に敵対するのも、ある意味の存在意義も見出だせる執着のあり方なので、一見新時代風に見える旧時代的な楽しい生き方です。反骨精神というのは反骨する対象があって成立しますが、いずれにせよその対象に執着していることに変わりはないからです。

次に陰的な生き方として、受動的・形のあるもの・内向き閉鎖的なことが推奨されていたのも伺えます。
まず受動的に生きるというのは上述したような大きなものや階級に合わせて生きられるので、普通にみんなと同じように無個性に生きることが幸せになります。そうした陰的な時代の終わりで違和感を感じた作品もありましたね。

次に形のあるものでいくと、他者にわかりやすくステータスをアピールするために、一般的に良いとされているような車や不動産、時計やファッションなどはどうしても形のあるわかりやすいものになります。
そうなるとこうした分かりやすい基準に迎合して、アピールできる人のほうが幸せな生き方です。

また内向き・閉鎖的な話でいくと、1つの階級というものが決まっているのでどうしても他の選択肢が多数あるわけではないときは、内向き・閉鎖的にある組織などの中で正解とされることして生きることが合理的です。ジャニーズやビッグモーターの事件はこうしたところに端を発して起きましたが、当時はそれに従えば報酬や対価が保証されていて、合理的だったことは否めません。

なので、その中で政治的な動きをしたり、大体が減点評価になるのでミスをしないように保守的に生きることが幸せに生きる秘訣です。
前回のnoteでも書いた伽藍とバザールでいうバザール的な生き方に変わると伝えましたが、伽藍的に生きることが良かったということですね。
ある一定の中での嫉妬や蹴落としなども、そこが世界のすべての人にとってはとても合理的なことになります。

それを 「伽藍とバザール」 で説明しよう。

伽藍というのは、お寺のお堂とか教会の聖堂のように、壁に囲まれた閉鎖的な場所だ。それに対してバザールは、誰でも自由に商品を売り買いできる開放的な空間をいう。そして、伽藍かバザールかによって同じひとでも行動の仕方が変わる。

バザールの特徴は、参入も退出も自由なことだ。商売に失敗して、「なんだ、あいつ口ばっかでぜんぜんダメじゃないか」 といわれたら、さっさと店を畳んで別の場所で出直せばいい。

その代わり、バザールでは誰でも商売を始められるわけだから (参入障壁がない) 、ライバルはものすごく多い。ふつうに商品を売っているだけでは、どんどんじり貧になるばかりだ。

バザールでは、悪評はいつでもリセットできるのだから。

これを言い換えると、バザールの必勝戦略は 「よい評判 ( 「あの店、美味しいよね」 「そこがいちばん安いよ」 ) をたくさんあつめること」 になる。だからこれを 「ポジティブゲーム」 と呼ぼう。

それに対して伽藍の特徴は、参入が制限されていて、よほどのことがないと退出できないことだ。このような閉鎖空間だと、ちょっとした悪口 ( 「あそこの店主、態度悪いよね」 ) が消えないままずっとつづくことになる。

その代わり、新しいライバルが現われることはないのだから、競争率はものすごく低い。どこにでもある商品をふつうに売っているだけで、とりあえずお客さんが来て商売が成り立つ。

これがゲームの基本ルールだとすると、どういう戦略が最適だろうか。それは、「失敗するようなリスクはとらず、目立つことはいっさいしない」 だ。なぜなら、いちどついた悪い評判は二度と消えないのだから。

このように、伽藍の必勝戦略は 「悪い評判 (失敗) 」 をできるだけなくすことになる。こちらは 「ネガティブゲーム」 だ。

伽藍とバザール

最後に、固定的というところでいきますと、すでに階級やライフスタイルが安定的なモデルがありましたので、それに合わせた計画なども立てやすく、見通しが立てやすいので最初に描いた計画に従うように生きることが正解となっておりました。

終身雇用で定年まで働くといったこともこれに近いですね。年功序列で明確にいくつになったらもらえる年収というのが決まってる制度も合理的になります。

さて、ここまでの話をまとめると次のような飄々とした生き方とはかけ離れた形がやはり合理的だと言えるでしょう。

  • 受動的にミーハーに生きる

  • 政治的に長いものには巻かれて生きる(または逆に反骨精神で執着する)

  • 保守的に見通しを立ててそれ通りに生きる

※今の時代の皆さんには少し悪いように聞こえるかも知れませんが、これがとても合理的だった時代があり、飄々と生きるというのも次の新時代だから合理的に見えるだけでまた時代が変わればそれが悪いように聞こえるかと思います。例えば、終身雇用という例を出しましたが終身雇用は戦前・戦中に型はありつつ戦後に一気に普及しましたので、普及してからはまだ80年ほどの間で合理的だっただけです。

■新時代のパラダイムと飄々としていること

さて次は新時代がどう変わるか?というところです。前回noteで次のようにまとめました。

  • フラット化

  • 陽的

  • 流動的

まずは階級的なものが無くなり、フラットに個々人の人ごとに多様化した極ができる時代になります。
こうした時代では、1つの正解というものが無いので、自分軸を持って自分の中の正解やリテラシー自己理解が一転して重要になると言えます。

ロールモデル的なものがないからこそ、自分にとってのロールモデルやどのように生きたいか?ということ、自分の頭で考えて生きることがまさに求められていくと言えます。なのであえて階級的なものもないのに、本当の自分とは違うもので取り繕ったりする必要がなくなります。

逆に取り繕ってまで群れない、気の合う人にリソースを投下する(自分と全く意見が合う人という意味ではないです)人間関係の断捨離が重要になるとも言えます。ここでも自己の選択が大事になります。(これも多様化して1つのコミュニティや極に縛られないためにできるようになったことです)

またいろいろな人がいる中では自己理解をして、自分はどういう人なのか?ということをインフォームドコンセントすることがますます重要になります。そのために自分のトリセツのようなものをみんなが持つ時代になると言えます。下記記事ではまずメンバー全員のトリセツを作るところから心理的安全性が作られると話しております。

次に陽的なところで、陽的というのは活動的・形のないもの・外向きオープンということでした。

まずは自律的に自分軸を持つことで、より活動的に自分のやりたいことをして動けるほうがよりうまくいきます。例えばYoutuberという一時期小学生のなりたい仕事ベスト3にも入ったところが時代の変わり目を迎えてます。

実は従兄弟がイラスト系のYoutuberで銀の盾をもらっているのですが、Youtuberの苦境と言っても二極化しているとのこと。大手どころの何でも面白くやる的なYoutuberは芸人なども参入してプロの話し手には勝てないため負けているが、元々好きなものを極めていてそれを発信しているニッチ系Youtuberは根強い人気があるということです。

ここからわかることは、実は前者のYoutuberは活動的な新時代に見えて、受動的にYoutuberがなんか面白そう、人気になりたいという旧時代的な価値観でやっていることが影響しているのではないか?ということです。
一律のそうした基準みたいなものは多様化の中で消えるため、実態が旧時代的なものはスタンスとして凋落していきますが、後者のYoutuberのように自分の好きなものや極めたいと思うものを進めるもは、自分軸的な意味でも取り繕わない的な意味でも、新時代的な陽的・フラット(多様化)時代なので上手くいくことがわかります。

さて次に若者の◯◯離れというのがよく言われますが、これは形のないもの・体験への変化と言えると思います。

これまでのように他人の測るモノサシで一般的にみんなが良いとされるものに縛られる必要がなくなったため、こうした◯◯離れが起きているのでしょう。

外向き・オープンということですと、これまでの話とも被りますが、あえて1つの組織に縛られてその中の論理やルールのしがらみに囚われるのではなく、多様な極で捉えどころなく生きることがより求められます。

もし1つがビッグモーターやジャニーズのようなやり方をしても、多様な視点で拠点を持っていると、そこがいかに全体社会とズレて異常であることを麻痺せずに感じることができます。またその1つの組織にしがみつく必要もないので、すぐにポートフォリオのバランスを変えれば良くなります

時代の流れが見えていると、泥舟からはさっさと降りて違う船に乗り換えるということが容易にできるということでしょう。

最後に流動的というところでいくと、まずは流動的に世界がVUCAの時代と言われるように動く中では、執着固執は変化する中で足かせにしかなりません。
過去の成功体験や、これまでの常識みたいなものがどんどん変わっていく中では無意味になることは、下記のようにスマホ化が進む中でPCに固執するということでも見えてきます。

1つの安定的な見通しを立てるやり方ではなく、アジャイルに変化に適応して自身を学習し変容させることが大事になるといえるでしょう。

また前回のnoteでは、新時代の皮を被った旧時代的な考え方の恐ろしさについて話しました。先程の二極化するYoutuberもそうですが、一番顕著に見えるものは、俗に言うリベラルな人の行き過ぎた自由の主張です。それが本来のリベラルとも逆行しているとも話しました。

こちらに関しては多様化していろいろな考え方を持つ時代は、寛容さが大事になりそのためには「余裕がある」という飄々としていることの特徴が生きてくると思います。

さいごに

さあここまでで新時代ではなぜ飄々と生きることが求められるのか?というのがわかってきたかと思います。

もう皆さんは新時代の方向性的なものはすでに掴めていて、逆に怖いのは新時代の皮を被った旧時代的な考え方かと思います。
例えば飄々と生きるのも、新時代で生き残るために!新時代で成功するために!といった形で捉えると自己矛盾に陥ります。(こうしたことを設計不可能性というテーマで以前noteに書きましたので興味ある方は御覧ください)

ぜひこうした皮を被る行為で着飾る・取り繕うのではなく、ほんとうの意味で自分軸を持ってOS自体をアップデートして新時代へのパラダイムシフトを進めてもらえればと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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