仮面舞踏会

 城は、まるで閉ざされた箱庭。外界から完全に分断された、自由のない世界。リアルな外の世界を一切知ることができないまま17年。王族に生まれたことを後悔するのにも飽きた。そんな窮屈な世界で唯一の娯楽が、仮面舞踏会だ。15歳になると参加できるようになるそれは、自分の立場や身分を忘れ国から解放される時間でもある。
 仮面舞踏会はその名の通り、仮面をつけて参加する舞踏会である。相手の素性を知ることは許されない。国も、立場も、年齢も、ひとつでも話してしまうと、もう参加することはできなくなる。文通などももちろん禁止だ。噂によると、参加者は王族だけではないという。城の使用人や執事、兵士なども参加していることもあるらしい。彼らも皆華麗なドレスに身を包み、普段の自分とは違う自分で踊る。
 どのくらいの頻度で開催されているかは謎だ。参加申請などは不要で、いつ行っても必ず踊っているので毎日でも開催されているのだろうか。厳しいこのルールは誰でも知っているのに、どこか謎の多い舞踏会でもあるのだ。

「ねえノア。久しぶりに仮面舞踏会に行かない?」
「久しぶりって、先週行ったばかりじゃない」
「いいじゃない。こんな暮らししてたら息が詰まるし、ときめきも必要よ」
「それもそうね。わたしもときめきたいかも」
「決まりね! 着替えてくるわ」
「うん」
 リミーは最近15歳になったばかりで、仮面舞踏会に一度連れて行ってから味を占めてしまったようだ。もともと昔から仮面舞踏会には強い憧れがあったようだが、わたしまでこんなに連れ出されるようになるのはまったくの想定外だった。しかし行くまでは面倒で行ってしまえば楽しめるもので、近頃はわたしも仮面舞踏会の虜になりつつある。……こう思っている時点で十分虜になっている気もするが。
 仮面舞踏会の為に集めたドレスは最近急に増えた。リミーの影響だろう。所狭しと並ぶドレスは色とりどりで、そのどれもがまるで“わたしを選んで”と言わんばかりにキラキラしている。その中から、特にお気に入りのネイビーのドレスを手に取った。このドレスはコーラルという宝石で装飾されていて、ドレスのネイビーとコーラルの赤のコントラストがとても美しい。それに合わせてアクセサリーも赤を選び、仮面はドレスと同じようにネイビーにコーラルの宝石のついたものを選んだ。
「ノアって本当にそういうドレスが好きね」
 身支度を済まし乗り込んだ馬車で、リミーは理解できないという顔で言った。
「いいじゃない。わたし、ピンクとか似合わないの」
「えー、持ってないくせに何言ってんの。着てみてから言ってよ」
「着なくてもわかるの」
「本当、ノアって人は」
 そう行ってため息をついたリミーは、明るいピンクにサファアイアの宝石がついたドレスを着ている。わたしとまるで対照的な見た目のリミーは性格まで対照的だ。明るく活発で、どんな時でも楽しむ為の努力を欠かさない。人懐っこくて、リミーと話した人はみんなリミーを好きになる。仮面舞踏会でも、いいと思った人にはいつも自分から話しかけて踊る。
 そんなリミーがわたしの憧れで、最大のコンプレックスでもある。どうしてわたしが先に生まれたのだろう。リミーが先に生まれていれば、この国のプリンセスとして最初に嫁ぐのはリミーだった。リミーが先に嫁げば、この国のイメージはもっと明るくなるのに。どうしてわたしはリミーのようにできないのだろう。普段の舞踏会ではプリンセスは待っているだけなので、王子が話しかけてくるのを待っていればいくらでも踊れる。しかし仮面舞踏会ではリミーのように積極的な子ばかり選ばれてしまって、わたしは売れ残りだ。仮面舞踏会の自由なこのシステムが、わたしの悪いところを顕著に現してしまう。仮面舞踏会は好きだ。でも、苦手だ。こんな気持ちを知らないリミーが心底羨ましい。
「到着しました」
 御者の声で我に帰ると、すでに会場に到着していた。
「着いた着いた! ノア、行こう」
「……うん」
お気に入りのドレスなのにいつもより少し暗い気分で、わたしは馬車を降りた。

「あ! あの人かっこいい。行ってくるね!」
 会場に入った瞬間、リミーは好みの人を見つけたようであっという間に人の中に消えていった。取り残された私はいつも通り、広い会場の端を歩いた。一人で真ん中を相手探しをしながら歩く勇気なんてわたしにはないから。……今すれ違った人、好みだったな。リミーならすぐに話しかけに行っていただろうな。あ、噂をすればリミーだ。がっしりした体型の男性と仲良さそうに話している。相手は兵士かな。もうあんなに仲良くなったんだ。すごいなあ。
 今日は特別調子が悪いみたいだ。いつもならこうやっていれば話しかけてくれる男性もいるのに。気分がどんどん落ち込んでいく。一人で馬車に帰ろうかな。そんなことまで考え出した時だった。知っている匂いがしたのは。香水ではない。幼少期に大好きだった湖の優しい匂い。隠れて通っていたのがバレてから行けなくなってしまったその湖で、いつも仲良くしてくれた男の子がいた。どこの誰かも知らない、歳も知らない、男の子。仮面舞踏会ごっことか言って、顔に大きな葉っぱを被って二人で踊った。音楽は湖の波の音で、床は草の生えた地面だった。優しい音の湖の、あの匂いだった。
 あんな湖、わたしが知らなかっただけで行っている人なんてたくさんいるだろう。違う誰かの可能性の方がずっと高いだろう。見つけたとろで、今までみたいに話しかけることなんてできないだろう。そう思うのに、その匂いが私を離してくれない。誰? この匂いは誰の匂い?
「……!」
 もう10年以上前の記憶。見た目なんてぼんやりとしか覚えていない。ここでは皆顔の上半分を隠している。わかるわけないと思ったのに。遠くの方に私の胸を掴んで離さない人がいた。忘れもしないあの柔らかそうなブロンドの髪。真っ白な肌に特商的な口元のほくろ。笑った時の口の感じも。あの時のまま。女性を手を振り合い、別れるところだ。今行けば、話せる。そう思うと、心臓が勝手にドクンドクンと動き出した。まだ行くと決めてもいないのに。もちろん行くよねと、うるさい心臓と震えた指先が急かしてくる。ああ、見えなくなってしまう。行かなくていいの? なんて、私自身まで急かしてくる。怖い。いつもかっこいい人も目で追っているだけなのに。本当に行くの? わたしにできるの? そんな心とは裏腹に、すでにわたしの靴はいつもよりずっと早いペースで走っていた。

「ぁ、あのっ」
 振り向いた男性がこちらを見ている。踊りましょうとも言わないわたしを見て、不思議そうにしている。仮面から覗くアンバーの瞳は間違いなく、昔幾度となく見てきたあの瞳だった。
「昔、あなたと会ったことがある気がするんです」
「はは、面白い誘い文句だね」
え、と声が出そうだった。違う、そうじゃない。本当にそんな気がするの。信じてよ。そんなわたしの心の声が届くはずもなく、彼は左手を差し出した。あの頃の無邪気さを残した、紳士な笑顔だった。
「ぜひ、一緒に踊りましょう」
「……」
 わたしの返事を待つことなく、彼はわたしの手を取って踊り始めた。あの頃と同じ手なのに、あの頃よりずっと大きな手で。あの頃と同じ声なのに、あの頃よりずっと低い声で。でもあの頃と同じ笑顔で、彼はあの頃のように話しかけてきた。
「あなたみたいな誘い方をする女性は初めてです。最後まで、今夜は僕と踊りませんか?」
「は、はい」
彼はわたしの正体にまったく気づいていないようで、それがとても寂しくもどかしかった。
「あの……」
「ん?」
「ずっと昔、ある湖であなたとこうやって踊ったことがある気がするんです。わたしのこと、覚えていませんか?」
彼と繋いでいる手は情けなく震え、声は消え入りそうだった。彼の名前は確か──。
「レオ」
「ここで、名前を出すのは……禁止されているはずですよ。ルールをご存知ないですか?」
「いえ、すみません」
「聞かれていたら、僕まで追い出されるところでした」
「ごめんなさい」
「でも、この場で相手に思い出の人を重ねて見るのは自由です。今夜、僕はその人になりきってみましょう」
あくまで余裕そうに笑う彼。もしかして、レオではないのだろうかとさえ思い始めた。ずっと会いたかった人が目の前にいるかもしれないのに、なんだか目の前にいる人がほんの少し怖く感じられた。それでも、彼はどこか暖かかった。
「いつも気に入った男性に話しかけているっていう噂の女の子は君のことかい?」
リミーのことのようだ。リミーはここで有名人なのか。凄いなあ。
「いえ、違います」
「そっか、ごめんね。君、結構人見知り?」
「あ……はい、多分」
「はは、多分ってなにさ。絶対そうじゃん」
「……すみません」
「何に謝ってるの?」
「ひ、人見知りなので、うまく話せなくて申し訳ないなって」
「人見知りは悪いことじゃないよ。それに、うまく話せなくても君といるのは居心地がいいからそれでいいと思うよ」
「へ……」
そんなこと、初めて言われた。人見知りは悪いことで、直さないとやっていけないと思っていた。うまく話せなくても、そんなふうに思ってくれる人はいるのか。そう思うだけで気持ちが楽になった。踊りながら、彼とはたくさん話をした。湖で一緒に踊った男の子の話も、少しだけした。
「会いたいなら、会いに行くべきだよ。城に決まりなんかに意思をねじ曲げられちゃだめだよ。君の人生なんだから」

ゴーン、ゴーン。

 仮面舞踏会終了の合図の鐘が鳴った。目の前の彼は本当にレオだったのかわからないまま、彼とわたしはお礼を言い合った。
「今夜はとっても楽しかったよ。もしも次ここで会えたら、ぜひまた踊ろう」
「はい」
また、心臓がドクンドクンと鳴った。
「あの!」
去っていく彼の背中に声をかけた。最後の挨拶をしたら振り返ってはいけないルール。彼は立ち止まらないが、一縷の望みをかけて言葉を続けた。
「明日、あの時の湖で会いましょう」
彼の背中は、そのまま見えなくなった。
「ノア? どうしたの、いつもと様子が違うわ」
「……なんでもない。気にしないで」
 帰りの馬車の中。リミーに心配されるほど、わたしは明日のことしか考えられなかった。明日は習い事の予定がたくさん入っているし、あの湖は未だにいくのは禁止されている。しかし、何があってもわたしは行くつもりだった。彼の言葉のおかげだろうか。いや、そうに違いない。なんだか、やけに気分がスッキリした夜だった。

 次の日。わたしは朝からあの湖で待っていた。使用人が起こしにくる前の、まだ薄暗い時間。普段あまり人が使わない通路から城を抜け出し、小走りでここまでやってきた。昨日の彼がレオだという確証ははかったが、なぜか絶対に彼がくるという自信があった。
 陽が高くなり、また低くなり、オレンジ色になった。誰も来なかった。陽が沈み、月が出た。わたしはまだ待っていた。星が湖面に反射しているのを眺めていると、草を踏む足音が聞こえてきた。
「ノア?」
「レオ!」
やっぱり、昨日の彼はレオだった。あの頃の面影を残したレオは、爽やかな男の人になっていた。嬉しくて、嬉しくて、思わす彼に抱きついた。
「遅くなってごめん。久しぶり。……ってのもおかしいか、昨日も会ったのに」
「ふふっそうだね」
「名前を呼ばれた時、すぐにノアだって思ったよ。知らないふりをするの、本当に大変だった」
「あの時レオじゃないんじゃないかってすごく不安だった」
10年以上ぶりに会ったレオは、あの頃から何も変わっていなかった。会えなかった時間を埋めるように、夜が更けてもずっと、わたしたちは話していた。

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