ノーラン「反復と加速」
映画『オッペンハイマー』についてです。
ネタバレ。
あらゆる映画監督が持つ、フェティシズム。これはマルクス用語だったが、いつからか様々な意味を持つようになりました。
この場合は、カットの持つフェティシズムに対する異常なまでの執着という点です。
現代思想への影響は、フロイトは心理学的な描写が映画のほぼ全てだと言えるし、ニーチェは、プロメテウス的な存在として、思想家からノーランまでに特別視されている。
この点で、ニーチェは、左派加速主義的な初期ポストモダンの硬直性を過激化したもの。現実では役に立たなそうだが(批評的な意味です。誤解を招き易い思想だからです。)。
ノーランの文脈では、そのテーマが引き出されて、物語が生き生きと展開するためのマシーンだと思います。加速主義を昇華している。
話しが脱線したのだが(汽車は重用なモチーフ。後述。)、要するに、フェティシズム的なカットの執着でした。
事物(物象)が、繰り返す対象を、その出現によって暗示するような何かを表している。
パワーアップアイテムとして登場する事物は、ジブリのラピュタでも同様で、そのアイテム自体が意味をなす。
この作品では、球体や入れ物などの、あらゆる静物についての反復と加速が印象的です。
そして、オッペンハイマーの帽子は、笑い出す。(かのような非現実。帽子のシーンと脱帽しているシーンは、ランダム性があるものの意識して撮りわけているように思えます。)
それよりも、全てのジブリ作品とノーランのテーマの一致については強調したいところです。
アートは哲学であるか。そう自問します。
アートの引用として、汽車は宮崎作品の主要モチーフであったし、それがとりわけ『風立ちぬ』では、シュールリアリスムのマグリットとして煙を伴う推進する事物でした。
エリオット『荒れ地』は、映画『地獄の黙示録』の重用なテーマでした。
これは、シュールリアリスムの文学詩運動からの展開という意味で、非常に重用ですが、ビジュアル面よりもテーマを重視する。
オッペンハイマーの内面を、表現する映像に、あらゆる非現実は、ここは現実では無い事が強調され、あまりの加速に落ちない様に、その場で、じっとする事しかできない。
(主人公の心理描写が重要です。なぜ、この表情なのか。)
プロメテウス的に、その全てを侵食し、再生する。その繰り返しのモチーフ。
その恐怖の中でも、物語の巧妙さと、優れた会話劇による、そこに救われる様な感覚になり作品として暗いテーマを上手く表現している。この点が高評価です。
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