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手の痕跡

2023/10/21

午前からデッサン。顔に集中した2時間だった。 顔の表情は少しのズレで印象が変わるため、よーく観察!。今回は目と唇を重点的に整形。
こめかみや右側の影、もう少し濃く。 下顎の影や骨格の変化は明確に。 次回は、下部を進めます。

私にとって、絵を描くとは、瞑想である。noteで文字を綴るときも自分と向き合う=それ以外のことを考えない時間になる。こんな時間はとても貴重だ。何事にも代えがたい時間ともいえる。ドローイングは目の前のオブジェクトと向き合い、紙や鉛筆の物質性、わずかな音、そして自分の身体の動かし方。普段は見つめない物事と向き合う時間でもあるのだ。

ドローイングを始める前に画集を鑑賞する時間が設けられている。
今回渡された画集は、ゲルハルト・リヒターだ。

歴史を再解釈、再構築する彼の作品は、ゾワっとするけど、つい見てしまう。 森林や波紋をぼおーっと眺めるのと同じようだが、彼の作品はなぜか見ろ〜という圧が感じられる。

「私はもはや画家ではなく、Bildermacherと名乗るべきかもしれません。」

ゲルハルト・リヒター

「塗る/描く」行為を語幹に持つ「画家=Maler」ではなく、より広く「イメージ」「像」そして「写真」をも意味する単語「Bild」を用いて、ビルドをつくる人(イメージメイカー)と、自称するのは当然のように思われるかもしれない。

画材屋で見かけた色見本を忠実に描いたという意味では再現描写ともいえる。しかし、<ストリップ>には作者の「手」の痕跡が見られない。絵画的なファクチュール(仕上がり・風合い)を見出すことができない。
また、どちらも非構成的、かつオールオーヴァーな画面だが、<ストリップ>は格子状ではなく、ほとんどの場合、水平方向である。今回の出品作品のように大きく横に長い作品の場合、それはこの作品の前に立つ者の視野を超え、色の広がりが無限に続く印象を与える。さらに色の帯が浮かび上がったり奥へ遠のいたりして三重、対象との距離間隔が失われる。スペクタクルかもしれないが、崇高ではない。数学的、技術的に計画された画面から生じる浅浮彫のような視覚がイリュージョンの上を私たちの視点は、ただ「横滑り」していく。

桝田倫広

この作品解説を読んで、私は「私たちの視覚は無意識に2次元でもわずかに表面の凹凸を立体的に知覚している。」のではないのかと思った。

アナログの良さは、偶発的なある種の余剰としてのタクト[手触り、触覚、気配]が産み落とされることなのではないか。

リヒターのドローイングでは、紙の上を行き交う作家の手の動きの痕跡がはっきりと読み取れ、それが親密さをも喚起する。「動作とは何か。行為のおまけのような何かである。行為は多動的である。単に、対象を、結果を出現させようとする。動作は、行為を大気圏で取り囲む動機、欲動、怠惰の、無限定で、汲み尽くすことのできない総和である」とトゥオンブリーについて述べるロラン・バルトの見解は、リヒターのそれにもある程度当てはまるように思える。何らかの明確な目的---何かを縁取り、表すこと---を志向することなく、線はためらい、震え、その結果、ある種の余剰としてのタクト[手触り、触覚、気配]が表出する。

桝田倫広

我々が実際に作るものには「手」もはや我々の身体、それを取り囲む複雑な精神的、物理的、環境要因による痕跡が投影されているものだと捉えることができるだろう。それが「美学」につながるのだろうか。

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